第23話 ……けて
離れにある怜子の部屋へ入ると、冷たい病床特有の匂いがした。
黙って怜子を布団に寝させていると、どこか遠く、ほろほろと蝉の声が聞こえたような気がした。子供のころ聞いたのとは違い、いまにも力尽きそうなそれは、誤って早く羽化してしまった虫なのかもしれなかった。
「光雄、やっと来てくれたのね。ちょっと待たせすぎよ。般若の面でもほしいところね」
「なくても、十分こわいな」
「まあ、あいかわらず失礼ね」
「ふふ、われを頼めて来ぬ男、角三つ生いたる鬼になれってな」
「もう、へんなことばかり詳しいんだから」
くすくすと笑う怜子の声はいまにも消え失せそうで、土の下から聞こえるかのように幽かなものだった。
女当主とのやりとりが思い出される。
怜子の分も僕が喰うと伝えたとき、拒絶されるかと思いきや、意外にも、にやりと笑って、ではそうするがいいと応じたのだった。
「……光雄、光雄、聞いてる?」
「ああ、どうしたんだい」
「どうしたじゃないわ。きみ、本当に蟲喰いなんてするつもりなの」
「するさ。必要なことなんだろう?」
「ええ、そうね。だけど……」
すこし気の早い蝉の声が聞こえて話が途切れた。ほろほろと、くずれそうな鳴き声だ。
「さびしい」
蝉の声がかい? と笑いながら聞くと、怜子は、ふるふると首を振って答えた。
「いいえ、ただ、怖くて寂しいだけ」
なにが怖いのか問いかけようとして口をつぐんだ。死という言葉が浮かんだからだ。それほど彼女はやつれてしまっていた。
「どうしたの、光雄。もしかして、わたしが死ぬんじゃないか、そんなことでも思った?」
「いや」
「そう。でも、わたし、死ぬのは怖くない。それよりも、なんだか最近、変な心もちなのよ。だんだんと私じゃなくなっていくみたいで。
いやな自分が取り繕うこともできずに表へ出てきてしまうようで。きみに嫌われてしまいそうで、それが怖いの」
背を向けて身を震わせる姿は晩秋の蝉のようで、凍えているのか、両腕で自分を抱きしめていた。思わず、ほろりとその上から手を回して抱きしめる。
震えのとまった怜子が首だけを曲げて、こちらをみる。一粒の涙がほおを伝い、口もとへと視線を導いた。やせて、しかし、そこだけが妙につややかな唇が僕を誘う。自然と吸い寄せられるように互いの顔を近づけあった。
けれど、怜子は、不意に視線を逸らし、唇を逸らした。
……けて。
と、つぶやきがあった。そのときちょうど再び蝉が鳴きだして、はっきりと聞きとれなかった。なんと言ったのか目で問いながら怜子をみつめる。ちいさく艶やかなくちびるが開いて、なにか言いかけたけれど、その口中に影が動き、また閉ざされてしまった。
一瞬、みえたのは蟲ではなかったか。
人の目のような目を持ち、百足とも蜘蛛とも見える不快な姿がちらりとだけ動いたように思えた。その後、どうかしたかと尋ねても、ううん、なんでもないと返ってくるばかりだった。
あのとき怜子の言葉が聞こえていれば、なにが起きているのか気付いてさえいれば。いや、やめておこう。そのときそのとき、あるべきと思うことをしてきたのだから。




