第40話 おまけ、滝壺のうた
あの人は来てくれるかしら。
死ぬために会いにくるなんて馬鹿者でしかないわ。けれど馬鹿者であってほしい。そう思うのは、わたしの焦がれか呪いか。ああ、来てほしいけれど来てほしくない。わたしの命を絶つ死神はあの人であってほしくてほしくない。もう梅の毒が頭に回っているのかしら。最後の最期でこんなことを思いつくなんて。
でも、許してちょうだい。
だって、わたしはもうこの世であなたと添い遂げることは叶わないのだから。わたしの祈りを願いを呪いを受けとってくれた九郎助稲荷の狐様は本当に助けてくれるのかしら。あの人を助けてほしくてほしくない。一緒に水底へ行かせてほしくてほしくない。添い遂げたくて添い遂げたくない。ゆれうごくわたしの心の重りはどこにあるのかしら。
……あら、こんなときでもお腹はへるのね。
これから死のうという者が何かを食べたいと思うなんて滑稽だわ。でも、いいの。あの人が来る前にひとつだけ。甘く煮付けた油揚げに酢飯を詰めた篠田鮨。当世の流行りは稲荷鮨だけれど、わたしは篠田鮨の方がいい。葛の葉伝説は素敵だわ。普通には受け入れられない女狐が人と契りを結び子をなすまでのお話だもの。吉原の女狐だって受け入れてくれる人がどこかにいるかもしれない。そんな希望をみせてくれるもの。蜃気楼のように。
まだあの人は来ない。
いつまで待とうかしら。約束した時間までかしら。それとももう来ないと知らずに死ぬならば、約束の時間が来るまえに身を投げようかしら。あら、ごうごうと滝壺の音が楽しげだわ。なぜかしら、なぜこんなにも気持ちが浮き立つのかしら。初めて自分を自由にできるからかしら。いけない、いけない。約束は守らなきゃいけないわ。そうね、あの人が来ないなら、来ないなら、来ないならどうしましょう。
九郎助の狐様、どうかあの人を連れてきて。でも、連れてこないで。あの人にとって美しいまま死にたいのです。でも、生き恥を晒しても、もう一度だけ会いたいのです。あら、生き恥だなんて。死に恥の間違いだわね。
まだ来ない。
いいの、来なくても。だって、あの人、怖がりだもの。きっと滝壺を覗いて目を回しちゃうわ。もしかしたら、それでコロンと落ちちゃうんじゃないかしら。ふふ、わたしより先に落ちちゃったりして。そして、わたしだけが生き残っちゃったりして。あらあら、すこしも笑えないわ。面白くもないわね。
来ない。
ええ、もう来ないわ。そうね、もう時間ね。せっかく狐面の天狐さんも待ってくれているのに残念だわ。わたしと一緒に身を投げるあの人を、あの人だけは助けてもらおうとお願いしたというのに。まさか、あの狐面の人、わたしを止めたりしないでしょうね。助けたりもしないでしょうね。心中を断られ、独り寂しく滝壺に身を投げる女を救いあげるなんて無情なことはしないでしょうね。そう願いたいわ。
あら、足が震えるわね。
こんな体、こんな命、ただでもいらないと思うのに、まだ震えるのね。死にたくないのかしら。このまま梅の毒にやられて苦しんで死ぬことも気が狂うことも望んでいない。なのに、足が動かないなんて。馬鹿げてる。馬鹿げてる。馬鹿げてる。うっかり落ちて死ぬのも御免だわ。わたしはわたしの足でわたしの命を捨てたい。なのに、なのに、なのに、足が動かないわ。涙が出て仕方ないわ。狐面の人は、どう思っているかしら。捨てられて捨てられて、何もできないわたしを。
来た。
あの人が来た。息急き切って、初めての逢引きのときのように。女郎屋に連れ去られてしまったあの日のように。ああ、震えが止まる。涙が止まる。桜のような微笑みが浮かぶのがわかる。わたしは桜になる。これから、この人と一緒に滝壺に浮かぶでしょう。くるくると流れに舞う桃色の花びらのように。
もう無理をいうのはやめようかしら。
やっぱり独りで死のうかしら。
嘘はやめようかしら。
でも、やっぱりわたしは嬉しいのです。震える足で怯えながらわたしの手を取って、あの人が一緒に滝壺へ向かってくれる。大丈夫、大丈夫よ。わたしは死ぬ。けれど、あなたは死なないわ。だって九郎助稲荷の御使を気取る狐面の人があなたを助けてくれるから。死ぬのはわたしだけで十分。ただ、あなたの想いをみせてほしかっただけ。一緒に行ってくれるだけの想いを。ありがとう。そして、さよなら。
水しぶきを含んだ風が吹きあげてきます。つないだ手を離さないで。できるだけ長く……。




