騒音
「引っ越してきてよかったわね、あなた」
妻の笑顔に、私は幸福を覚えた。
田舎の空気は澄み、小鳥の囀りが気持ちを落ち着かせてくれる。
すぐ近くを流れる川のせせらぎの音がまた、よかった。サラサラと、ぱしゃぱしゃと、心が穏やかになる音を絶え間なく聴かせてくれる。
私の名前は聞池該。けっして『キキチガイ』でも『キチ○イ』でもないので間違えないでほしい。
60歳になったのを機に、郊外の川のほとりに家を買った。これからここで作家の仕事を続けながら、妻のアネモネと二人、静かな余生を過ごすつもりだ。
娘の心美がいいトシをして結婚する気配もなく、自分のことを永遠の19歳だとかバカなことを言っているのが気がかりではあったが、あの子ももう大人だ。自分でなんとかするだろう。放置する。
田舎暮らしは思った以上に快適だった。
1ヶ月も住めば飽きてくるかと正直心配していたが、住めば住むほどに馴染んでいった。
車で20分も走れば町があるし、今時ネットでなんでも買い物ができ、配達してくれる。
便利はないが、不便もない。そして自然は周りにいっぱいある。
妻も心が落ち着くといって、気に入ってくれた。
私たちは田舎暮らしが合っていたようだ。
木々に囲まれ、川の水音に包まれていると、都会の住宅地には音がなかったなと改めて思う。みんなが近所に迷惑をかけないように、息を潜めるように暮らしていた。
あれと比べればここは色んな音に溢れている。
それでも都会よりも静かだと思えるのが不思議だった。
甥のフリードリヒくんがやって来ることになった。
彼は25歳のITエンジニアをやっており、静かな田舎で仕事がしたいと、私たちがここに移り住んだことを聞き、空いている2階に住まわせてほしいと言って来たのだ。
妻の弟の息子だ。私に気を遣って、妻は初めは断ろうとしていた。しかし私は歓迎しようと笑顔で言った。
会うのは彼が中学生の頃振りだ。少しだけ気難しいところがあったが愛想がよく、美少年で印象はよかった。
何より男の子のできなかった私たち夫婦に息子ができるような感覚で、楽しそうに思えたのだ。
「お世話になります」
そう言って玄関に現れたフリードリヒくんは、太っていた。
昔はあんなにスリムだったのに、何があったのだろう? IT関連の仕事をしていると太ってしまうものなのだろうか?
とはいえドイツ人ハーフの美少年の面影はあった。目の下のクマのせいか、昔よりも気難しそうな印象は強くなったが──
大きなボストンバッグを二つを抱え、キャリーバッグを引いていた。
思わず私は彼に言った。
「大荷物だね。なんでも要るものがあれば用意したのに……」
「いいえ、おじさん。仕事道具と衣類、枕──そしてお菓子だけですよ。僕は自分の使い慣れたものと、いつものお菓子でないとダメなんで」
時間はちょうど正午前──妻がご馳走を作って用意していた。
近所──といっても100メートル離れているが、老夫婦がよく野菜や魚を持ってきてくれる。お返しにあげられるものは何もないのに、いつも笑顔で気前がいい。困ったことがあれば力になりますよと言ってあるが、いまだその機会はない。
いただいた鮎を塩焼きにし、保存しておいたタケノコなどの山菜と一緒にふるまうと、フリードリヒくんは悲しそうな顔をした。
「僕……、ハンバーグととんかつしか食べられないんですよね」
「そ……、そうだったかな」
「昔からそうでしたよ。覚えてくれてなかったんですか?」
「まぁ! ごめんなさいね」
妻が笑顔で謝り、冷凍の挽肉を取り出し、急いでハンバーグを作りはじめた。
私たちは鮎の塩焼きを、フリードリヒくんはハンバーグを食べながら、川のせせらぎを見下ろすキッチンで会話をした。川面がキラキラと夏の光を浮かべ、草が風にゆっくりと揺れていた。
「ここはなんにもないよ? 退屈しないといいけど」
私が聞くと、彼は『わかってます』というようにうなずきながら、言う。
「電波は届いてるんでしょ? Wi-Fiさえ使えればいいんです」
「都会の生活に疲れたのかい?」
「フリくんは都会のほうが合ってそうだけどねぇ」
私たちが聞くと、彼は嫌なものでも思い出す目をして、答えた。
「都会は声が多すぎるんです」
「声が?」
「ええ……」
ハンバーグを口に入れると、もしゃもしゃと咀嚼する音と一緒に、フリードリヒくんは言った。
「みんな静かに暮らしてますけどね、心の声がだだ漏れなんですよ。僕のことを『わけのわからないひと』だの『自分を偉いと勘違いしてるやつ』だの、勝手な評価をしてるのがバレバレなんで」
「まあ!」
妻が彼を擁護した。
「ひどいわ……。フリくんはそんな子じゃないのに」
『僕の何を知ってるんですか』というような顔をフリードリヒくんは一瞬したが、最後の一口を平らげると、ぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした。美味しかった。……それじゃ、2階をお借りします」
引っ越して1年と少し経っていた。
冬は雪の多さに辟易したが、夏はじつに過ごしやすい。
遠く隔てた隣人の老夫婦は『昔はもっと過ごしやすかった』と言っていたが、それでも都会よりはずっと涼しくて、何より心を癒してくれる音に溢れている。
自然の音に包まれた、静かな夜だった。
私と妻はベッドに並んで寝転び、その音に全身を傾けていた。
川の水の音が涼しい。
蛙たちの大合唱が、この星に生命が満ち溢れていることを伝えてくれる。
「ここはほんとうにいいところだ……」
私は呟いた。
「生きてるって、こういうことだったんだな」
妻がぽつりと言った。
「フリくんも気に入ってくれるかしら」
私は微笑み、答えた。
「気に入るよ。あの子、昔から感受性が高かったろ」
「ふつうの若いひとなら1ヶ月ももたないでしょうね。ふふ……。でもフリくんなら──」
「あぁ。川の水音に自然を感じ、蛙の合唱に生命を感じ……」
2階でおおきな喚き声があがった。
誰かと喧嘩しているようなその声に、私たちは思わずベッドから飛び起きて、天井を見、顔を見合わせた。
「な……、なんだ?」
「フリくん……?」
2階に駆け上がり、ドアをノックすると、申し訳なさそうにフリくんが顔を覗かせた。
「あ……。すみません。おおきな声、出しちゃって──」
「いや、どうしたんだ?」
「虫でも部屋に入ってきた?」
「いや……。音が……」
フリくんは苛々した手つきで頭を掻くと、告白した。
「音がうるさくて……。あの川の音と蛙の声、どうにかならないんですかね」
意外な答えに私たちは顔を見合わせた。
朝、妻と二人で朝食の目玉焼きハンバーグを作っていると、2階からフリくんが降りてきた。
「おう。よく眠れたか?」
私が聞くと、彼は眠たそうな目をこすり、答えた。
「眠れませんでした。あまりにうるさくて……」
そして食卓に着くと、驚くことを言い出した。
「あの川って誰が作ったんですか?」
冗談かと思いながら、私は答えた。
「そりゃ……自然に、昔からあったんだろうな。いくらかは人間が作り替えたんだろうけど──」
「蛙は? 誰があんなにたくさん設置したの?」
「あれも自然のものだよ。……って、それ、冗談で言ってるんじゃなくて? 本気?」
私の問いには答えず、彼は目玉焼きの黄身を崩してハンバーグにかけながら、忌々しそうに言った。
「あの川、撤去してもらいましょうよ。あんなもの、いらない。あと蛙は誰も持ち主がいないのなら、薬でも撒いて根絶やしにしましょう。あの騒音さえなければここはいいところだと思うんだ。虫は都会にもいたけど、あんなのはなかった」
「おま……、本気で言ってるのか? 川は自治体が管理してるんだぞ? 勝手なことは……」
「だから! その自治体にかけ合って、撤去してもらいましょう」
テーブルを叩く拳の強さがフリくんの本気を物語っていた。
「撤去できないならせめてあの音をなくしてもらいましょうよ! 住民が迷惑してるんだ、税金を払っている僕らには権利がある!」
そしてフリくんはほんとうに、自治体に電話をし、川の撤去と蛙の駆除を要請したようだった。
当然のように軽くあしらわれたようだったが──
その夜も、フリくんが2階で悲鳴をあげた。
夜じゅう声が聞こえるので、私たちもほとんど眠れなかった。
「都会へ帰ったほうがいいんじゃないか?」
朝、トマトハンバーグを食べる彼に提案すると、フリくんは眠そうな目をこすりながら、首を横に振った。
「言ったでしょ。都会は雑音だらけなんです。声が、多すぎる」
「でも……」
妻が優しく言った。
「川の音や蛙の声に慣れないんじゃ……、田舎でもやって行けないでしょう?」
「……正直、こんなに騒音だらけだなんて、意外でした。おじさんたちはどうして平気なんですか? あんなにうるさいのに──」
「私たちには心地良い音にしか聞こえないのよ」
妻が答えた。
「うるさいなんて思ったことは一度もないわ」
私は大根の煮つけを箸で割りながら、思うところあって彼を誘った。
「どうだ? 飯を食ったら一緒に外を散歩してみないか?」
短い林を抜けるとすぐに川へ向かって下りる泥の道がある。
妻と私はもう何度もここを通って川岸へ行き、川の水にも触れていた。
水はとても透き通っていて、水底の玉石や、たまに泳いでいる魚や小エビなども見ることができる。
この水音をうるさいと感じるのは、音だけを聞くからだ。音を立てている美しい川を見せ、こんなに美しい景色が奏でている音なのだということをわからせれば、フリくんもきっと受け入れてくれるだろうと思った。
セミの声が私たちの頭上を埋めていた。これも昔はもっとけたたましかったらしい。数が減ったのだろう。異常なことなのだろうが、かえってちょうどいいぐらいの音量になっていた。
天気がいいのに夏の水際は涼しい。都会ではありえないくらいだ。冷たい空気を呼吸しながら、私はフリくんを振り返った。
「どうだ、フリくん? 気持ちいいだろう?」
「わっ……! きたなっ!」
フリくんは靴底についた泥を見て、顔に嫌悪の色を浮かべていた。
「ほら見て! エビがいるわよ。かわいい」
妻がそう言って川の中を覗く。
「水も冷たくて気持ちいいわよ? ほらフリくん、手を浸してごらん?」
「き……、きたないですよ、おばさん」
「昔はこういうところで洗濯とかしていたんだぞ」
私も川の水に手を浸した。
「ほら! おまえもやってみろ! 気持ちいいぞ、ハハハ!」
「き……気が知れない」
フリくんは川のほうはけっして見ずに、遠くの山を見つめて、言った。
「……でも、人間がいないのはいいですね。外に出るのも安心だ」
彼はよっぽど人間が怖いのだろうか──
都会には雑音が溢れているというフリくんを見ながら、そう思った。
雑音というのはおそらく、彼のことを批判する人間の声なのだろう。少なくとも私たちは彼を批判するような態度を見せないよう、気をつけなければなと思った。
しかし自然の音をうるさいと感じるようでは田舎でも暮らしていけない。彼の居場所はどこにあるのだろう?
家に帰ると、玄関に段ボール箱が置いてあった。懐かしのCDラジカセでも入っていそうな、そこそこおおきなものだった。
フリくんがそれを見て嬉しそうな声をあげる。
「あぁ、来てた!」
「なんだい?」と私が聞くと、教えてくれた。
「スピーカーですよ。アメゾンで買いました。これで音楽でも流してたら、騒音も気にならなくなるかと思って」
「なるほど……。でも、あまり大きな音では鳴らさないでくれよ?」
少し不安になって釘を刺しておいたが、フリくんは私の言葉など聞こえないように、段ボール箱を抱えると、弾む足取りで階段を上がっていった。
夕食を終え、妻は趣味の小説投稿サイトの閲覧をはじめた。
フリくんもとんかつを食べ終えるとすぐに2階へ上がっていった。
私は自室に籠もり、仕事をはじめた。パソコンを開き、書きかけだった連載小説の続きに手をつける。
自然の音に包まれていると、次々とアイデアが湧いてくる。
懐かしい子どもの頃に戻ったような心境になり、世俗の垢にまみれた己を解脱し、世界の真実を垣間見ることが──
2階でけたたましい音量でロック音楽が流れ出し、頭に構築されかけていた物語がバラバラになって吹っ飛んだ。
「ごめんなさい」
すぐに音楽は止まり、2階からフリくんの声がした。
「思ったよりでっかい音、出ちゃって」
「頼むよ」
私は穏やかな声を作って投げた。
「仕事中なんだからさ」
すると音量は小さくなったが、それでも微かに自然の音と違うものが耳に聞こえてきた。
自然の音に混じり合わないその雑音とも呼べるものに、集中力が途切れてしまった。
私はため息を吐いて立ち上がると、2階への階段を上っていった。
「フリくん、ちょっといいかな」
ドアをノックすると、「どうぞ」と声が返ってきた。
開けると、彼は畳に置いたデスクに着き、パソコンに向かって仕事をしていた。パソコンの隣にラジカセのような形のものが置いてあり、そこから音楽は流れていた。若いひとが聴くような、音圧一辺倒みたいな音楽だ。
「音量、抑えてくれたみたいだけど、まだ微かに音が下に漏れてくるんだよね」
穏やかに私が言うと──
「でも、これ以上小さくすると、外の騒音が耳に入ってきちゃって」
仕方がないでしょうみたいに言われた。
「イヤフォンとか持ってないの?」
「僕、イヤフォン着けてると気になっちゃうんですよ。アクセサリーとかも身に着けられないし、地肌にセーターとかも着られないタイプなんで」
「うーん……」
「おじさんは平気なタイプ?」
「えっ?」
「イヤフォンとか、耳栓とか。僕は耳にそういうの入れるのが苦手なの。おじさん平気なら、おじさんが耳栓とか入れたらいいんじゃない?」
イラッとした。
しかし、かわいそうな彼を批判してはいけない。
そう思い、折衷案を提言した。
「妻も今、読書をしている。私たちはね、自然の音に囲まれているのがいいんだ。せめて、その音楽を自然の音に合うようなものに変えてくれないかな」
「クラシックとかですか? 嫌ですよ。そんなの流してたらカビ臭くなっちゃう」
妻がやってきて、後ろから聞いた。
「どうしたの?」
「わかりました」
気分を害したようにフリくんが音楽を消し、言った。
「環境音に変えます。それならいいでしょう?」
ざっぱぁん……
ざざざ……
ざっぱぁん……
山の中に海の音が響いている。
波音をバックに、若い女性の声が、脈絡もなく、延々と単語を口にする。
「山」
「焼肉」
「椰子」
「大和撫子」
「ダーツ」
「ダイナミック」
「抱き枕」
「ダーリン……」
時々「エヘヘ」と、太った男特有の笑い声のようなものが聞こえてくる。布団に入りながらフリくんが笑っているのだろう。
「これ……何?」
私はベッドで隣の妻に聞いた。
「なんか……こういう睡眠法、あるらしいわよ。脈絡のない単語を並べているうちに眠れるんだって」
「私たちは眠れんよな」
「……そうね」
「せめてもう少し音量を抑えてくれんかな」
「そうすると川の音や蛙の声が耳に入ってきちゃうんでしょ」
「私たちには心地良い音なのに……」
「フリくんには騒音なのよ」
「──仕方がないよな。感じ方の違いで彼を批判するわけにもいかないし……。さて、どうしたものか」
すると妻がにこっと笑い、言った。
「コロす?」
私の顔も笑った。妻の言葉に返事をした。
「コロそっか?」
幸い、一番近い隣人は100メートルも離れている。おおきい声を出されても聞こえはしないだろう。
妻の弟には『川を撤去するとか言って出て行って、足を滑らせて岩で頭を打った』とでも言えばいい。
動機などバレるはずもない。
私たちの愛する自然の音が、フリくんの鳴らす雑音でかき消される中、私は妻と顔を見合わせて、笑った。