第32話 向かうべき場所
あるじ不在の師匠の屋敷は、がらんとしていた。
開け放った襖と障子を抜けて風が走り、本家の屋敷では聞こえなかった蝉の声が聞こえる。五月蝿くも心地よい。だが、耳の奥に、もぞもぞと遠くからつぶやきが聞こえていることに気付いて、ぞっとしたものだった。
縁側に明石と小夜さんの姿を見たときには安堵したが、この二人ほど明るい日の光が似合わない人たちもいない。ゆったりと腰かけて、お茶をすすりながらも、どこか落ち着かなげだ。自分が動揺しているからなのだろうか。
「やあ、来ましたね」
「兄さん、お茶なんて飲んでる場合じゃありませんよ」
「どうした。蟲どもに何か吹き込まれたかね」
「そういうわけじゃありません」
と応じながら、本当は明石の言うとおり、なにか吹き込まれたのかもしれないと苦々しい思いだった。結局、良くも悪くも、ささやきに動かされたのに変わりはない。そこまで考えて首を振る。蟲に吹き込まれようと吹き込まれまいと、女当主のことを伝えねば。
「腹のことは御存じですね。もう臨月のような按配で、いつ生まれてもおかしくありません」
「ああ、本性を出してきたな。どう思う?」
「どうとは?」
「そのままの意味さ。あの女をどう思うか」
「怖い人でした。しかし、女当主は、もはや人ではないとみます」
「同意だ。いつからとも断定できないが、取って代わられたな。少しずつ、少しずつ。人は喰うもので出来ている。逆に言えば、喰うものに喰われているのだ。蟲を喰い続けた結果、蟲に取って代わられたのよ。
心の臓も止まり、もう幽鬼そのものだ。屍人といい、幽鬼という。こやつらの不思議は、足があり、体があり、半ばは死に、半ばは生きていることだ。添い遂げることもでき、子をなすこともできるのだから、幽霊なんぞとはわけが違う」
「女当主は何を企んでいるのでしょう」
「さて、その言い方は正確ではないね。女当主が何を企まされているかだ。ある意味では哀れな生け贄とも言えるが、しかし、あれは怖いぞ。私などではとても敵わぬ。
敵とすら思っておらんだろう。小夜や光雄も含めてな。ま、そこが付け目でね。いかに強大なものであれ、敵を敵と見なければ滅ぶこともある。国同士の諍い、古代のありようを見ても同じだ。強大すぎるからこそ、隙と油断の塊となっておるわけよ。
明後日、満月の晩に女当主が子を産むだろう。その時だ。屋敷の術を解き、女当主を討つ。交合による虫喰いを経て、双方とも力を落としておるはず。それでも、火伏せりともども一筋縄ではいかぬ相手だ」
光雄、と、ゆっくりと問いかける。
「火伏せりは私が抑える。狗どもは小夜が。きみに女当主を任せる。討てるか?」
「討ちますよ。子どもの頃から因縁のある相手です。それに……」
怜子の仇とするには、女当主以外にない。
そう言い切ると、どこへ向かえばいいのかわからない気持ちが少しだけ楽になった。世の中、白と黒だけではないけれど。




