第26話 夜話 後段
妙に涼しい夏の夜に語られる話は、要領を得るようで得ず、現実味があるようでない。泡沫の夢の如く。
師匠は明石が裏で動いていると告げたが、何をしているのかまだわからない。先ほどの小夜さんのように、すこし苛立っていると自覚しながら問う。
「兄さんは、何をしようとしているのです」
「私は何も。正直に言えば、いまはまだ分からんのだ。なにもかもが不透明で不確定で不明瞭。女当主が何者であるか、何者であったか、何者となったか、そして、なにをしようとしているのか。皆目見当がつかない。ただ、あまり良くないことが起きようとしている。そんな予感があるのさ」
「良くないこととは……」
「屋敷と一族には、なんらかの術がかけられている。もっとも、術と呼ぶにはあまりに気配のないもので、そもそも術をかけた者はいないか、すくなくとも現世にはおるまい。 その目的がなんであったのか、女当主がどういった役割をしているのか、それも私にはわからん。
くわえて、いまひとつ。新たな時代になり、吉原も変わった。四隅の結界をなしていた神社が合祀され、狐太夫も身請けされて華族の奥方となるような世の中だ。
しかし、人の想いが変わるでなし。憎しみも焦がれも、恨みつらみも、踏みつけられた華のような心が消えるわけじゃない。腐った溝川のように、詰まって、匂って、溶け落ちて、名状し難い何者かを生むだろう。
私が何か良くないことが起きようとしていると予感した最初は、真紀のことだった。あの子は不幸にも火伏せりに出会ってしまった。図らずも女当主に助けられたわけだが、火伏せりの気にあてられ、結局、数多の蟲がよりついて死ぬこととなった。ことほどさように厄介な相手だよ。
安易に手を出すべきではないが、さりとてそのままにもしておけぬ。吉原での祓いができぬようになったいま、女当主か、あるいは怜子嬢が火伏せりを鎮めねばなるまい」
「鎮めるとは、蟲喰いの儀に代わる交合ということですね」
「そうだ。だが、 そう気負うな。本来であれば、そうして鎮めるべきものというだけのこと。実際に、どうしようとしているのか、それはわからん。問い詰めたところで意味もない。
やれやれ、人間ほどに嘘つきで罪深い生き物もそうはない。なにが正しく、なにが正しくないのか。正しい道とはどこにあるのか。禍福はあざなえる縄のごとし。人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如しというが、つけくわえるなら、それは暗中の道でもあろうさ」
ふぅと息を吐いて、にやりと笑う。
「そこで、光雄、きみの出番というわけだ。花札はできるかね」
「できますが、どういうことですか。意味がわかりませんよ」
「簡単な話だよ。年をとると何事に対しても慎重になる。そろそろ頃合いかとは思うものの、相手の真意もわからぬうちに動く気にはなれない。一方、きみのような若者は無鉄砲で無思慮で浅はかだが、それこそが強みでもある」
まじめな顔で話すのを遮って、小夜さんが投げつけるように言う。
「光雄くん、真剣に聞く必要はありません。要するに、早急に動くか否か、博打で決めようとしているだけです」
「そう言ってしまえば身も蓋もないだろう。だが、 運否天賦も時には有用ということさ」
「誰にとって? それか、何にとって有用なのでしょう」
冷たく言って立ちあがり、小夜さんが部屋を出ていく。その際に、もし、今宵にもということであれば、いつものようにお呼びください、とだけ告げていった。
やれやれ、ごきげんななめだね、と笑って、明石が花札を取りだした。
結局、この日、僕はコテンパンにやられてしまい、明石はまだ動かないことを選んだ。僕自身もまた、何をすればいいのか、暗い道で途方に暮れていたと言っていい。もしかしたら、良くも悪くも、慎重な大人というものになりかけていたのかもしれない。
……みき様が大やけどを負って死にかけたのは、花札の夜から数日あとのことだった。




