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第4話 人工池の恋

阪急芦屋川駅からタクシーで坂を上るにつれ、街並みは少しずつ別世界のように変わっていった。

白壁に覆われた塀の向こう、刈り込まれた庭木の奥に屋敷が沈んでいる。道には人影がなく、風が通るたび、どこかの庭で竹の葉が擦れる音だけが響いた。


六麓荘。平蔵が口にしていた地名だ。

「戦後すぐ、あそこの旧家が蔵を手放した。珍しい香炉を譲ってもらった」と。

その香炉を引き取りに来てくれと、突然、屋敷の主から平蔵に連絡があったのだ。


タクシーを降りた瞬間、坂の上の空気が変わった。

住宅地というより、ひとつの時代が柵の向こうに保存されているようだった。六麓荘。瓦のひとつまで手入れの行き届いた屋敷が並び、門扉の隙間から覗く庭の松までもが、呼吸を潜めている。


「ここです」

運転手が指さしたのは、格子入りの鉄門の奥に広がる白亜の屋敷だった。門柱には小さな真鍮の表札が光り、「大黒」と彫られている。

平蔵がかつて贔屓にしていた呉服商の名だった。戦後間もなく、古美術にも手を伸ばし、一代で財を成した男――その創業者がこの屋敷の主。


門扉の前に立つと、黒光りした鉄が冷たく手のひらに伝わった。呼び鈴を押すと、すぐに内側から足音がした。

音は軽く、けれどしっとりとした草履の擦れで、やがて門の向こうに人影が現れた。


現れたのは若い女性だった。

淡い藤色の物を身にまとい、帯の柄は薄金の流水。髪は低く結い、頬には白磁のような光沢がある。まるで京人形が呼吸を得て歩き出したようだった。


「平倉様でいらっしゃいますか」

透き通るような声に、一瞬、返事が遅れた。


女性は恭しく頭を下げ、続けて微笑んだ。

「今は、祖父は床で休んでおりますが。香炉の件ですね。どうぞこちらへ」



門が開かれると、石畳の小径が玄関へ続いていた。両脇に植えられた槇の生垣が風を遮り、沈黙のような涼しさが漂う。


玄関扉の向こう、格天井の広間には、香のほのかな匂いが満ちていた。

彼女の歩みの後をついていくと、畳の上に差し込む午後の光が、彼女の着物の裾を淡く照らした。

指先まで所作の整ったその姿に、悟は、単なる旧家の孫娘以上の何かを感じた。石畳の小道が緩やかに曲がりながら邸宅の玄関へ続いていた。左右には苔むした石灯籠と黒松。軒下に吊られた風鈴が、微かに鳴った。


屋敷は昭和初期の建築らしく、洋館と和館の折衷だった。漆喰の壁に木製の格子窓。玄関を踏み入れると、磨き込まれた床板に影が落ちる。


応接間に通されると、天井の高い部屋に、古い香木の匂いが漂っていた。窓辺には古びた書棚と油絵、壁際には黒漆塗りの飾り棚があり、その中央に、それは鎮座していた。

青磁の香炉。三つ脚の獣が支え、蓋には雲の透かし彫り。時間の重みを吸いこんだように、鈍く深い光を放っている。


「お祖父上が戦後にお求めになったものです。ずっとこちらで保管しておりました」

彼女の声は、静かながらどこか惜別の響きを帯びていた。


悟は香炉に目を落としながら、何故、この屋敷の主が平蔵に引き取らせたのか。その理由をまだ知らないままだった。

外では、坂の上の風が、ゆるやかに松の枝を揺らしていた。


庭にある人工の池に目が止まった。小学生の頃に「いきものがかり」に任免されて、教室に在った水槽の生き物に、エサを与えたり、水の交換をしていたことを思いだした。


「あの池が気になりますか?」

悟の視線に気づいた綾乃が尋ねた。


「はい。近くに行ってもいいですか?」


「ええ、どうぞ」

綾乃は楽しそうに答えた。


「この子たち、私を見つけると近づいて来るんです。」

愛おしい眼差しで池の鯉を見つめる。



「世話をしてくれたり、エサをくれる人を覚えているんですよ。それにしても、綺麗で立派な鯉ですよね。」

色鮮やかに、優美に泳ぐ鯉を眺めながら言った。


「祖父が業者さんに依頼して、見つけてもらっているみたいです。業者さんからは、一尾、200万円くらいとか聞いたことがあります。」


「200万円!」

あまりにも次元の違うカルチャーショックに耐えながら、自制心を保つ。


埃っぽいシャツの襟、擦り切れた靴。

まるで別の世界の人間が、ふと紛れ込んだようだった。


門までの石畳を歩く間、綾乃が後ろを静かに歩いてきた。

「お足元にお気をつけください」

その言葉が、妙に現実味を帯びて胸に響く。


門が閉じる音がした瞬間、鳥の鳴き声がどこか遠くで弾けた。

坂の下には、いつもの町が広がっている。コンビニの看板、バス停の列、排気ガスの匂い。

すべてが急に、生々しく、懐かしく思えた。


香炉の入った桐箱を抱え直し、悟は深く息をついた。

あの家の中では、時間そのものが別の速さで流れていた。

まるで金と歴史が、ひとつの生き物のように息をしていた。


彼は振り返らずに坂を下った。

背後では、六麓荘の屋敷群が、午後の光の中に沈黙の城塞のように佇んでいた。

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