ーー世界の観測者ーー
《神殺樹》
それは、神すらも殺すと言われる伝説の樹。
触れた神々は力を失い、「《神堕ち人》」として地に落ち、《陸の孤島》へと送られた。
そこに、ただ一人、静かに存在する者がいる。
世界の観測者 ——ダルヘイム。
彼の瞳に映る光景は
やがてこの世界の“理”となる⸻
今日もまた、少女は神殺樹の周辺を駆け回っている。
食材を求め、風のように地を駆け、影を追いかける。
「動いたぞ、あの茂みの中だ!」
(……腹が減って仕方がない)
「捕まえろ!逃がすな!」
(……疲れるって、こういう感覚だったのか)
かつて神だった彼らは、今やただの「人間」。
飢えに苛まれ、走ることに足を取られ、息を切らす。
ダルヘイムは霧の向こうからその姿を見つめていた。
「……セウォルツ、無茶をしていないか」
正午を過ぎた頃、ようやく一匹の獣が捕らえられた。
「……やっと……食える……」
(この空腹は、神だった頃には感じなかった……)
「いただきます」
(なぜこんなにも、満たされぬ……?)
彼らはまだ「人」としての生に慣れていない。
特に、落ちたばかりの者ほど、本能に翻弄される。
熊、猪、狼、虎。
獲物を貪る姿を見ながら、ダルヘイムは小さく呟いた。
「……セウォルツも、きっとああやって……」
「昔の君の影響かな、男より男らしいよ、まったく」
*
⸻そのとき、突然、悲鳴が上がった。
「腹が……急に痛い……どうすれば……」
苦悶に顔をゆがめ、地に倒れこむ神堕ち人たち。
慌てふためく彼らを見て、ダルヘイムは察した。
「……排泄欲、か。君たちも人間になったということだ」
羞恥に震える神堕ち人たち。
だが、観測者は静かに微笑み、告げる。
「ここはホワイト・アース……濃霧がすべてを包み、姿も、匂いも、排泄物すら分解してしまう。君たちに羞恥を抱く理由など、もうどこにもない」
一部は戸惑いながら、しかし仕方なく従った。
「……なぜ……こんな目に……」
(これが……人間の“屈辱”というやつか……)
ダルヘイムはさらに続ける。
「安心して。セウォルツの“愚者の絆”が、君たちの意識を拡散させている。誰も、他人の行動を気にする余裕などないよ」
(……セウォルツ自身も、その辺で済ませているだろうしね)
彼女は羞恥を知らない。
眠りに就くまでに必要なことを、ただ静かに済ませるだけだ⸻
*
神殺樹の周囲は「眠りの森」と呼ばれている。
その中では、誰もが抗いようのない眠気に襲われる。
セウォルツに近づくほど、眠気は濃く、深く、重くなる。
もし、彼女の眼差しに触れてしまえば——
その者は、永遠の眠りに堕ちる。
「……呪いの子……」
ダルヘイムはその名を胸に思い、息を詰めた。
「もし、直接干渉できたなら……どれほど良かったか……」
だがそれは叶わない。
世界の観測者とは、すべてを見届ける代わりに、
なに一つ手を差し伸べることのできない“傍観者”だからだ。
神堕ち人たちの苦悩は続くだろう。
だがその程度の苦しみは、
彼自身が抱える呪いと比べれば
——取るに足りない。
そして、終焉の始まり
彼の瞳に映る未来。
そこには、もはや避けようのない「終わり」が確かに存在していた。
聖戦の時は、すぐそこに迫っている——。