第82話 想像の創造
――――――――今度の夢は、教室から始まった。
時計は10時すぎを示している。前回までの夢は全部夜だったのに、今回はなぜか朝だ。この違いは気になることではあったけど、そんなことを考えるより行動しなければならない。
今は数学の授業中……この風景は見慣れたものだった。何もかもが、現実と変わらず、私に夢を見ているという認識がなかったら、ここは現実だと思い込んでいたかもしれない。
それにしても、夢の中の私は、ちゃんと学校に通っているらしい。現実の私は休学届を出していて、しばらく学校に行っていない。お父さんとお母さんに、これ以上の心配を掛けないためにも、そろそろ学校に通うことも考えるべきだと思った。
「……行こう」
私は立ち上がって呟く。
春がいない時にまたここに来て……あの声はそう言っていた。
今、授業中ということは、隣のクラスで春も授業を受けているはずだ。今回の夢が平日の朝から始まったのは、私にとって都合が良かった。
「急に立ち上がってどうしたんですか、久遠寺さん?」
先生が、少し驚いたような表情をしながら、私を見る。
「あ、ええっと……体調が悪くて……。保健室に行ってきます」
「分かりました。ひとりで大丈夫ですか?」
「はい」
教室を出て、保健室には行かずに、学校を後にする。向かうのは、春のお家。あの声の主……ヒカリちゃんに会いに行くんだ。
現実と変わらない町並みを走り抜けて、肩で息をしながら春のお家の扉に手を掛ける。
「……開かない」
扉には鍵が掛かっているようだった。こんなところまでリアルじゃなくてもいいのに、なんて思いつつ……壁に備え付けてあるキーボックスに目を向ける。
現実では、この中にスペアキーが入っていたはずだ。
「確か、番号は……」
ダイヤルを回し、解錠を試みる。ここが現実と変わらない世界なら、暗証番号も同じかもしれない。
このキーボックスは何度か開けたことがあったけど、暗証番号はうろ覚えだった。それでも心当たりのある数字を何度か試してみると、運よくボックスの蓋を開けることが出来た。
中に入っていた鍵を使って、扉を開く。お家に上がってリビングに入ると、部屋の中心にヒカリちゃんがいた。床に座り込んで、黄色のまんまるとした目でこちらをじいっと見ている。
……かと思ったら急に走り出し、私の周りをぐるぐると回って騒ぎ始めた。
「にゃにゃ!」
「ヒカリちゃん、どうしたの?」
私が声を掛けても、鳴き声を上げながら動き回るのをやめない。
この様子……やっぱりヒカリちゃんは、私に何か伝えたいことがあるんだ。
「にゃにゃにゃにゃ!!」
けれど、いくら待ってみてもあの時のような声が、頭の中に聞こえてくることはなかった。
私の勘違いだったのかな……? まだ元気に駆け回るヒカリちゃんを抱き上げ、他の可能性を考えようとした時……
『ルリ! 聞こえてる? ルリ!』
鳴き声が止んだかと思うと、頭の中に例の声が響いた。
「きっ、聞こえてるよ! ヒカリちゃんなの?」
『そうだよ、ボクはヒカリ。良かった、やっぱり会いに来てくれたんだね』
「ヒカリちゃん……。この前言ってた、お話って何?」
腕の中のヒカリちゃんと目を合わせて、語りかける。
『それを話す前に確認しておくよ。……ここが夢の世界だって、ルリも分かってるよね? なら、この世界は春が見ている夢だってことは?』
「確信はなかったけど、そうじゃないかとは思ってたよ。でもそれ以上は、ほとんど何も分からない」
春が創り出したはずのヒカリちゃんが、どうしてそんなことを尋ねてくるのか分からなかったけど、とりあえず流れに任せてありのままを答えてみる
「ヒカリちゃんは、この夢の世界について何か知ってるの?」
『うん。じゃあお話の前に、ボクが知っていることを教えるね』
ボクにも分からないことはたくさんあるんだけど……そう前置きして、ヒカリちゃんが語り始める。
『ハルがこの夢を見始めたのは、病院に運ばれた日の夜なんだ。ハルはあの日、苦しんで苦しんで、ついに耐え切れなくなって自殺を選んでしまった。ルリのおかげで命は助かったけど、ナツノがいないつらい現実に戻りたくなくて、この夢の世界に閉じこもるようになったんだ。ここはハルが創り上げた、ハルが思う幸せな世界でね……』
ヒカリちゃんが言うことは、この前私が立てた仮説と同じだった。
ここは、春が創り出した“幸せな夢”……。
『この夢の世界が出来てから3日が経ったけど、ボクが知る限りここは現実と変わらない。ナツノが生きていることと、ボクがいること以外はね。それはきっと、ハルが望んでいるからなんだ。何事も起きない、平和で幸せな日常……それが現実ではもう手に入らないってハルは思い込んでいるから、眠り続けることで都合のいい夢の世界に閉じこもっているんだよ』
春が望む平和で幸せな日常……だからこの夢は現実と同じなんだ。夏乃ちゃんとヒカリちゃんのことも、今の春は現実だと思い込んでいる。たぶん、夏乃ちゃんやヒカリちゃんがすでに亡くなっていること、春が自殺を選んだこと、他にも都合の悪いことは、この世界ではなかったことになっている……つまり“幸せな夢”を見続けるために、今の春はそれらを忘れてしまっているんだ。
でも、それならヒカリちゃんは……。
「ヒカリちゃんは、春が創り出した存在でしかないよね……? それなのにどうして、今の春が知らないようなことを知っているの?」
『あっ、そっか。ルリからすれば、そう考えて当然だよね。あのね、ルリ。ボクは、正確に言えばハルが創り出した存在じゃないんだよ』
「……え?」
『ハルが創り出したんじゃなくて、ハルが呼び出したというのが正しい表現だと思うんだ。ナツノや他の人たちと違って、ボクには意識があるんだよ。この夢の世界の登場人物というより、今のルリと同じような存在なんだ』
「意識があって、私と同じ……? でも、ヒカリちゃんはだいぶ前に亡くなってるから、そんなはずは……」
『ごめんね、びっくりしちゃったかな……。最初に、ボクがどうして意識を持ってここにいるのかを話すべきだったね。ボクが死んでしまってから、この夢の世界に呼び出されるまでのことを、全部話すよ――――』
――――ヒカリちゃんが語ってくれたお話をまとめると……。
ヒカリちゃんは亡くなった後すぐに、魂だけの存在になって、春のそばで目を覚ましたという。
意識はあるけど体はなく声も出せず、誰にも気付かれずにただふわふわと浮かんで、春のことを見守るようになった。
「守護霊のようなもの?」私が尋ねると『ハルの事は守れなかったけどね……』と、ヒカリちゃんは寂しげな声で言った。
どうして死後、魂となって春のそばに居続けることが出来たのか……。ヒカリちゃんの考えでは、春の事が心配だという心残りがあったから、ということらしい。
学校ではいつもひとりで、家では虐待を受け続けていた当時の春にとって、ヒカリちゃんは唯一の心の拠り所だった。
そんな春がヒカリちゃんを失えば……? 私もよく知っているその先に起こる事を、ヒカリちゃんは亡くなる前に予見していて、心配で心配でたまらなかったようだ。
あの時私は、春が橋から飛び降りようとしたのを止めることが出来たけど、ヒカリちゃんの心残りが消えることはなかった。それから何年ものあいだ春の事が心配で、何も出来なくても、魂としてずっとそばで見守り続けて……。
そしてついに、ヒカリちゃんの心配が現実のものとなってしまう。
……春の首吊り自殺だ。
春の2度目の自殺を、私は止めることが出来なかった。一命は取り留めたものの、幼い頃と同じように現実に絶望した春は、今度は幸せな夢に閉じこもるようになってしまった。
ヒカリちゃんは春のそばで浮かんでいた時、春と繋がっていると感じていたようだ。その繋がりがあったから、春の夢の世界に現れることが出来たのだと、ヒカリちゃんは言った――――。
「今すぐに、全てを受け入れられるような話じゃないけど……とりあえず、ヒカリちゃんのことを信じてみるよ」
『ありがとう、ルリ』
ヒカリちゃんは、誰よりも春の事を想っている。今の話の真偽はどうあれ、それだけは確かなことだと思えた。
なら、ヒカリちゃんが私を呼んだ理由はただひとつ……
「春の目を覚まさせる方法がある……。お話ってそのことなんだよね?」
『うん。絶対に目を覚ますとは言えないけど、ボクに考えがあるんだ』
「何でもいいから、聞かせて。私にはさっぱり分からないの……」
『ハルが目を覚ますには……。ルリ、キミがハルにとっての生きる希望になればいいんだよ』
「私が、春の生きる希望……」
『そうだよ。ハルが生きることを諦めて夢に閉じこもるようになったのは、ナツノを失ったという現実に絶望してしまったから……。今のハルは、現実に希望なんてない
と思い込んでしまってる。だからルリがハルの希望になって、ふたりで一緒に、ナツノの死を乗り越えなきゃいけないの』
ヒカリちゃんの言うことはもっともだと思った。春が自殺を選んだことや、いつまでも目を覚まさないのは、夏乃ちゃんの死という堪えがたいほどの苦痛によるものだ。
その原因が無くなれば、春は目を覚ます……理屈は分かる。
…………でも。
「私には、出来ないよ……。春の生きる希望になんて、なれるはずがない……だって、そうでしょ? 私は、もう何年も春のそばにいた。春は何よりも大切で誰よりも大好きな人で……それこそ、私にとっての生きる希望なんだ……。それなのに、春は……春は……っ。私を置いて、死ぬことを選んだ……っ! ずっと一緒にいたのに、私の気持ちは春に届かなかった! 私じゃダメなんだよ……。 私なんかじゃ、春の生きる希望になれるわけないんだっ!!」
ずっとひとりで抱えていたことが、涙と一緒にどんどん溢れてきてしまった。
こんなことをヒカリちゃんにぶつけても、困らせてしまうだけなのに……。
『ルリ……』
「ごめんね、ヒカリちゃん。……とにかくね、私じゃ春の希望にはなれないって言いたかったの。私は春に置いていかれた立場だから。春の心の中に、私はいないんだ……。春にとっての私なんて、そこまで大切な存在じゃなかったんだよ……」
『ちがうよっ! そんなの、絶対にちがう!』
「……ヒカリちゃん?」
『春にとって瑠璃は、かけがえのない大切な存在だよ。ボクはハルのそばで、キミたちのことをずっと見てきたから分かるの。ハルの希望になれるのは、もうルリしかいないんだ』
「なら、どうして春は私を置いて自殺を選んだの? どうして夢に閉じこもったまま目を覚まさないの?」
『それは……まだ足りなかったから……。ここで、これから、ルリがハルの生きる希望になるの。この夢の世界があれば、きっと叶うはずなんだ。あと少し、ほんの少しだけのはずなんだ……』
「足りないって何? これ以上、何をすればいいの? 私に出来ることなんて、もう何もないよ……」
『――――“愛”だよ、ルリ』
「………………へ?」
思いがけない言葉に、間の抜けた声が漏れる。
あい……あいって、愛?
ヒカリちゃんは、急に何を言い出すんだろう……。
『もちろん、ルリもナツノもダイキも、ハルにたくさんの愛を注いできたのを、ボクはよく知ってるよ。あとは、ほんの少しのきっかけが必要だと思うんだ』
ほんの少しのきっかけ? ヒカリちゃんは、何を伝えようとしているの……?
『……やっぱり、ルリにも時間が必要なんだよね。でも、今はそれで大丈夫。春が目を覚ます鍵はもう、キミたちの中にあるんだから。あとは、この夢の世界で気付くことが出来るかどうか……それだけなんだよ』
「……ヒカリちゃん。何を言ってるのか、よく分からないよ……」
『今は分からなくてもいいんだ。ただ、ボクが言ったこと、心の片隅でもいいから憶えておいて』
そんなに持って回ったような言い方をするのは、どうしてなんだろう? ヒカリちゃんの意図をうまく汲み取ることが出来ない。
『とにかくだよ。ルリはハルの生きる希望に必ずなれるんだ。それは、キミたちのことをよく知ってるボクが保証するよ。だから今はボクを信じて』
ヒカリちゃんにそんな風に言ってもらっても、春の希望になれるなんて自信を持つことは出来ないけど……
「……分かった。私にはもう、ヒカリちゃんに頼るしかないから……」
『ありがとう』
ヒカリちゃんの存在という、ようやく見出せた一縷の望み。ヒカリちゃんのお話をよく理解できなくても、他に方法がない今は、ひたすらに信じて進むしかない。
「私が春の希望になれるとして……これからどうすればいいの?」
『この夢の世界で、なるべく多くの時間を、春と一緒に過ごすんだ』
「……それだけ?」
『うん。特別なことは何も必要ないんだよ。それが何よりも大切なことなんだ』
「でも、春は……」
そうは言っても、春は昔から極度の出不精だから簡単な話じゃない。学校の時以外は、何か特別なことが無い限り家から出ることがなかったから。
春とは長い付き合いだけど、その割には一緒にいる時間は多くなかったんだ。
『分かってるよ。ボクはずっとハルの事を見てきたんだ。ルリやナツノが、ハルを外に連れ出そうとしていたこともよく知ってる。今のままだと、ハルとの時間を増やすことは出来ないかもしれない』
「なら、どうすれば……?」
『――――ボクを人間にして欲しいんだ』
「……え? 人間に、って?」
『猫から人間になってしまったボクに、人間としての生活を教えるという口実でハルを外に連れ出すんだよ。そうすれば、一緒にいられる時間が増えるでしょ?』
「ちょっ、ちょっと待ってっ。確かにそうかもしれないけど、ヒカリちゃんが人間になる? そんな夢みたいな話……」
そう言いかけて、ハッとする。
『夢みたいな話でも、きっと出来るよ。だってここは、ハルとルリが見ている夢の中なんだから』
そうだ、ここは夢の中……。私は今、春が見ている夢の世界に意識を持って存在している。
「私が願えば、ヒカリちゃんは人間になる……?」
『ハルにこの夢の世界が創れたのなら、同じ夢を一緒に見ているルリにだって、それくらいのことはきっと出来るはずだよね』
以前の私は、この夢を明晰夢のようだと考えた。それは間違っていなかったのかもしれない。春にとってここは現実でも、夢と自覚している私にとっては明晰夢のようなものなんだ。
春の創り出した世界に、そこまでの干渉が出来るのか分からないけれど……とにかく、やってみよう。
「自信はないけど、試してみるよ……」
『あ、耳としっぽはそのまま残しておいてね』
「どうして?」
『ハルに気付いてもらうためだよ』
「うん、分かった」
『ボクは女の子だから、可愛くしてね』
ヒカリちゃんを床に下ろして、そっと目を閉じた。
ここは夢の中……想像の世界。私の想像は、きっと夢になる……。
――――想像を、創造するんだ。
人間の姿になったヒカリちゃん。
それがどんな姿をしているか、すぐに思い浮かんだ。春が子供の頃によく読んでいた本に出てくる、人に変身することが出来る子猫をモデルにした。その子猫の人の姿は小学生の女の子で、猫の耳としっぽがついていた。ヒカリちゃんは黒猫だから、黒い髪の毛、耳やしっぽは今のヒカリちゃんそのままにイメージして……うん、こんな感じだ。
私の頭の中で、人間になったヒカリちゃんの姿が像を結んだ瞬間……。瞼越しにでも分かるくらいに強い光を感じ、そしてすぐに消えたのが分かった。
――――目を開けると、そこには……
「でき……た? ヒカリちゃんが、女の子に……」
自分でやったこととはいえ、目を疑うような光景だった。私が頭に思い描いたそのままの姿で、女の子になったヒカリちゃんが座っている。
ここは夢の中だからと、そんなひとことで片付けてしまえるほど、目の前に広がる光景は普通じゃなかった。いや、それ以前に普通じゃないことはたくさん起きてるんだけど……とにかく私は、本当に自分が思ったままに夢を改変出来てしまったことに、驚きを隠せないでいた。
「わぁ、すごい。ボク、人間の女の子になっちゃった」
さっきまで頭の中で響いていたのと同じ可愛らしい声が、今度は女の子になったヒカリちゃんから発せられる。
「ねぇ、ヒカリちゃん。本当に出来ちゃったけど、春にはどう説明するの? 春はこの世界を現実だと思ってるんだよね? 今のヒカリちゃんを見たらびっくりするんじゃ……」
「ルリとボクとで、なんとかハルを納得させるしかないよ」
ヒカリちゃんは立ち上がって、確かめるように自分の体を眺めたり、耳やしっぽを触ったりしながら言った。
「心配しなくても大丈夫だよ。ハルは素直ないい子だからね」
「ヒカリちゃんがそう言うなら……」
「まずはハルに、この姿のボクがヒカリだっていうことを納得してもらう。そして、いきなり人間になってしまったボクに、人間としての生き方を教えてもらうという口実で、ハルに色々なことを経験してもらう。もちろん、その時はルリも一緒だよ」
「それは、いつまで続けなきゃいけないの……?」
「ハルがナツノの死を乗り越えられるまでかな」
「そんなの、どうやって分かるの?」
「それはハルにしか分からないけど……キミたちなら、大丈夫。ルリがいれば、ハルは必ずナツノの死を乗り越えることができるんだよ。だから、今はボクのことを信じて欲しいんだ」
この夢の世界で春と一緒に過ごす……そのことと、春が目を覚ますことに繋がりがあるとは思えない。だけど、こんなに真剣な様子のヒカリちゃんが……春のことを今まで想い続けてきたヒカリちゃんが、春の目覚めから遠ざけるようなことをする方がありえないと思った。
「ヒカリちゃんのことは、もちろん信じてるよ。でも、本当に他に出来ることはないのかな?」
「ボクもいろいろ考えたけど、ルリとこうやってお話して、ますますこの方法しかないと思ったよ。最初はハルに現実で起きてしまったことを全部話して、思い出してもらえばって考えてたんだけどね、それじゃあダメだと思うようになったんだ」
「でも、今のヒカリちゃんがハルに真実を話して、目を覚ますように言えばもしかしたら……。春にとってヒカリちゃんは、それほどにかけがえのない存在だから……」
春の心の中をヒカリちゃんがどれほど占めているか、あの日の出来事から嫌というほどに思い知っている。私じゃ無理でも、ヒカリちゃんの言うことなら春は聞いてくれるかもしれない。
「ボクでもルリでも、変わらないよ。この世界で過ごしてきて、ハルの想いがどれほど強いものなのか、よく分かったんだ。話をするだけじゃ、ハルは思い出さないよ。たくさん時間をかけて、ハルの心に少しずつ少しずつ問いかけていく……それしか方法はないと思うの」
春の目を覚まさせるには、どうやら一筋縄ではいかないようだった。
「……そっか」
焦る私をなだめるようなヒカリちゃんの声に、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た。
「……ヒカリちゃん。あと、ひとつだけ聞いていいかな……?」
「なあに?」
「私は今、春と一緒に眠ることでこの夢の中にいるけど……。私が起きているあいだ、私はこの世界にちゃんと存在しているの……? 私がこの世界に来るようになる前……私は、ここに存在していたの……?」
ずっと疑問に思っていたことを、立ち直れないほどの傷を負う覚悟で尋ねた。
今の私は、春が創り出した夢の登場人物ではなく、外から夢に干渉している存在だ。だけどこの世界にはおそらく、私という存在はひとりしかいない。家で目を覚ました時も教室で目を覚ました時も、私以外の私を見ていなかった。
私はこの夢の世界に後から入って来たのに、元々いたはずの私はどうしていないの?
――――この世界がもし、私が存在しないという前提で創られていたら?
そう考えると、つじつまが合ってしまう。そして、それは……。
春にとっての幸せな世界に私は必要とされていないという、残酷な事実を明確に示している……。
「いや……っ。そんなの……そんなの、つらすぎるよ……春……」
「大丈夫、安心して。ルリはこの世界が出来た時からいたよ」
頭の中を苦しいほどに圧迫してくる不安を、ヒカリちゃんの言葉が掃ってくれた。
「今のルリは元々いたルリに、意識だけが移ったような状態なんだと思うよ。これはハルが見ている幸せな日常の夢なんだから、ボクでさえいるのにルリがいないわけないでしょ?」
「……そうなのかな」
「ダメだよルリ。ハルに必要とされてないとか、考えてたんでしょ? そんな風に、卑屈な考えを持っちゃダメ。ハルにとってルリはかけがえのない存在だって、さっき言ったよね? ルリはもっと、自分に自信を持たなきゃいけないよ」
「……うん、ごめんね」
「そんなことを考えるよりも、これからのことを話そうよ。……ルリにはこれから毎日来て欲しいんだけど、大丈夫? ハルは病室で眠ってるみたいだから、やっぱり難しいかな?」
「私も出来る限りこの夢の世界にいるようにしたい。だから向こうで目を覚ましたら、お父さんにこの夢の話をしてみるよ」
「そっか、ルリのお父さんは院長さんだもんね。ルリが夢の中に入って来れるように、いろいろ手伝ってくれるかもしれない」
「うん。なんとか信じてもらえるように頑張る」
春は夢を見ていて、その夢は私と共有していて、さらにその夢にはヒカリちゃんがいて……そんなありえないような話を、お父さんが信じてくれるかどうかは分からない。
だけど、この夢の世界にこれからも訪れるためには、お父さんの協力は必要不可欠だ。私がお父さんを納得させないと、春が目を覚ますことはない。
「ボクはここで待つことしか出来ないから、ルリに任せるよ」
ヒカリちゃんはそう言って、壁に掛けられた時計を見る。時刻は12時すぎ。私がこの夢に入ってからもう2時間くらい経っていた。
「あと4時間くらいでハルが帰ってくる。ルリは学校を抜け出して来たんだよね? ハルにはそのことを伝えてある?」
「ううん。ここが春の見ている日常の夢なら、その辺もしっかりしておかないといけないってことだね。春には体調不良で早退したって、連絡を入れておくよ。あとは、私がヒカリちゃんを人間に変えたことも当然話せないし、ここにいたこともバレないようにしないといけない」
「今日、ナツノは帰るのが遅くなるって言ってたから、この家に先に帰ってくるのはハルのはずだよ。ボクがひとりでハルを説得するから、ルリは後から来てくれる? ほんとは一度学校に戻ってハルと一緒に来てくれた方がいいんだけど、そんな時間はなさそうだからね」
「分かった。じゃあ……」
それから私たちは時間が許す限り、これからの計画や、ヒカリちゃんが人間になったことをどう納得させるかなど……色々と話し合った。