第34話 あだしの
月が青い。
おわあおわあと猫の泣き声がする。
いったいぜんたいそんなことがありえるのだろうか。月の光は青くないし、猫は交尾する相手を求めてわめいているだけだ。
しかし、今夜の屋敷を包む静謐な音と光は、いずれも青い。その奥で、聞こえなくなった蝉の鳴き声の代わりに、呪い蟲たちの声と赤子の泣き声のような猫の泣き声のような奇妙な声が響いているのだった。
青い月は不吉でありながら清浄。この世のあるべき姿を揺るがし、異界につながる穴をこじあけようとしている。だれもが異界から来たこと、異界へ帰らなければならないことを忘れようと、もがきながら息をしている。声をあげて泣けばいいものを。
もぞりもぞり、屋敷に近づくにつれ、耳の奥で身じろぎするものがいる。
もはや手入れどころか錠さえさされていない門扉を抜けて敷地内へ入ると、虚空に包まれたように音が消えた。代わりに息を吹き返したのは、ささやき。
『なにをしにきた』
『うらぎりものが』
『たすけてくれなかったわ』
『おまえのせいだぜ』
『どうしてあなただけ生きているのかしら。ずるいじゃない』
『ふふ、もう生まれます』
ささやく蟲どもの声が耳に充満する。かつて夏のあかるい日差しと蝉の声にあふれていた中庭は、化野の如く。
枯れ千切った草花に混じるのは、藪蘭、女郎花、杜鵑草。わずかに咲き残った華だ。地獄に咲く花としてもふさわしい。花車あるいは火車といい、獄卒とする。
怜子がいなくなってさらに人気がなくなった異界じみた邸内には、人ならぬ者たちが跋扈している。
蟲でもなく人でもない影のような者たちが通り過ぎていくのを黙ってみつめていた。
女当主がいるであろう母屋の一郭を目指して進む。その襟首を、背後からぐいと引かれ、ぐえっと喉が絞まった瞬間、目の前を鋭い刃じみたものが通り過ぎていった。ほんの少し、鼻頭を削られたようでもある。
「相変わらず、危なっかしい」
あきれたように溜め息をつくのは小夜さんだった。はかなく、しかし凛として鋭い声と立ち姿で月夜にとけるようにしている。蛇を模した面を外し、その場に投げ捨てると、長い黒髪を振りほどいてみせた。それらは、つやつやと、くろぐろと、薄青い月光を弾いてきらめく。さらに、ぐいと僕の襟首を引いて背後へ放りつけるようにした。
「明石様に言われたでしょう? 狗どもは私に預けなさい」
「しかし……」
僕らの目の前には、丸太のような四肢を有する熊のような大男が立っていた。それに続くように、這いつくばった獣のような若い男女、およそ人とはみえぬ異形の者たちが何人、あるいは何匹も控えている。ぐるる、ぐるると地の底から響いているような唸り声が唱和する。
「いいから行きなさい」
喉元にひやりとする感触があった。真っ黒な匕首が突き付けられており、その先に小夜さんの白く小さな顔と冷たく光る両眼があった。蛇を思わせる長い舌を、ちろちろと出し入れしながら匕首を手元へ引く。
「荒事は苦手なのでしょう? いつかその苦手を補ってくれる人ができればいいわね。さあ、産みの場へ向かうのです。明石様が託した術を無駄にすることは許しません」
「わかりました。ご無事で」
かすかな笑みで応じると、白い顔と手足が離れていき、異形の者たちの待つ唸り声の奥へ消えていった。
背中から追ってくる争闘の気配を振り捨て、女当主の部屋へ近づけば近づくほど、濃厚な闇の気配が深まってくる。どろりと溶けた墨汁かなにか、いや溝の底にたまった泥が立ち昇ってきてでもいるかのようだ。そして……
怜子がいた。




