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考え過ぎる瑕疵

作者: 隘路樹

 雑草という名の草はない。とはいえ、名前があっても雑草と呼ばれる草があることもまた事実。現実はそういうものだ。




 今日は徒歩で行こうと思う。


 俺の通う高校は俺の通っていた中学のすぐ側に位置している。最寄りの駅が同じで、駅からの道筋についてもほとんど同じ。最後に大きな交差点を左折するか右折するかほどの違いしかない。設定されている登校時間に大きな違いがあるはずもなく、朝は駅からその交差点まで見慣れた二種類の制服に塗れてしまう。あれから1年半以上経ったが2種類の制服をセットで見ると未だに思い返してしまう忌々しい記憶がある。高校に入学した頃、何も考えずにぼーっと歩いていると中学校の正門まで来ていたことがあった。そのときは遅刻を危惧して一目散に走り出した。まだ距離感の掴めていない時期だ。本当は一目散に走り出さなければいけないほどの距離ではなく、中学の登校時間に間に合っていさえすれば多少急ぐことで高校の登校時間には間に合う。しかし突如踵を返した高校生が振り返りもせずに走り出したことを想像すると滑稽だ。周りの中学生の視点では恥ずかしくて逃げ出したように見えていただろうな。今にして思えば中学の教師などに見られていなくて良かった。それで何か損をするわけではないが、とにかく嫌だ。中学校生活で何かトラブルを起こしたわけでも、先生と折り合いがつかなかったと言うこともないが、中学生の時分には大人はとても大きく見えたものだ。大したことを言ってなくてもすごいんだと思うし、よくわからないことで叱っていてもその言葉が絶対だった。後から聞いた噂によると中学でその出来事が話題になり、不審者だと警戒して翌日から半年ほどは正門と裏門に毎朝教員が一人ずつ立つようになったそうだ。熱心な仕事ぶりに大変心痛み入る。制服は着ていたのだから不審者ではないことくらいすぐにわかりそうなものだが、中学生の噂というのは斯くも突飛だ。制服を着たどこかの生徒だなんて情報がうまく伝わっているとは到底思えない。いや制服を着ていようが不審は不審かもしれない。やはり熱心な教師に思いを馳せることこの上ない。以降はうっかり中学に登校してしまうこともなく、遅刻に関しても危なげなく、欠席についても生まれ持った健康体をもって問題なく高校生活を送ることができている。友達は多くはないが少なくもない。席替えをしてもその先しばらくの学校生活を憂うようなことはなく、普通にみんなと話せる程度には仲良くしている。裏を返せば可もなく不可もなくの無個性な人間だが、それならそれで構わない。人気になりたいわけでもモテたいわけでもない。率先してクラスを引っ張っていく働きはしないが、特に学級活動を妨げることもない。もっともそれで友達もいない、成績も悪いとなれば少なからず問題もあるが、友達はいるしそれなりに成績も良い。成績はそれなりに良い。


 成績の良さが裏目に出たんだな。昨日は試験の返却日だった。今週最初の授業日である昨日の時間割は、見事に科目が一回ずつ散っていた。試験後最初の授業というのはその試験の返却と総評で少なからず時間が潰れる上に、担当教師の裁量によっては一時間の全てが解答解説にあたる場合がある。俺にとってはほとんど座ってるだけの時間なのでボーナスタイムと呼んで差し支えなかった。もちろん成績が良いと言っても天才秀才と呼ばれるほど圧倒的な得点を叩き出しているわけでもなく、上位十パーセントにはほぼ必ず食い込んでいるという程度のもので、一切聞かなくても良いと言うことはないのだが暇には違いなかった。昨日の最後の授業も例に漏れず試験の返却があったのであるが、その試験は見事に98点であった。自他ともに認める高得点であり批判される謂れのない高得点であった。99点なら惜しいと言う感想が先に来るだろうが、98点ならもう惜しくない。2点の減点は「惜しい」の範疇に留まる減点ではないと思う。何か小問が不正解だったと考えるのが妥当だろうし、配点の大きな問題における部分減点の場合だったとしても、配点が大きい問題なのだから減点される時点で致命的な間違いなのだろうと納得できる。しかし今回はそうではなかった。俺の減点対象は漢字。衣偏を示偏で書いたとか、要らない点を打ってしまったとか、そういうレベルの漢字間違い。全くショックじゃなかったといえば嘘になる。悲しかったし辛かったし、言葉を選ばなければ腹が立った。なぜこんなことでほとんど100点の生徒を貶めるのか、なぜそんなことに気付くのか、そしてわざわざ減点までしてしまうのか。漢字が間違っていることは認めるがこの科目で本質的に重要なことはそこではないはずだ。漢字テストならここまで腹も立っていない。ただ最も腹が立ったのは、そんなことで100点を逃した俺自身の詰めの甘さだった。そもそも指摘されるまで俺はそうだと思っていたのだ。その字をそうだと勘違いしていたのだ。だから試験勉強していた時もそのように書いていたし、授業でメモをとっている時もそのように書いていたし、他の場面でもそのように書いていた。その全ての記憶を恥じた。抗議する気力は全て削がれた。恥の上塗りだとわかってはいるが、半笑いで冗談めかして「先生、これくらい勘弁してくださいよ」「答えがわかってることはわかるじゃないですか」なんて誇りの欠けらもない発言をすることだってできたはずだ。抗議していればもしかしたら先生は「しょうがないなあ」なんて言って100点にしてくれる可能性すらあった。返却の際、名前を呼ばれ意気揚々と受け取りに行き、指摘を受けたその瞬間、全ての恥辱が走馬灯のように駆け巡り、全身の力が抜ける錯覚を覚えた。確実に指先は震えていたと思う。先生は何を考えていたのかわからないけど、過剰にショックを受けていることには気付いていただろう。俺はそんなことには気付かず何も言わずに席に戻ることしかできなかった。しばらくして隣の席の友達が名前を呼ばれた。


 彼女は贔屓目に見ても成績が良いとは言えない生徒だった。赤点こそ取らないがほとんどがギリギリで、試験の解説がある授業では常にペンの動いているような奴だった。しかしそれでも赤点は人生で一度も取ったことがなく、1点か2点でしっかりと回避していた。運が良いのか悪いのか。特段不真面目で勉強をしないというわけでもなく、寧ろ真面目で熱心で健気で愚直で愛嬌のある奴だった。授業態度も至って真面目であり、授業中、授業前後に関わらず積極的に質問したりできる、総合的に見てもまさに品行方正と言って差し支えない。勤勉という印象すら受けるにも関わらず成績は悪いというどうにもアンバランスな奴だった。ある時どうしてそんなに成績が悪いのか聞いたことがある。幾分かオブラートに包んでいたとはいえ、俺もなかなか無神経な主旨の質問をしたものだ。しかし彼女は不機嫌になるでもなく恥ずかしそうな表情で「いやあどうしてかなあ」と言葉を濁していた。「毎日学校で復習してるのにな」と照れていた。そのとき少し胸がざわついたことを覚えている。それ以上詮索できる雰囲気じゃなかったことも。解答用紙を丁寧に折りたたんで鞄に仕舞う。このあと解説があるのだろうが、解説されるべきところなど一切ない。なんとなく教科書とノートを開いて授業を受けている雰囲気だけを出しておく。試験にも興味が失せ、ぼーっと試験結果に騒ぐ生徒を左見右見する。ふと彼女が試験を受け取って俺の隣に帰ってくる様子が目に入る。彼女は少しもじもじしているようだった。遂に良い点でも取ってきたのかと思って問いかけた。まさかそんなことあろうはずもないのに。今まで一度も聞いたことなんてなかったのに。況してや彼女の答案なんて一度だって見たことなかったのに。


 「どうだった?」

 「ギリギリ」

 「また?」

 「1点で回避した」

 「相変わらず際どいね」

 「ねー」

 「逆にどこが合ってたの?」

 「あんまり見ないで」


俺が最初に目に付く問題なんて一つしかなかった。


 「これ、漢字







 今日は徒歩で行こうと思う。

 母親はギョッとしていたが、父親は平然とした顔をしていた。本来ならば電車など使わなくても自転車さえ使えばどうとでもなる距離だ。元々高校に進学した時点で自転車通学にする予定だったのだがまあ母といろいろあって電車通学継続になった。

 正門に着いた時点で遅刻だったら、今日は休もう。どんな顔をしてあの席に座って良いのかわからない。こんなことを考えていたのに、いつもより50分も早く家を出ている。1時間も早く出たら、いくら徒歩だといっても間に合ってしまう。30分前に出るのは、何がとは言わないが、少し心許なかった。どんなにショックを受けたフリをしても、彼女に合わせる顔がないと嘯いても、つまらない皆勤賞やくだらない教師からのイメージを守ることを捨てきれない。心の表面を覆う薄い理という名の想像力は想像よりも硬い。

 家を出る。今日は生憎の晴れ、カンカン照りだ。雨にでも打たれたい気分だったのに、俺の人生はつくづく上手くいくらしい。駅に向かう丁字路をなんとか曲がらずに真っ直ぐ行く。線路は導函数の判別式が0であるような三次函数のグラフのように湾曲しており、徒歩で行く場合は導函数の値が0になる点を突っ切る方が早い。全く想像が膨らまない。意味不明だ。思考が逃げていくのを実感してしまう。こんなことを言うと彼女は、




 しばらく行くと祖母の家の前を通る。俺が園児だったころ、優しかった祖母は俺の手のひらに消えない傷を残した。もうほとんど見えないような気もするが、消えてはくれていない。あれは完全に俺の不注意だった。祖母が趣味の盆栽を剪定しているところにうっかりと手を伸ばしてしまった。祖母も急ブレーキは効かず、俺の手のひらの端っこをうっかり剪定してしまった。流石は剪定鋏といったところで、あまりにも切れ味が鋭く痛みがなかったことをよく覚えている。流れ出す血が怖くて泣いたことも覚えている。母親が飛んできて祖母を激しく怒っていたことも覚えている。そのとき、悪いのは俺なのに、祖母が怒られているのに、後ろめたく思っていたのに、母を()()()()()()()()()()ことも覚えている。激怒した母親はその後俺を祖母宅には一切近付かせず、もう10年以上会っていない。そもそも祖母と母は折り合いが悪く、あくまで明確なきっかけにされたに過ぎないが、小さい俺にはどうすることもできなかった。そんな祖母の家の前を通る。懐かしさを覚えると同時に、育ちきった雑草に目が行く。趣味の盆栽は一部に過ぎず、祖母は庭の草木を整えるのが好きだった。そこそこ広い庭をいつも綺麗にしていて、子供ながらに他とは一線を画す美しさを感じていた。何をするでもなく庭で祖母と草木を眺めているのが好きだった。そんな草木はもはや見る影もない。花は枯れ、草は萎れ、庭に映えていた植物は既に雑草と化し、玄関は直射日光に晒されていながらどこか影が刺していた。時間にして十数秒だったとは思う。通り過ぎるには十分過ぎる時間だが、立ち止まってしまっていたことに気付いた時にはもう遅い。そこに祖母が居る。間違いない。随分と老けた。当時と比べれば別人だが間違えようもない。何を話していいかなんてわからない。俺が声を出すよりも早く、歩き出すよりも早く、顔を逸らすよりも早く祖母は俺の名前を呼ぶ。続け様に


 「久しぶり」


嗄れた声はあのときと同じだった。


 「うん、久しぶり。おばあちゃん元気にしてた?」


なんだこれ。英語の教科書か。元気でないことくらい見ればわかる。敬語にならなかっただけマシか。祖母はみるみる生気を取り戻し、大きくなったね大きくなったねと繰り返している。俺は何を言えばいい。そりゃ10年以上経ったからね。そんなこと言う資格があるのか俺に。妙な間を携えて、生ぬるい相槌を打つことしかできない。少しだけ熱を帯びた右手はいつの間にかポケットに忍んでいる。利き手でもない左手を中途半端にお腹の辺りまで上げ、


 「また来るよ。学校なんだ」


逃げた。10年間幾度となく頭を過ぎりながら何度も何度も祖母を捨ててきた俺に話せることなんて何もなかった。





 また歩く。このままでは学校に、そこまで思って愚考を振り払う。普通に歩けばいい。早歩きなど、全く意味がわからない。この道を歩くのも久々だ。相変わらず何もない街だ。家、公園、駄菓子屋?、家、家、アパート、空き地、線路、踏切。あれよあれよという間に接線の傾きが0の地点までまで来ている。接線ってなんだよ。もう半分ってところか。近くで聞くと耳が痛い。振り下ろされた行手を阻む境界線に足を止める。このまま開かなければ良いのだが、残念ながらそうもいかない。金属の擦れる音がじわじわと近付いてくる。多量の空気に進行を妨げられながら多くの人に踏みつけられてごうごう鳴いている。目の前を横切る電車には見慣れた制服が二色見えた。ぎゅうぎゅう鮨詰めでご苦労なことだ。


 踏切を超えると少しだけ栄えた雰囲気になる。都会とは言えないが郊外とっても差し支えのない街並みだ。子供ながらにここは所謂都会なのだと、欲しいものは何でもあるように思ったものだ。実際家の近くで買えないものが買えるし、プレゼントは必ずこっちで買ってもらった。駄々をこねるからあんまり連れてきてもらえなかったっけ。しかしさっきからやけに道草が目に入る。全体的には灰色がよく似合う空間だ。カラフルは屋根、看板、暖簾に押し付けられ、皆押し並べてどんよりとした外装を身に纏っている。灰色といってもいまやコンクリートに色を付けることのできる時代であり、一面灰色の街というには語弊があるが、概念的灰色の街には違いない。華やかなイメージのある都会だが、角柱を敷き詰め機能に特化し潜在的に色を失っている。ここまで言っても高々郊外、都会を前には我らがグレーも幾分か鮮やかになる。鬱陶しいくらい鮮やかに彩られた絵や文字が人が自然と目につく位置に散りばめられていることは言うまでもないが、どうやら目を凝らしてみるとそこかしこに緑は差している。道は丁寧に舗装され草の根一本残っていないと思っていた。ところがどうだ、道の端、亀裂の中、わざわざこんなところに生えてもなんのメリットもない、そんな場所に確かに草は生きている。花まで咲かせてご苦労なことだ。ふと雑草を見下ろす顔を少し上げると見慣れた制服がちらほら見えてきた。これは非常に良くない。この辺りなら流石に徒歩通学なのだろう。つまりこの時間にここを歩けていれば学校に間に合うということだ。不味い。腕時計は外してカバンに入れている。ケータイで時間を確認するのは無しだ。時間を見れば間に合うように速さを調節するに決まっている。しかし、生徒が居ては話は別だ。彼彼女らについていけば間に合うのだから。誤算だ。生きたペースメーカーなど、願ってもない。これは袋小路だ。彼女に顔を合わせたくないのは心の底からの本音だ。教室で顔を見るのを想像するだけでいまも動悸が止まらない。視界が揺らぐ。呼吸もテンポが崩れる。かといって明らかに学校に間に合わないような行動を取ることは出来ない。それなら初めから体調不良を理由に家から出なければよかった。学校とは逆方向に歩き出せばよかった。公園のベンチで1日中ぼーっとするのでもよかったということになってしまう。祖母と向き合って話をすればよかったということになってしまうのだ。もはや俺には周りの生徒のペースに合わせて重すぎる足を軽快に踏み出す以外の選択肢はない。視界に映る数人の生徒が全て遅刻の常習犯である奇跡を願い、可能な限り自然に遅刻する以外にないのだ。幸い俺の知り合いはいない。クラスメイトでも居てみろ、俺のキャラクター上軽く挨拶を交わしたうえで話を聞いてしまうに決まってる。あれ徒歩通学だっけなんて言ってしまうに決まっているのだ。人間、自分が聞いて欲しいことを相手に質問する傾向にあると何かの本で読んだような気がする。もし聞かれたら気分が乗ってとだけ答えよう。そんな場面が訪れないことを切に願うが。


 しばらく嫌なテンポで歩を進めていると、ふとチャイムの音が鳴る。少し遠くではあるが間違いなくチャイムの音だ。朝礼が始まる。これで引き返せる。しかし周りの生徒は一切急ぐ素振りは見せない。なんだ、こいつら遅刻の常習犯だったのか。奇跡とはなんとも起こるもんだな。チャイムが鳴って尚学校に向かおうという姿勢だけは評価に値する。などと上から目線で評価して、どこでこの数人の集団から抜け出そうか考えているとチャイムの主が顔を見せる。それはそれで不味い。遅刻者を監督する教員の一人でも居れば捕まった挙句教室に連れて行かれてしまう。そんなのはごめんだ。建物の全貌が見えてくる。見慣れた学校だ。3年毎日見続けた校舎、正門。


 俺はまだ引き返せないでいる。見慣れた学校は通り過ぎた。心なしかペースは上がったような気がする。当然だ、俺は知っている。走る必要はないが、あの門からは少し急がなければ間に合わないのだ。俺には経験がある。これは良い加減覚悟を決めた方がいいか。彼彼女らは決して遅刻者ではない。ある程度間に合うという算段で歩を進めている。それに追従している俺も当然に間に合うのだ。喜ばしいことだ。俺の皆勤は守られた。どのような顔で会うのか。結果を受け入れるそのときが来る。じわりじわりと終末のときが迫る。ここから教室まで5分とかからない。次の望みは彼女が休んでいることか。違うな、彼女が休んでしまえば、俺の生殺しが始まるだけだ。何故休んだのか、何が原因なのか、教師が体調不良と言ったとしてもその体調不良は何が理由なのか、本当に体調不良なのか、俺のせいかもしれない、そうに違いない。こんな発想になるしかない。ならば今日間に合ってしまうのは僥倖なのか。俺の朝の判断は短絡的で丸ごと間違っていたのか。本人に会えたなら謝るか、どう思っているのか聞くのか、そんなことできるほど俺に勇気はない。そんな度胸があれば今日学校を休もうなど逃げに徹した行動は取らない。もっとも逃げに徹しきれていないからこんなことになっている。思考が逃げていく。刻一刻と判決は迫っている。そもそも、俺は間違ったことをしているのだろうか。間違いを間違いと指摘しただけであって、何も間違いは犯していない。間違ったのは彼女であり、俺じゃない。俺も間違っていたけど。笑えない冗談だ。むしろここに登場する、俺と彼女と先生の三人で間違ったのは彼女と先生だ。俺の間違いは既に清算されている。間違いを受け入れ減点を飲み込んだ。しかしどうだ、未だ正されていない間違いがある。彼女は漢字を間違え、先生は採点を間違えた。それを明るみに出したのが俺なだけであって、暗がりに残していれば困ったのは彼女だ。そして採点ミスにより生徒の学習を阻害したことで、先生にしても困ることになる。このまとめに間違いはない。何度も言うが、このまとめを心に塗り込み、堂々と彼女の前に顔を晒せるほど、俺の肝は据わっちゃいない。


 正門に着く。時刻はチャイムの鳴る2分前を示している。靴を履き替え、教室に向かうのに1分も要らない。そもそも正門に間に合った時点でゲームオーバーだ。「正門に着いた時点で遅刻だったら、今日は休もう」そう決めていたのだから。残る1分強、顔を決めていく。告白でもしにいくかのような覚悟。告解をするには覚悟の時間が足りない。ダメだ、思考が、逃げる。







「どうだった?」

「ギリギリ」

「また?」

「1点で回避した」

「また際どいね」

「ねー」

「逆にどこが合ってたの?」

「あんまり見ないで」

「これ、漢字、

「あ、ほんとだ」

「待って


 彼女は先生のところに向かう。掠れるような俺の声は届かない。クラスメイトは得点に一喜一憂している。騒がしいの一言に尽きる。ダメだ。お前、赤点取ったことないんだろ。いままでギリギリでも回避してきたんだろ。赤点がどれくらい人生に影響するかなんて知らない。きっと生き死にに関わるほど重大じゃない。彼女の成績ではそもそも推薦制度も利用できない。でも今まで取ったことないんだろ。いままでも採点ミスでの回避はあったかもしれない。でもそれでも、運も味方につけて逃れてきたんだろ。何故そんなに軽々しく捨てる。黙っていれば、どうってことはないはずだ。自ら傷付きに行くな。俺は悪くない。行くな。帰ってこい。黙っててねなんて言って、舌を出して笑って、そのままカバンに仕舞えばいいんだ。人差し指を立てて、口元に当てて、二人でこっそり笑っていればいいんだ。


「あーー!!!」


突如大きな声が咲く。


「先生、俺、ここ合ってる!ほら!」

「あ、ほんとだな。ごめんごめん」

「赤点だったわ、危ねー」

「もういいかー、席つけよー」


彼女は帰ってきた。なんとか回避できた。


「授業終わったら行ってくるね」


彼女は舌を出して、笑う。








 チャイムが鳴る。急いで教室に入る。2分を丸ごと使って教室に向かった。席に着く。隣には彼女がいる。会話する暇もなく朝礼が始まる。一人ずつ名前が呼ばれ、銘々に返事をする。俺の番がくる。


「はい」

「元気ないな。安心しろ、大丈夫だぞ」

「え?」

「あと後で職員室までおいで」


後ろの奴が返事する。俺は担任の言葉の意味が理解できない。隣の彼女を見る。眠そうにしている。全員の名前が呼ばれ、朝の連絡を聞く。特段何もないらしい。朝礼が終わったら意図を聞きに行こう。職員室にも行かなければならない。ついでだ。彼女と話す機会を減らすことばかり熱心になっているな。朝礼が終わる。


「ねえねえ」


彼女に呼び止められる。眠そうな瞼のまま彼女はひまわりのような笑顔を浮かべて右手の五指を大きく開き、胸の前で左右に振る。


「大丈夫だよ!」

「何が?」

「行っておいで!」


俺の杞憂はここまで無惨にも打ち砕かれるのか。どんな顔をしていいか、何を話していいか、悩みに悩んだ末、俺が出来たのは間抜けな顔で「何が?」というだけ。なんなんだよ。言われるがまま向かう。


「先生、さっきのなんだったんですか」

「ああ、行ったらわかるよ」

「呼び出し喰らって不安なんですけど」

「まあまあ、わかるって」


職員室に着く。俺は担任について行こうとするが、あっちあっちと指差す方向に導かれる。


「えっと、用ってなんですか」

「昨日返したテストな、例の問題は正解にすることになった」

「え?」

「あの問題は漢字を問う問題じゃないからな。あれで十分だった。だから、丸。悪かったな。まあまたテスト持ってきて」


矢継ぎ早に結論まで行く。じゃあ1限の準備してこいと、


「あとまあ、気にすんな。大丈夫だから」


と早々に切り上げる。なんだ、なんなんだ。俺は何を見せられている。1限の準備だと。そんなことよりもこの状況だ。採点が変わった。俺が納得して納得して、納得して飲み込んだものを、ひっくり返した。俺がひっくり返せなかったものを彼女が。俺のため?違うな。彼女は俺の間違いを知らない。得点すら知らないはずだ。そんなことなど無関係に彼女は授業後、というよりほとんど放課後に先生のところまで向かって間違いを直談判したはずだ。この採点は間違っている、バツにしてくれと。減点してくれと、赤点にしてくれと、そう申し出たはずだ。それがどうだ。赤点にならなかった挙句、採点基準すら変えて、笑顔で「大丈夫」? 何も大丈夫ではない。そんな一人の生徒のために教師が全部ひっくり返していいのか。もちろん彼女の指摘の仕方なら筋は通っている可能性がある。” 漢字を問う問題ではないから正解にしろ” これでは筋が通らない。漢字の間違いも間違いは間違い。どんなに言い訳しても正解にはならない。しかし”漢字を問う問題ではないのだから、おまけしてもいいのではないか” そんな情状酌量を求める形であれば説得力としては60点といったところ、十分だ。おまけはおまけ、必ずしも正解になるとは限らないが、あくまでお伺いを立てる形で謙って下から物を言い、最終的な判断が教員に依存すれば可能性は跳ねる。しかしそんな言葉の機微に到達するほど彼女は頭が回る方ではない。純粋に間違いを間違いと認め「ごめんなさい」をする奴だ。じゃあなんだ、教師が一生徒の赤点を回避するために丸ごと変更したのか。わからない、教員がどういう理屈で成績をつけるのかはしらないが、一度返却したテストの採点を変更して、得点を計算し直すというのはいくらなんでも骨が折れるんじゃないか。たかがテストとはいえ、そのテストを受けた人は何百人といるはずだ。誰が同じ間違いをしたと覚えているのか。少なければ可能か。数人しかいなかったのか。だとしても手間はかかることに変わりはないが、正直、あり得る。彼女にはその労力を引き出すだけの魔力がある。それに相手は教員だ。あーいう真面目で大人しく問題を起こさない生徒は何かをくすぐるのだろう。成績こそ大問題だが、健気で何事にも真剣、純粋にして正直、彼女の特性は教師の”仕事のやりがい"を擽るんじゃないか。偏見か。そんな偏見こそ度外視するにせよ、きっと先生は悪くない。学校としても可能ならば赤点なんて出したくないに違いない。そういったここでしか起こり得ない特殊な建前や体裁、感情、温情、そんな不確定な人の気持ちなどが全て彼女の馬鹿正直な普段の振る舞いに引っ張られて筋の通らない結果を生む。そんなこと、俺は今朝の徒歩で気付いていたはずだ。間違いを指摘した俺は正しい。何も間違っていないにも関わらず、無闇に間違いだと錯覚し、正体不明の何かに後ろ指を刺され、朝っぱらからてくてく何故か歩いてきている。不合理極まりない。そうか、朝、俺が元気のないように見えたのは100点を逃したからだと思ったのか。俺が安い減点を子供みたいに飲み込めずに、駄々をこねていると思っていたのか。それで安心しろとそう言ったのか。得点は先生が伝えたのか。生徒の得点をわざわざ漏らすようなことはないだろうが、きっと「これであいつは100点か」とかなんとか口走ったのだろう。それを聞いていたから彼女は善意いっぱい、厚意100パーセントで行っておいでとそう言ったのか。善人とは斯くも恐ろしい。教員なんか浅慮の愚者か底なしの善人にしか勤まらない。ここまで生きて未だ擦れることのない彼女と、そこまで生きて尚摩耗を知らない教師が俺のことなんて話すんじゃねえよ。展開が読めないにも程がある。なんで本人が全部置いてけぼりなんだよ。1限開始のチャイムと同時に教室の扉を開ける。真後ろに担当教員が立っていることにも気付かない。連れてこられたように教室に入る。席に座る。遂にここまで彼女とは肝心な話ができていない。世界が会話させることを拒否しているようだ。まあ、もういいか。疲れた。100点にもなったことだし、こいつも赤点は回避した。俺の罪も、彼女の出頭も、無限遠方の時の中で次第に濃度を失い、何事もない日常として振り返られることもない。それでいいじゃないか。


「ねえねえ」


俺の全ての思考をリセットする真っ白の言葉が降りかかる。授業は始まっているんだぞ、何を考えている。ひそひそと、にこにことしながら彼女は尋ねる。


「どうだった?」

「100点になったよ。ありがとう」


何がありがとうなのかさっぱりわからない。我ながら吐き気がする。


「100点?100点だったの!?」


様子がおかしい。


「それじゃなくて、先生から何か言われなかった?」

「100点のことしか聞いてないけど」

「えーそっか、ほんとはね

「そこ二人、授業始まってるぞ。喋ってないで教科書開け」


彼女は人差し指を唇に当てて、声も出さずゆっくりと「後でね」と口を動かし、最後に少し微笑んだ。俺はそれに逆らえるはずもなく、頬杖をついて新しい内容に入った授業を聞くのだった。




 今日は徒歩で行こうと思う。

 学校には休む連絡を入れた。驚いてはいたが構わない。俺は休むと言ったら休むんだ。この10年と少しに向き合おう。俺のような名前もない雑草でもきっと剪定してくれるだろう。


あれから自分の成功がイメージ出来なくなった。その代わり100点が増えた。成績は今まで以上に良くなっている。彼女の成績も徐々に上がりつつある。なんたって俺が四六時中教えてるんだからな。いい加減彼女の雑草扱いも見るに耐えない。そろそろ立派な(なまえ)()かせてもらわなくては。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章力が高い。 [気になる点] 空行が無さすぎて非常に読みにくい。 [一言] 空行をもう少し空ければさらによくなると思います。
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