第35話 誕生
閉ざされた障子の向こうから、この世のものとも思えない血も凍るような叫び声が聞こえ、耳の奥では蟲たちのささやきが聞こえていた。けれど、障子を背に、番人然としてちょこんと座る怜子の姿をみたとき、それらの音が、一瞬、すべて掻き消えたように思えた。
「怜子」
呼びかけともつぶやきともつかない声が漏れ、それに応じるように怜子が立ちあがった。所作、佇まいは、かつて女当主と対峙して一歩も引かなかったあの頃のように美しい。けれど、狗どもと同じように面をつけ、その面には、一文字、鬼と刻まれていた。
ぐるる、返答代わりの唸り声とともに怜子が向かってくる。
ながい廊下の奥から、一瞬で距離を詰めてきた。荒事は苦手、とはいえ、術師として最低限の鍛錬は怠っていない。心臓めがけて撃ち込まれた掌底を両腕で防ぐ。
が、とっさに庇った両腕が、あばらごとへし折られていた。
止めを刺すことさえせず、だれを倒したとも知らず、怜子は機械的に廊下を歩いて戻り、障子の前に先ほどと寸分たがわぬ姿勢で、すっと腰を下ろした。
できることなら怜子と戦いたくなどない、鬼と化そうと怜子が自分を襲うわけがない、外法の術など使いたくもない、そう思っていた自分自身の甘さが骨とともに粉々に砕けた。口中に錆びた味がする。それを吐き捨て、折れた腕で懐から竹筒を取りだした。
ぽわりと光る竹筒のなかにいるのは、愛らしい輝夜姫などではない。
それは見たこともない奇妙な蟲、そう、明石から受け取った呪い蟲だ。明石にとって、いや、二人にとって特別なものなのかもしれなかった。その蟲を、竹筒から外へ出そうとすると、少しづつ黒い煙のようになり、呼吸とともに己の身の内へ入ってくるのがわかった。
あばらと腕の骨が、ごきごきと蠢き、激痛とともに治癒していく。
あまりに不自然で、あるべきでない力が瘴気とともに全身を包む。黒々とした瘴気が実体をともなって体を覆い、貧相な体つきを隠してしまう。小さな体が膨れ上がり、全身の毛が逆立って、月明かりの下で化け物が。
それが自分自身であること、使狗使神の法によるものであることを頭の片隅で理解しながらも、すべてをわかっていたとも言えない。
気付くと、座ったままの怜子を見下ろしていた。
目の前に立つ化け物を認識し、立ちあがろうとした怜子の体は、その途中で、どさりと倒れた。なぜなら、背後の障子ごと、化け物すなわち僕がその首を断ち切っていたからだ。
ごろんごろん、転がり落ちた怜子の首が廊下の先で止まった。
一瞬、自分を支配していた凶暴性から自由になり、その仮面を外したい、拾いあげて胸に抱きたいとの思いが浮かんだ。
けれど、露わになった障子の向こうから、再び、血も凍るような叫び声が聞こえた。
尾をひく叫び声の後には、おわあおわあ、赤子のような猫のような奇妙な泣き声がする。
なかば化け物となった鈍い心に浮かぶのは、怜子とのあいだにいつか子どもが欲しかったとの取り留めのない考え。また目につくものを無性に破壊したいとの凶暴さ、怜子の首を拾わねばとの慈悲の心、この場から逃げ出したいという怯懦。
三度、血も凍るような叫び声が聞こえた。
続けて聞こえてくるのは、ささやく蟲たちの声、そして、これは赤子の泣き声だ。猫などではない。女当主が子を産んだに違いない。
切り裂かれた障子の向こうで、穏やかな表情の女当主が、へその緒のついたままの赤子を抱いていた。地獄に咲いた華のように、そこだけが明るく切り取られているように思えた。
しかし、そんなことは胡散臭いまやかしでしかない。
こちらを見て、半ば化け物となった僕の姿を面白そうに眺める。青白い顔に笑みを浮かべ、生まれたばかりの赤子を片手に掴み、残りの手でへその緒を掴むと、そのまま大きな口を開けて緒を喰い千切った。生みの血にまみれながら口中の血を吐き出す。女当主は、赤子のへその緒を無造作に結んでみせると、
「遅かったな。もう生まれたぞ」
と凄惨に笑った。




