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第10話 いましめ


 昼日中ひるひなかであるのに、屋敷のなかは路上よりも寒い。蝉の声にみちていた夏の日とは比べものにならないくらい静かで陰気だった。それにはそれの美しさがありそうなものだけれど、ただ灰色に塗りつぶされたような空気が重く、冷たかった。


 女当主にだけは会いたくないと思いながら、怜子の部屋を訪ねた。


 ほかに誰もいないか探りながら、中庭を抜けて縁側の奥をみると、開け放った障子のむこうに膝をそろえて怜子が座っていた。火鉢を前に、一人で震えながら。


 がさがさと下生えを踏んで近付くのに気がつかないわけもないのに、怜子は顔をあげようともせず、火鉢に手をかざしていた。葬儀のときと変わらず生気のない様子で、しかも火鉢に火の気はなく、かさかさに風化したような炭が吹きこむ風にゆれているのだった。


 怜子、と名を呼ぶ。


 何度かくりかえして、ようやく怜子が顔をあげて、こちらを見た。


 光雄、と疑うようにいう。


 涙ぐんだその顔に、少しだけ朱がさすように生気が宿った。そうして手の甲で涙をぬぐい、ようやく火が消えていることに気づいたらしい。炭をおこし、障子戸を閉めると、ほんのりと明るく、あたたかくなった。


 話を聞くと、真紀がいとまを出されてから屋敷内が寒々としてきたとか。自分の来訪も、どうやらずいぶん握りつぶされていたらしい。追い討ちをかけるように父親が亡くなり、女当主が名実ともに内外をとりしきるようになって、幼いころ以上に自由がないのだという。


「真紀はね、かあさまが、亡くなる少しまえに郷里から呼んでくれたのよ。このあいだの件で調子をくずして、家へ帰しているあいだにいとまを出されてしまったから、ちゃんとお別れができなかったのが残念だわ」


 さびしそうな様子に、ふと思いついて聞いてみると、真紀の在所までそう遠くはない。


「会いに行けばいいじゃないか」


「そう、そうね。でも……」


 と、続くのは、蟲がいるからという言葉なのだろう。そもそも蟲とはなんなのか、このとき初めて聞くことができた。


 いわく、人の想いであると。


 憎悪でも愛情でも、呪詛でも言祝ことほぎでも、すべて同じもの。人は人の想いに縛られる。自分のそれ、家族のそれ、知人のそれ、赤の他人のそれ、それが誰のものであろうと、現実に人の行いを縛る。

 言葉という形をとり、記憶という形をとり、総じて、人は人の想いに縛られるのだ。それがこごって詰まって寄り集まって、蟲と化すとすれば、果たして?


 むろん、まだ幼気いたいけな少年少女に過ぎないころのこと。怜子の話もつたなければ、僕自身の理解もつたないのだから、わかったようなわからぬような気分であったのは確かだ。わけもわからぬまま腹だけは立った。それも想いのひとつではあろう。大人になりきれぬ者は、いつでも怒りを抱えているものだ。そしてそれは行動を呼ぶ。


 なんだ、蟲なんて! くそったれ!


 いま思えば、僕は怜子の代わりに怒り、怜子の代わりに行動を示そうとしていたに違いない。誰かのために怒り、誰かのために動くこと、それもまた一つのいましめか。


 わめく僕をみて、ぽかんとした表情を浮かべた怜子だったけれど、一息ついて、少しばかりの笑みを見せながら、


 ふふ、そうね。くそったれね。


と応じ、僕らはまた屋敷を抜け出して真紀に会いにいくことを決めた。


 このときの僕のなかにあったのは、煮えたぎるような怒りと、それを生みだしていた怜子への想い……好意であり、恋慕、思慕の情だったと認めよう……だけだった。


 人は、なぜ、最善と思うことを行い、最悪の結果を招くのだろう。好意と好意をあわせて悪意が生まれるのは、どうしてなのだろう。よかれと思うことが希望ではなく絶望を招くことがあるのは何故なにゆえなのか。


 だれか教えてくれるのであれば、そうだな、たちばなで酒の一杯でもおごってやろうじゃないか。ま、機会があればね。

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