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第14話 小さな夜


 不安と後悔と恐ろしさが僕を屋敷から遠去けた。それでも日をおいて訪ねていった先にいたのは人が変わったように無口で陰気な怜子だった。夜に吸い込まれたように。


 その頃からだろう。床につくことが増え、病弱な姿をみるようになった。暗い変化を引きだしたのが父親と真紀の死によるのか、でも、どうもそれだけではないような。


 あの日、宵の口にみた光景を思いだす。


 しかし、女当主が蟲と呼んでいた蜥蜴とかげのような何かについて尋ねようにも、ほおがこけてギョロリと大きくなった目で震えるようにして無言のうちに問いかけを拒絶されてしまう。


 果てには会うことすら拒絶されるようになった。曰く、加減が悪い。曰く、気分が悪い。曰く、会いたくない。使用人から手渡された紙には、もう会いたくない、来ないで、との文字が記されていた。たしかに怜子の字で。


 本当にそうならば仕方ない。だが、書き言葉は話し言葉以上に嘘をつく。ありもしない気持ちを人に突きつけることもできるのだ。

 僕はもう一度だけ怜子に会いにいくことにした。会って話をしたい、本当に本心から拒絶されているのかどうか。


 それは暗く小さい夜のこと。


 何が起きようと構わない。そんな気持ちで屋敷の裏手、土塀のそばに立った。ぐるりを囲む土塀は侵入を阻むというよりは境界を示すための物に過ぎず、乗り越えることは容易だ。

 なのに、土塀に近付く勇気がでない。女当主の目玉、口の端に覗いた小さな手足、顰面(しかみめん)の鬼女、しかし、頼りなげで寂しげに、なのに僕へうなずいてみせてくれた怜子。逡巡し、本能的に逃げ出そうとする体に逆らって土塀に手をかけ足をかけたところへ、


 およしなさい。


と夜の奥から女性の声がした。まだ若く、着物姿に御高祖頭巾おこうそずきんを被っている。目だけでも美しさが漏れていた。


 したしたと歩いてくる動きは猫のようで、足音とてない。まっすぐ芯の強そうな視線は彷徨さまようことなく、睨むようにしているのだった。すっと触れるか触れぬか、僕を土塀から引き離し、裏道に立たせた。


「怜子嬢に会いにきたのですね?」


 との問いかけの通りなのだが、そもそも何者なのかと問いかける前に、その女性の周囲に緑色の半透明な蛇が見え、ぎょっとして後ずさった。まるでそれが合図だったかのように、足元に無数の蟲が転がっていることに気がついた。踏みつけても手応えはなく、幻に過ぎないが、それらは虫か小動物のようにみえながらそのどれでもなく、確かな存在感をもって此方こちらをみていた。体の作りも手足の生え方もでたらめで、ただ、その目だけは虫ではなく人の目のようにみえる。


 一瞬、女性のことを忘れて、蟲たちの視線を避けようと身をよじり、土塀の方へ向き直った僕は、ひっ、と声をあげてしまった。そこには、足元の蟲たちなど比べようもないほどの無数の蟲の群れがたかっていたのだ。大きな石を持ちあげたら、裏側にびっしりと百足むかで蚯蚓みみずがついていたかのように。


 見えて、いるのですね?


 妙な区切りを入れて問いかける女性の声が、しんしんと響いた。思えば、蟲たちは音を立てずにうごめいているのだった。


「みえているのならばなおのこと。そこな屋敷は、もはや人の住まうところではない。貴方あなた貴方あなたの家へ帰りなさい」


 ぴしゃりとした物言いにも、どこか温かな気配がある。屋敷では見たことのない女性で、怜子の家の者かと問うてみても首を振るばかりだった。いっこうに帰ろうとしない僕の方をみて溜息をついてみせる。


「いいですか。忠告はしました。それでも忍び込むというのなら勝手になさい」


 今夜、死にたければね。と、揶揄からかうような声を残して、一歩、一歩、頭巾姿の女性が闇へ消えていく。


 本当に助けたいのなら学ぶことです。


 との声に続いて、ぽとんと小さな蟲を投げてよこすのだった。


「明日、この屋敷に来る女の前でそれを呑みこめば、あるいは思い人を救うえにしを結ぶことができるやもしれません」


「この蟲を? 呑む?」


 膝をついて小さな蟲に手を伸ばした。さわれないのではないかとの疑問を打ち消すように、粘液質で、ぐにゃりとした手触りが気色わるい。それはカエルになりかけのオタマジャクシのように手のひらの上でピクピクと短い手足を動かしている。不快そうな表情を知ってか知らずか、姿なく女性の声がいう。


「いまからこの塀を越えていけば、百のうち百の死が待つでしょう。それを百のうち一か二くらいは外してくれるはず。とはいえ、その蟲を呑み、運が悪ければ、やはり死にます。貴方に、それだけの覚悟があるのなら」


「……何者かもわからないあんたの言葉を信じろと? あんたは何なんだ?」


 それはまたいずれ、貴方あなたが生き延びたなら。


 そう言い残して、今度こそ女性が姿を消した。と同時に、周囲に群がっていた蟲たちも姿を消し、しんとした夜気を月明かりが貫く。ぶるりと体が震え、その日の何かが終わったことを知った。何者ともわからないまま、僕は女性の言葉を信じた。そして、手のひらにはまだその蟲が幽かな感触とともに残っていた。

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