あなたは「虚(うそ)」に溺れ、わたしは「実(まこと)」に憧れた。
第1章 「人」と「女」
夜が明けたようだ。
小鳥の囀りと自動車の走行音。今日も開演を告げることなく二重奏が始まる。
カーテンの隙間から微かに差し込む木漏れ日がスポットライトとなり一人の青年を照らす。
今日が32歳の誕生日であるカタルは、粗末なシングルベッドの上で、汗と涎の染み込んだシーツに巻かれながら横たわっていた。
左右の大きさが微妙に違う目は、極度の近眼のためレンズの分厚い丸ぶち眼鏡に覆われている。
顔の真ん中には団子のように乗っかった鼻。
唇はカサついて一部赤い部分がなく、中途半端に散らかった髭に隠されている。
クセの強い髪の毛は一見豊富に見えるが、掻き毟った頭頂部だけがやや薄い。
両親と同居しているカタルは、6畳ばかりの一室を与えられている。
シングルベッドを置けば動き回れるスペースはほぼないが、カタルはベッドの上に寝そべって、ノートパソコンでゲームをしながら一日中を過ごすため支障はない。
朝も昼も夜も、常に部屋の照明は消したまま。
暗闇の中、ひたすらゲームを楽しんでいた。
一日の始まりは、いわゆる引きこもりのカタルにとっては特に意味を持つものではなかった。
だが、今朝のカタルは一つの行動目標に支配されており、ギラギラと醒めた目をしている。
人を殺そうとしていた。
誕生日に失恋をしていたからだ。
カタルの殺人願望は、実は長い年月をかけて熟成されていった。
「ハジカレタ」
最後に社会から拒絶された日から、カタルが今の生活を正当化する際の口癖となった。
もう8年になる。4番目に勤めた企業から人間失格の烙印を押され離職したのは。
大学卒業までのキャリアは人並み以上であった。
いや、人付き合いが下手だからこそ人並み以上になったというのが正確であろうか。
最初に勤めた会社はカタルには全く不釣り合いな接客業の大手企業だった。
学歴、大学での成績などのスペックが高いカタルは疑いもなく採用された。
就職活動におけるミスマッチを体現した格好であったか、言わずもがな役に立たず、1か月で退職した。
新卒の権利を1か月で放棄したカタルは、2社目に広告関係、3社目に貿易関係の企業の事務職を経験したが、周りと馴染めず退職。
そして4社目はIT企業であった。
パソコンが得意なカタルは、これまでよりは適応できる自信があったし、気持ちも昂ぶるものがあった。
だが、カタルの期待とは裏腹に、そこは人と人とのコミュニケーションが重んじられる業界であった。
社員の間には常に流暢な会話が飛び交う。
RPAを開発する彼らは、そうしなければ自らがロボットに取って代わられるという危機感に追われていた。
それができない人間は徹底的に排除されたのだ。
退職勧奨。
これまで自分から辞めてきたカタルが、辞めてくれと言われたのは初めてのことであった。
契約社員として入社したカタルが、有期契約の満了を待たずに見切りをつけられた。
周りも限界に来ていたのだ。
「人じゃない」
そう言われてハジカレタ日に、カタルの「虚」に溺れた生活が始まった。
同時に「実」の世界への破壊思想が生まれ、自分を排除した人間たちに危害を加えたい欲求で満たされていった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね・・・」
「sinesinesinesinesinesine・・・」
キーボードの4つのキーだけが擦り減り、禿げかけていた。
しかし、欲求を実行に移すことは決してなかった。
「人を殺してみたかった」「誰でもよかった」
そんな無差別な殺しが電波的に飛び交う現代、カタルはニュースを見ては、いつも思うことがあった。
「この犯人は人付き合いうまいな」
カタルが人を殺さない理由。
それは決して人道的な理由ではなかった。
人と関わりたくないから。
殺すということは、他人に積極的にアプローチすること。
他人の領域に踏み込み、自分を晒し、強固に触れ合い、血を共有すること。
それが耐えられないから人を殺さない。
ただそれだけのことであった。
だが、たった一つの愛情がカタルに一線を越えさせてしまう悲劇が起きた。
両親が誕生日プレゼントに新型のノートパソコンをくれたのだ。
キーボードの位置の微妙な変化。
暗闇の中で、タイプミスが起こった。
「そどyrち」
カタルの好きな恋愛ゲームで、勇気を出して二次元の彼女に告げた言葉がこうなった。
恋愛ゲームの女の子というのは、なぜ髪の色が原色の赤や青や緑でもこんなに可愛いのであろうか。
こんな髪の色をした人間が実際にいたらギョッとするだろうが、カタルは緑の髪の女の子にぞっこんであった。
大事な告白の言葉が意味を成さない文字列になり、彼女を憤慨させた。
「あなたなんか人じゃない」
そう言われてフラれた。
人でもない彼女にさえ、カタルは人と見なされなかった。
買ってもらったばかりのノートパソコンを叩き割って叫んだ。
「俺はこんなに「あ・い・し・て・る」のに」
「ころす」
こうしてカタルの殺人願望は完成を見た。
普段は鬱陶しいスポットライトである朝日を自ら浴び、深く深呼吸をする。
季節感のないポロシャツに、デザインというわけではない穴の開いたジーンズ。
埃の積もったリュックに何かを詰め、カタルの支度は完了する。
きっかけをくれた両親とは目も合わせず玄関に向かう。
ゲームで、「虚」の世界で、敵キャラを殺すのではない。
「実」の世界で人を殺すのだ。
「はじめます」
それは決意の日。
32歳の誕生日に、カタルは久しぶりに外に出る。
ハジカレタ日から8年。
カタルの復讐が始まる。
第2章 「友」と「光」
外は快晴とは言えないが青空が大半を占める爽やかな天気。
9月だが適当なポロシャツで表に出たカタルには少し肌寒い。
カタルが向かった先は自分を排除したIT企業。
家から徒歩15分程度の場所にある。
今日は誕生日であるが、世間的には休日というわけではない。
社員は普通に仕事をしている。
道中、それなりに人通りは多い。
カタルにとっては背景の一部に過ぎない人々の姿であるが、気にかけてしまう人物が二人だけいる。
実はこの二人、引きこもりのカタルが「友」と呼べる貴重な存在なのである。
いや、闇のような人生の中で、二筋の「光」と呼ぶべきであろうか。
一人は小中学校の同級生であるケンヂ。
カタルの家の目と鼻の先にある古風な家に住んでいる、体格のいい男である。
いわゆる不良であり、少年院にも二度入った。
20歳を過ぎても保護観察が続いていたが、今は仕事に就いている。
家の前の公道に面したスペースに、何やら大型な機械を並べて作業をしている。
そのため、カタルがたまに家の外に出るときは、必ずと言っていいほどケンヂの姿が見えるが、何の仕事をしているかを詳しく聞いたことはない。
人付き合いが全くできないカタルだが、ケンヂはカタルに声をかけてくれる。
また、ケンヂはカタルの風貌がどんなに見苦しくても、指摘をすることは一度もなかった。
この日もケンヂはカタルの姿に気付き、声をかけてきた。
「おはよう。」
カタルも返事をする。
「ああ、おはよう。」
「どこ行くんだ?」
「ああ、ちょっと。」
「そうか、気をつけてな。」
他愛のない会話をして通り過ぎる。
カタルがこれからしようとしていることなどケンヂは知る由も無いが、知ったとしてもケンヂは何も言わないでくれるだろう。
もう一人の友はかなりの老体である。
カタルの家から大通りに出るために必ず通る小道があるが、そこに段ボールの家を構えて暮らしている、いわゆるホームレスだ。
名前は知らないが、あだ名は「Gさん」。
テレビで何でもアルファベットで表現するタレントがいたのをヒントに、カタルとケンヂが小学生のときに付けたものだ。
どうやら年齢はちょうど80歳。
少し前、身内なのかよくわからない女性がまかないに来ていたときに、Gさんの年齢を口にしていた。
髪はほとんど抜け落ち、微かに残るのは細くなった白髪。
顔はシワだらけでたるんでおり、サンタクロースのような白髭だけが存在感を持つ。
痩せた手足に曲がった腰は、立つことすら困難に思える。
今では確かに年相応であるが、思えば、カタルとケンヂがこの老体と出会い、Gさんと名付けたのは二人が7歳のときであったから、当時のGさんは55歳。
現代で、55歳で爺さんと揶揄される大人は少ないだろうが、7歳の子供にはそう見えたのであろう。
カタルとケンヂがもう少し判断力がついている年齢であれば、Gさんの存在は怖いと感じたであろうが、まだ7歳の二人はGさんと仲良くなるには適度にピュアな心を持っていた。
怖いもの見たさでもなく、二人はGさんの作る段ボールの家に興味を持った。
Gさんの家に入って三人で遊んだ。
いつしか友達になっていた。
その後、年齢を重ねたカタルは、Gさんがホームレスだとわかり、その意味も理解したが、Gさんを避けることはなかった。
一度だけ、カタルはケンヂと一緒に、Gさんに悪戯をしたことがある。
拾ったライターで、Gさんの段ボールの家に火を点け、全焼させてしまったのだ。
Gさんは家の中にいなかったが、小道の中にあるGさんの家に火を点けたことで、近隣の住民が気付いて大騒ぎになり、消防車まで出動する事態となった。
次の日、Gさんは何事も無かったかのように、新しい家を構えていたが。
Gさんの口癖が一つだけある。
「少年よ、そんなに急いでどこへ行く?」
すでに少年ではなくなったカタルにもずっと同じ言葉をかけ続ける。
確かに、小道は狭いし、建物の陰に隠れて薄暗いため、なんだか気味が悪く、Gさんの前を通り過ぎるときは、若干小走りになっているのかもしれない。
子供の頃は怖くてなおさらそうなっていたのだろう。
そして今日のカタルは感情が昂ぶって、前のめりで歩いていたから、声をかけられるのは必然である。
「少年よ、そんなに・・・」
のんびりとしか喋れないGさんの声がそこまでしか聞こえないほどに、カタルの足取りは速かった。
「Gさん、ごめんな。」
そう呟くカタルの声も、きっとGさんには届かなかっただろう。
こうして、決意の日に二人の友と顔を合わせたカタルは、15分も経たずに例のIT企業の社員通用口の前まで辿り着いた。
そこは殺風景な目立たない場所であるが、一つだけ、誰の目も惹きつける物がある。
マンホールに女性の顔が描かれているのだ。
聞いたこともない名前のデザイナーが独特の感性で作った作品のようだ。
調べたところ、このマンホールの深さは10メートルらしい。
万が一、蓋がはずれて転落したら命はないだろう。
カタルの計画。
転落死。
このマンホールに、人が踏むとはずれる細工をしておく。
この会社の社員に事故に見せかけて死んでもらうことができるというわけだ。
8年前に直接的にカタルを排除した社員以外の人を死なせてしまう可能性はあるが、この空間にいる時点でカタルにとっては復讐の対象であった。
女性にフラれたばかりのカタルにとって、女性の顔を踏みつけて人が死ぬのは、復讐を二重に達成できる気がして痛快であった。
それにしても、なんとも稚拙な、消極的な殺し方である。
しかし、カタルにはこれしか考えられなかった。
カタルは人と接触することが不可能だからだ。
殺人願望が完成した今でも、その前提だけは変わることはない。
「はじめます」
もう一度呟いて、カタルはリュックから工具を取り出した。
マンホールを開ける開閉機、ネットで999円で売っていた。
両端に穴があるので、そこに引っかけて、後はレバーを上下するだけで、てこの原理で蓋が持ち上がる。
苦労するかと思いきや、すんなりと蓋が開く。
そして次は・・・
その時だった。
暗くて何も見えないマンホールの底から音もなく光が溢れてくる。
それは神々しいが決して眩しくはない緑の光。
地上を一瞬で通り過ぎ、青空を突き抜け、天まで昇っていった。
中腰の状態でマンホールを覗き込んでいたカタルは、上半身で光の円柱を出迎えるような格好となった。
「うわ・・・」
声を発する間もなく、全身が光に吸い寄せられ、飲み込まれていく。
この光の円柱を街の人々も見ているだろうか。
どこで見ていたとしても、眼前の風景を真っ直ぐに二分する絶対的な境界線。
瞬く間に、カタルは地上から消えていった。
第3章 「緑」と「赤」
「わたしの声が聞こえますか?」
衝撃的な体験に意識を失っていたカタルは、女性の声で目が覚める。
「良かった。目が覚めたのですね。」
目を開けると、一人の少女が膝立ちの姿勢でカタルを見つめていた。
マンホールから地下に落ちたのか、四方八方が暗闇であったが、なぜか少女の周りだけが明るく照らされている。
そのため、少女の顔もはっきりと確認することができた。
色白で目鼻立ちのしっかりした女の子。
あどけない表情は高校生くらいに見える。
何よりも目を惹くのは、緑色のロングの髪。
奇しくもカタルがフラれたゲームのキャラクターの髪の色と同じだが、より光沢感のある緑である。
「キミは?」
カタルは問いかけてみた。
「わたしはこの世界に住む人間です。」
「この世界?ここはどこなんだ?」
少女は毅然とした態度で答える。
「ここは「虚」の世界。決して「実」には成り得ない「虚」の世界。」
「虚」の世界。
カタルは今自分に起こっている状況を受け入れることができなかった。
夢を見ているのか。
しかし、マンホールをこじ開けたときの腕の痛みが確かに残っているし、何のためにそうしたかもはっきりと覚えている。
夢にしてはカタルの記憶が正確すぎているのだ。
カタルは質問を変えてみることにした。
「キミ、名前は?」
「わたしは・・・リーフといいます。」
「リーフか、俺はカタル、よろしく。」
「カタル・・・よろしくお願いします。」
カタルはいつもの恋愛ゲームをプレイしている感覚にもなった。
彼女の名はリーフ、今のところそれしかわかっていないが、それはゲームの始まりと全く同じ。
ここから色々と聞き出したり、女の子のことを褒めたりして、距離を縮めていくのだ。
「リーフって、いい名前だよな。」
「ありがとう。カタルもいい名前ですね。」
女の子から好意的なことを言われると嬉しいのだが、実はカタルは自分の名前が大嫌いである。
「いやいや、俺は自分の名前が嫌いでさ。漢字一文字で「語」って書くんだけど、字面悪いしさ。」
両親が名前に込めた想いはわかりやすいが、コミュ障とも言えるカタルは正反対の人間に育ってしまった。
「ま、別に何でもいいんだけど。希望の名前なんてないし。」
カタルの悪い癖だが、女の子の前でもネガティブな本音を言ってしまう。
恋愛レベルが低いと言われても仕方がない。
ゲームではこの段階でフラれることもよくあった。
リーフは何やら神妙な面持ちで話し始めた。
「名前は自分の内面を映し出す鏡。」
「自分の内面?鏡?」
「そう。だからカタルには、自分の想いを伝える強さがあるのでしょう。」
「へえ、そんなこと生まれて初めて言われた。じゃあリーフは外見だけじゃなく、内面も木の葉のような緑色をしているのかな。」
褒め言葉になっていたかは微妙だが、意外と話は弾んだ。
リーフの年齢は16歳のようだ。
自分の半分しか生きていないと考えると可愛らしく思えた。
「この世界は他に人はいないの?」
カタルがそう聞くと、リーフは少し黙りこんだ後、立ち上がって歩き始めた。
カタルも後ろについて歩く。
後ろからだと、緑の髪がリーフの小柄な体の大部分を占めていることがよくわかる。
また、暗闇の中で、リーフの周りだけが明るく照らされていると最初は思ったが、実際はそうではなかった。
リーフ自身が光を放っているのだ。
この不思議な力は何なのか。
カタルを導いた光の柱と関係はあるのだろうか。
リーフはゆっくりと話し始めた。
「この世界にはわたしの家族がいました。父と母、そして妹が。」
「リーフの家族だけ?でも、いましたってことは今は?」
「死んでしまいました。5年前。わたしが11歳のときに。」
ここには5年前までリーフの家族がいたようだ。
だが死んだ。
「カタル、この世界の授業を体験してみませんか。わたしのこと、詳しくお伝えできると思います。」
リーフはそう言うと、カタルにその場に座るよう促した。
よく見ると、そこには一人分の机と椅子が置かれていた。
さらにリーフは本棚らしき場所から一冊の本を取り出し、カタルに手渡した。
この世界の教科書のようだ。
「史実」
科目名はそのように書かれていた。
カタルの世界でいう歴史のようなものであろうか。
「1時限目は史実の授業です。」
リーフは自らが講師となってカタルに授業を始めた。
リーフは他の誰のことを話すでもなく、自分自身の生い立ちや、これまでの出来事についてひたすらに話した。
「これはわたしの身に事実として起こったことです。」
カタルの世界の歴史の授業では、何百年、何千年も昔に生きた赤の他人について学習する。
それが事実かどうか、本当にわかる現代人などいるわけがない。
対して、史実の授業では自分自身の事実だけを取り扱うのだ。
そして、いよいよリーフの家族の史実に迫る。
「わたしと父、母、そして妹は四人でこの世界に暮らしていました。この家で。」
そうだ、ここはリーフの家なのだ。
リーフの放つ光に照らされ、ぼんやりとではあるが、家具など家の中の様子が映し出されている。
しかし、カタルは同時に気付いたことがあった。
焦げている。
身の回りの物全てが黒く焦げているのだ。
よく見ると、カタルの使っている机と椅子、それに教科書も黒い煤だらけであった。
「11歳のとき、火災が発生し、わたしたちの全てを焼き尽くしました。「赤」が「緑」を喰らったのです。」
「そんなことが・・・リーフは無事だったのか?」
「そのときわたしは家にいませんでした。わたしだけが助かってしまったのです。」
「そうか。悪いこと聞いちゃったな。話してくれてありがとう。」
かくして、史実の授業は修了したが、その後もリーフの授業は続いた。
科目名は「実数」「実験」など、何もかもが「実」がつくものばかりだ。
内容も空想や曖昧なものはすべて排除され、徹底して現実のみが取り扱われる。
「ここは「虚」の世界。でも、わたしは「実」に憧れるのです。」
リーフはこの世界が決して「実」には成り得ないとわかっているから、憧れの「実」の世界を自身で創り出そうとしていた。
一方、カタルはどうか。
カタルは「実」の世界に生きていたのに、自らひたすらに「虚」に溺れていったではないか。
「俺はそうは思わない。俺は「実」の世界からハジカレタ。あんな世界は憧れなんかじゃない。」
カタルは少しムキになって反論し、さらにこう続けた。
「俺はリーフが抜け出したい「虚」の世界に好んで溺れていったのさ。馬鹿馬鹿しいと思うだろ?」
リーフは首を横に振ると、柔らかにこう言った。
「あなたは「虚」に溺れ、わたしは「実」に憧れた。」
そしてカタルの手を握って微笑んだ。
「それだけのことです。でも、お互いの目的地が反対だったからこそ、わたしたちは途の半ばで出会うことができた。」
カタルはリーフの手を握り返した。
こんな風に女性の手に触れたのは生まれて初めてのことであった。
そして初めて、生きていたいと思えた。
「リーフ、どうにかして、キミを俺の、「実」の世界に連れて行くことはできないのか?」
「わたしを?あなたの、「実」の世界に?」
「俺がここに来るときに、大きな光の柱が現れたんだ。キミが今放っているのと同じ緑の光の柱が。」
「光の柱・・・?」
「そうだ。それに乗れば二人で「実」の世界に帰れるんじゃないかと思うんだ。」
カタルはリーフの希望を叶えてあげたい一心で、根拠も何もない話を並べた。
リーフは驚き、戸惑っていたが、それはカタルの話が突拍子もないからではない。
何かを知っているようだった。
「リーフ、何かわかれば教えてくれ。キミを助けたいんだ。」
カタルが手を強く握ると、リーフは色白の顔を赤らめた。
「カタル、ありがとう。光の柱はわたしの力で放つことが可能です。」
「なんだって?キミの力で?」
「でも、あの光の柱は、カタルを「実」の世界に帰すことはできても、わたしが一緒に乗っていくことはできません。」
「そんな・・・二人で帰る方法はないのか?」
リーフは少し考えこみ、そよ風のように息を吐き、静かに呟いた。
「わたしの代わりに「虚」の世界に堕ちてくれる人が必要です。」
「ええっ?」
「「実」の世界から一人連れてきてもらう必要があります。でもその人は二度と帰れません。死んだのと同じことになります。」
リーフを「実」の世界に連れ帰る方法、それは人間を一人、言わば生贄に差し出すこと。
「でも、そんな人はいないですよね。死んでいい人なんて。」
カタルは今日、人を殺すために家を出たのだから、死んでいい人はたくさんいる。
だが、ここまで連れてくるとなると、カタルの対人関係の前提からして選択肢は限られる。
選択肢は・・・。
「リーフ、俺、なんとかするよ。だから俺を一度帰してくれ。」
「カタル・・・本当に?」
「ああ、また会いに来るよ。そして今度はキミを「実」の世界に連れていく。」
「嬉しい。ありがとう。じゃあまたね。」
そう言うと、リーフの全身から光が放たれ、あの時と同じ、緑の光の柱が出来上がった。
カタルが光の中に消える瞬間まで、二人は手を握り合っていた。
元の世界に戻ったカタル。
例のマンホールの前に立っていた。
蓋は閉じられていて、光の柱も消えている。
リーフと過ごした時間は3時間ほどだったはずだが、こちらの世界はすっかり夜になっていた。
カタルは一目散に向かった。
Gさんのところへ。
第4章 「虚」と「実」
「Gさん、ごめんな。」
友であるGさんを生贄に捧げることを決めたカタル。
「少年よ・・・」
老体の細い腕を強引に引っ張り、マンホールまで戻ってきた。
だが、なんということか、蓋を開けても光の柱は出てこない。
焦ったカタルは頭を突っ込んでみると、微かに緑の光が残っているのが見えた。
「こいつを堕とせばいいんだよな。」
無我夢中であったカタルは、Gさんの曲がった腰を蹴飛ばし、老体を深さ10メートルの穴に突き落とした。
Gさんの体の一部が緑の光に触れた瞬間だった。
さっきと同じく、音もなく光が溢れてきて、光の柱を形作った。
そしてカタルを再び導いた。
再会。
「わたしの声が聞こえますか?」
リーフの声、リーフの顔、リーフの手のぬくもり。
「リーフ、約束通り帰ってきたよ。キミの代わりに「虚」の世界に堕ちてもらう人間も用意した。」
「カタル、おかえりなさい。」
「あれ、Gさんは?俺が連れてきた人間は?」
「カタル、あなたがあの老体を連れてくることはわかっていました。」
「えっ?」
リーフの様子がさっきと違うことに気づくカタル。
「リーフ?」
リーフは少し微笑んで話を続ける。
でも、さっき顔を赤らめていたのとは違う、なんだか不敵な微笑み方だ。
「そうそう、あなたの親友のケンヂさん、亡くなられたそうですよ。」
「なんだって?馬鹿なことを。そんなわけ・・・」
「言ったでしょう。わたしは事実しか話しませんから。」
「待ってくれ、なぜリーフにそんなことがわかる?」
そして、信じられない言葉が続く。
「知っていて当然です。わたしが殺したんですから。」
もはや言葉だけではない。
リーフの表情は狂気に満ちていた。
「あなたとケンヂは5年前、いえ、あなたの世界では25年前なのでしょうか。わたしの父、母、妹を焼き尽くしました。」
「俺とケンヂが・・・まさか、あの段ボールの火事が・・・」
「あなたたちの世界の人間は生き急いでいます。こちらの世界よりも5倍ほど時間が経つのが早いみたいですね。あなたにも何度も忠告したでしょう。」
「少年よ、そんなに急いでどこへ行く?」
カタルはGさんの口癖を思い出した。
「まさか、キミは、Gさんと一心同体?」
「あの老体は「実」の世界でのわたしの現身。おかげさまで一つになれます。そしてあなたに復讐を遂げられる。」
次の瞬間、リーフの右手が鋭い刃となり、カタルの胸を貫いた。
「ぐふっ」
「心臓をえぐりますね。」
返り血がリーフの色白の顔を真っ赤に染めた。
「文句はありませんよね。あなたも人を殺そうとしてたのでしょう。」
初めて生きたいと思った。
「実」の世界に連れて帰ったら、「あ・い・し・て・る」を言おうと思った。
でも、それももう・・・。
「ふふ。死んじゃいますか。では最期に聞いてください。名前は自分の内面を映し出す鏡。そう言いましたよね。」
リーフ Gさん
G リーフ
Gリーフ
グリーフ
「わたしの名前はグリーフ(Grief=深い悲しみ)です。カタルは勘違いをされていたようですが。」
「あなたに家族を奪われた悲しみがわたし。そして「実」の世界であなたを殺すことを夢見ていたのです。」
リーフとの恋愛は偽りだった。
いや、カタルとリーフのやりとりは全て「虚」でしかなかった。
しかし、薄れゆく意識の中で、カタルはリーフの言葉を思い出した。
この言葉には偽りも勘違いもないだろう。
あなたは「虚」に溺れ、わたしは「実」に憧れた。
(完)