ーー神を堕とす者ーー
それは、神すらも殺すと囁かれる、伝説の樹。
その根は死を孕み、その実は堕落を齎す。
侵入を試みた神は皆、還らず。
ただ一度、瘴気の森に足を踏み入れれば、
天の加護すら届かぬ。
それはまるで、ひとつの命のように——
芽吹き、朽ち、また再び甦る。
崩壊と再生を繰り返すその樹は、やがて天界をも呑み込むほどに成長する。
世界の奥底に封じられた、神殺しの記憶。
それが、《神殺樹》。
神殺樹の木の下で、少女は眠る。
その名はセウォルツ。
神ではなく、人でもない。
かつての神を堕とし、ただ森の奥に息づく者。
彼女は、静かに目を閉じていた。
神をも惑わすとされる《神殺樹》の根元にて、赤い実を齧り、無垢なるまま眠りへと沈む。
朝も昼も届かぬ瘴気の森。
唯一、夕暮れの一瞬に差す金色の光が、彼女の輪郭を照らしていた。
そして、
世界の時間が半日だけ回ったとき——
神々が、目を覚ました。
***
そこは、霧の流れる見知らぬ地。
地図にない、孤島のような大地。
《陸の孤島》と呼ばれる忘却の原野。
「……ここは、どこだ……?」
覚醒した神々は困惑の声を漏らす。
だが、誰一人として答えを持たない。
ただ霧の向こうから、一つの声が届いた。
「ここは、眠りし神々の終着点。
——人として再び歩むための場所だ」
声の主は、やせ細り、どこか古びた気配を纏っていた。
その瞳は、遥かな時を見つめてきたもののそれ。
彼もまた、かつて神と呼ばれた者だった。
やがて、ある感覚が神々を貫く。
胸の奥に、微かな疼き。
喉の奥に、渇き。
舌の先に、熱。
——それは、空腹だった。
「これは……? 何だ……この感覚は……」
初めての欲望。
抗えぬ本能。
気づけば、彼らは地を這い、食べられるものを探していた。
そして——
「……まさか……我々は……堕ちたのか……?」
***
「その通り」
姿を現したのは、漆黒のローブをまとった影。
その名を、ダルヘイム。
世界の変遷を見届ける者。
“観測者”と呼ばれし存在。
「君たちが堕ちた理由は、ただ一つ」
「セウォルツ。——神殺樹の傍らに眠る少女。彼女が、赤い実を食べたからだよ」
「神殺樹の実には、特別な性質がある。
それを食べた神は、欲を知り、人として堕ちる。
人が食べれば、欲に呑まれ、永遠の夢へ堕ちる」
「しかし——セウォルツは、どちらでもなかった」
彼女には、生まれつきの異能があった。
《愚者の絆》。
視認した者すべてと、感覚と欲求を強制的に共有させる力。
「彼女が眠れば、周囲も眠る。
彼女が空腹を感じれば、神ですら空腹になる。
——それが、君たちが堕ちた理由さ」
神を堕とすために生まれた少女ではない。
ただ、欲と共に生きる人間でもない。
だからこそ、彼女は世界の境界を曖昧にする存在なのだ。
***
夜が来る。
空は深い藍に沈み、霧は静かに森を包む。
神堕ち人となった彼らは、満たされた空腹の余韻と共に、再び眠りについた。
その寝息は、穏やかで、どこか切なく、
かつて神であったことなど夢のように遠く。
ダルヘイムは静かに、空を見上げて呟く。
「……おやすみ、セウォルツ。
今日もまた君は、無意識のままに神を堕とし、世界を揺らした」
彼の声に答える者はいない。
ただ、静寂だけが、世界の縁に漂っていた。
そしてそれは、
新たなる神話の夜明けを告げる、最初の眠りであった。