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第13話 うなずき


 濡れた着物が、どれほどの寒気を誘ったか。


 屋敷へたどりついた時には、怜子の顔は真っ青で、唇だけが血のように紅く。幽鬼の如き姿は、哀れよりも畏れを呼ぶ。


「帰ったか」


 その声は、あたたかくも冷たくもなし。たとえるなら、蛇か虫が人の口を借りて話しているように感じられた。


 屋敷の表に立って待つのはくだんの女当主だ。


「待っておったぞ。さあ、務めを果たせや」


 がちりと怜子の腕をつかみ、屋敷へ引き込もうとするが、わずかにあらがいて、


「……いや」


と怜子がつぶやく。ならば、ならば、と女当主が応じていわく。


「ならば、小僧も共に来させるか」


「いや!」


 はっきりと応じ、手を払うと、自ら屋敷のなかへ歩いていく。一歩、あとを追った僕のまえに女当主が割って入った。


「小僧、おまえに用はない。かえれ」


 と捨て置いて、門扉を閉ざしてしまった。かんぬきを入れる音が暗がりに響く。明確な拒絶をうけて、仕方なく……。などとは思えるわけもなかった。僕はもう子ども時代を終えようとしており、体も大きく、屋敷を囲む土塀を乗り越えるくらい造作もない。真紀の弟が発した言葉、怜子が嫌がる務め、そのままにして帰りたくはなかった。


 ひっそりとした屋敷、勝手知ったる屋敷のなかをすりぬけて怜子の部屋へむかう。季節によって受ける印象がこれほど違うかというほど、明るく暑かった中庭は、暗く冷たい。黒々とした草木は深く眠りについているかのようだ。使用人らの気配もなく、そもそも生きた人間の気配が感じられない。白い息が己の魂か何かのように思えて不安になる。


 障子に大小二つの影が映っていた。


 ゆらゆらと形をとってはくずれるそれらは、怜子と女当主のものに違いなかった。なんとなれば、しんと凍りついた夜に、二人の声が聞こえてきたからだ。


『もう堪忍してください。これ以上は……』


 とむせぶようにいうのは怜子のそれ。ならば、応じるのは女当主だろう。


『覚悟をみせや。真紀がんだのは、われのせいやぞ。為すべきこともなさず、おあそびにうつつを抜かしよって』


 冷たい響きの声に返事はない。心なし愉快そうに言葉を続ける。


『ゆるされへんな。ああ、ゆるされへんとも。そや、怜子、われができへんゆうなら、あの小僧に呑ましてみるかえ?』


 へへぇ、楽しいなぁ、と笑うその笑いに、あたたかみは欠片かけらもない。


「待って! 呑みます。呑みますから……」


 との声は、障子のあわせめから耳に入ってきた。なかで何が為されているのか、障子と障子のわずかな隙間に目を近づけようとしたときのことだった。

 暗い縁側から室内をのぞいた僕の目に映ったのは、火鉢のほのかな火に照らされた怜子の白い手と、それが持つ蜥蜴とかげのような奇妙な生き物だった。じつのところ、直感的に蜥蜴とかげではないとわかったけれど、では何かといえば説明は難しく、そこらの当たり前の生き物ではないとしか言えない。


 もっとよく見ようと目を凝らしたとき、怜子がその何かを口に含んだ。うごめく手足らしきものがツイと呑み込まれていく。

 だが、見えたのはそこまでだった。代わりに、目の前に、ぎょろりとした目が浮かんでいた。突然あらわれた感情の色のない目玉に、ぎょっとしてのけぞると、からからと障子戸をひらいて、内外を仕切るように女当主が中腰になってこちらをみていた。


「なにをみた?」


 責めるでなく引き寄せるでなく、なにを求めているともしれない声音が恐ろしく、逃げるでなく取りつくろうでなく、応じていた。


「……蜥蜴とかげのような」


「ほう、むしがみえたか」


 ……さて、では、こやつをどうするかな。と、それこそ虫かなにかを見つけて潰すかどうか迷うほどの冷たさでつぶやく。


 待って!


 ふたたび怜子の声がして、光雄は関係ないでしょう? と気丈に呼びかけた。


「関係ないねぇ。ふん、そらまあ関係ないわ。蟲がみえたところでどうもならん。屑屋の餓鬼か。くくく……」


 くくく、くくく、と、うつむいて笑いながらも、目だけは僕から離そうとしない。ところが、ふいに髪を振りあげるようにして、


「まあええ、いかしたる。……ねや!」


と激しい口調で告げた。その調子は、いつかどこかで見た顰面(しかみめん)の鬼女を思わせた。奥の暗がりにいる怜子に目をやると、かすかに頷くのがわかった。


 後の後まで後悔したことには、そのうなずきに、逃げることを許されたような気がして、僕は後ずさり、その場をぬけだした。黒々とした眠る草木のあいだを走り抜けながら、鬼女の笑い声が追いかけてくるかのように思えた。

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