第1部10話 忘れていたこと
店の扉を乱暴に開けると、カウンターの中にはエプロンをした男が立っていた。男が一瞬ビクッとなった。
お店は無事のようだがーー
「何してんの?」
「何って店番に決まっておろうが」
そういえば私が頼んだんだっけ。法外な要求をしてくる割に律儀なやつだ、って何でもいいから飲みたいものを言えと言ったのは私か。
昔から勢いで言っちゃうんだよね。反省。まあ、反省しても性格は変わらないんだけどね。とどうでもいいことを考えながら、氷を敷き詰めたグラスに買ってきたオレンジーノを注ぐ。そして、手前味噌ではあるけどサクランボを添えてみた。
「はい、どうぞ」
「ふむ……」
彼は眉ひとつ動かさず、グラスに口をつける。
「……悪くない」
「ちゃんとおいしいって言いなさいよ」
「オレンジに付着する農薬の味まで再現しているのには恐れ入る」
「いや、褒めてるのか、けなしてるのかわからないんだけど。しかも、それは飲料メーカーの意図するところではないと思うぞ」
「サクランボは、好きだ」
彼はそう言いながら、サクランボを口の中で転がす。スーツにサクランボって似合わねえな。私、ギャップ萌えとかないもんで、すんません。
「しかし、このオレンジーノ、どうやって手に入れたんだ?」
「たまたま、自販機のサービスカーがいたの。休憩中だったみたいだけど、車のドアをノックしてたら出てきてくれたて、もう営業終わってるだの、ここでは売ってないだの、うだうだ言われたけど、半ば強引にお金払って奪ってきたわ」
「くくくくく……がははははっ!」
私は思わずきょとんとしてしまった。さっきまで無表情を崩さなかった男が笑い転げている。しかし、なんともお堅い外見に似合わない笑い声だった。
「ふふふ……あはははっ!」
私も腹を抱えて笑ってしまった。何でこんなことやってるんだろうという自虐的な笑い。そして、無表情の彼が笑うのが嬉し可笑しくて、その笑い。
このとき、私は思った。ああ、私はこの笑顔を見るために、お店やってるんだなって。
「いや、よい酒の肴になった。こんな愉快なのは久方ぶりだ」
「それはよかったでござんした。飲んだのはお酒じゃなくてジュースだけどね」
「名前に“酒“が入っているが、酒は飲めんのだよ」「ふーん、よく飲み屋に入る気になったわね。名前はなんていうの?」
「酒守という」
「酒守くんか……。今度はオレンジーノ仕入れておくから、また来てよね! 定価の3倍の値段で出すけど!」
「それはまた挑発的な価格設定だな……」
酒守はそれ以来、私のお店の常連さんになったのだった。
※
思い出した。私はお客の笑顔が見たくて、お店をやってたんだ。それなのに私はお店をつぶしてしまった。
私の居場所はカウンターの内側。そこしかない。そこしかないのに何をやってるんだろう。
もちろん、私が店を閉めたのは、勢いではなくよく考えた結果だった。しかし、今考えると、自分で自分の首を絞めたようなものだ。
なぜ今まで、そのことに気づかなかったのだろう。
「……また、お店、やりたいな」
意図せず、私の口からそんなひとりごとが飛び出した。
金輪際、お店はやらないと誓ったのに。そんな言葉が飛び出してくるなんて、我ながら驚きだ。
すると、ジンさんが私の背中をパシッと叩いた。
「いいねえ! 姐さんが店をやるってなら、間違いなくいい店になるじゃろうて!」
「いや、ここでという話じゃなくてね、現実でのーーって、ここ、お店なんて開けるの?」
「当たり前じゃろう! 看板さえ立てれば誰にでもできる!」
何気ないひと言だった。しかし、その言葉は私の深いところにストンと落ちた。
お店をやるには、お金もお店も家具も家電も食器もインフラも役所の運営許可もメニューも食材も飲み物もスタッフもぜーーーんぶ必要不可欠と思ってた。
でも違うんだ。看板があれば、その店は存在していることになる。
「ジンさん、お店の看板作ってよ!」
「ほう、ワシでいいんか?」
「うんっ!」
「して、店の名は?」
「そんな気取ったお店を作るつもりはないんだ。ただ、みんなを笑顔にできればそれでいい。そんな想いを込めた名前――“駄洒落“にするっ!」
こうして、バレンタイン・オンラインの片隅で、本日、私のお店“駄洒落“が誕生したのだった。