第80話 幸せな夢
私は、首を吊っていた春をすぐに下ろして、救急車を呼んだ。春には意識も呼吸もなく、心臓も止まってしまっていた。
私が必死に心肺蘇生を行うと、すぐに春の心臓は動き出し、呼吸をするようになった。
だけど、春の意識は戻らず、昏睡状態のまま救急車に運ばれていった。
春はいま私の視線の先、病院の救急室の中で治療を受けている。
首を吊る春を見つけた時まだ体温があったから、心臓が止まってからそれほど時間が経っていないはずだった。
呼吸も戻ったし、助かる見込みは十分ある……ううん、絶対に助かるんだ。
私は、自分にそう言い聞かせながら、ただ祈り続ける。
お願い、春……。死なないで。夏乃ちゃんが死んで、春まで死んだら、私はもう耐えられない。ふたりがいない世界なんて、私には考えられない……。
「……どうして」
無意識のうちに、そんな言葉が零れた。
どうして春は首を吊ったかって?
…………そんなの、決まってる。
夏乃ちゃんの死に絶望して、生きることを諦めてしまったんだ。
『春は、強いんだね』
私は、涙ひとつ流さない春に、そう言った。春は大丈夫だと、安心すら感じてしまっていた。
「なによ、それ……。大丈夫なわけ、ないじゃない……っ」
“大丈夫”でいられるはずがなかったんだ。
大切なたった一人の妹を失って、涙ひとつ流さないなんて……。
あの時にはもう、春の心は、壊れてしまっていたんだ……。
そんな簡単なことに今になって気付くなんて、私にはきっと、春をそばで支える資格なんてないんだろう。
強い後悔と、自己嫌悪に心を支配されそうになった時、救急室からお医者さんが出てくる。私はすぐに駆け寄って、
「春は……! 春はどうなりましたか!?」
縋るように、問いかける。
返ってきた言葉に、私は深く安堵した。
…
……
………
命に別状はないと、お医者さんは言った。ただ、まだ目を覚ましておらず、容態の急変に備えて、春は集中治療室へと運ばれた。
お父さんが病院に駆けつけて来てくれて、これからの春のことを見てくれるみたいだった。お父さんはすごいお医者さんだから、きっと春のことをなんとかしてくれるはず。
私は、春が目を覚ますまで病院にいたかったけど、家に帰るようにお父さんが言った。私がわがままを言ってお父さんに負担をかけるわけにはいかなかったので、一緒に来てくれていたお母さんと家に帰った。
…
……
………
次の日になっても、春は目を覚まさずにいた。
でもそれは、意識不明のような状態ではなく、ただ眠っているだけだとお父さんは言った。
検査の結果、酸素供給が断たれたことによる脳へのダメージは、奇跡的に一切なかったという。近いうちに自然と目を覚まし、後遺症も無く過ごせると聞いた時、嬉しくて涙が流れた。
私は今、一般病棟へ移された春に会いに来ている。
看護師さん達は交代で春を見てくれていたけど、私に気を遣ってくれたみたいで「何かあったらナースコールを押してください」と言い残し、病室を出て行った。
春とふたりきり、静かな寝息だけが響く病室で、なだらかに時間が過ぎていく。
目の前で眠る春は、一定のリズムでゆっくりと呼吸をしている。まるで何事もなかったかのように、穏やかな表情を浮かべている春を見る度、私は、深く、深く安堵する。
「良かった……。本当に、良かった……」
投げ出された春の右手を握ると、体温が伝わってきて、春がちゃんと生きていることを実感する。
こうして春と手を繋いでいると、すごく、すごく、安心する。夏乃ちゃんが亡くなったことや、春までも失いかけたこと、全部無かったことだと錯覚してしまうくらい、心が安らいだ。
私はそっと目を閉じて、この心地いい感覚にしばらく身を委ねることにした――――――――
――――――――気付いたら私は、自分の部屋にいた。
あれ……? 私、さっきまで何をしていたんだっけ……。
「あ、電話だ」
机の上に置いてある携帯電話から、着信音が鳴り響いた。ベッドに座っていた私は立ち上がり、携帯電話を手に取る。
画面には『《《夏乃ちゃん》》』と表示されている。
「もしもし」
「あっ、瑠璃ちゃん? 夜遅くにごめんね! どうしても聞いてほしかったことがあるから、電話しちゃった!」
ひどく懐かしく感じる、元気いっぱいな夏乃ちゃんの声。
「あのね、あのね! さっきね、ついにお兄ちゃんがデレたんだよ! お兄ちゃんがあたしのぱんつを握りしめて……」
嬉しそうに語るその声からは、溢れそうなくらいのお兄ちゃんへの愛が感じ取れる。
……ああ。私のよく知ってる、私の大好きな、夏乃ちゃんそのものだ。
――――だから、気付いてしまった。これは“夢”なんだと……。
そうだ、私は春の病室で眠ってしまったんだ。春の手を握って心地よくなり、ついついウトウトしてしまい、そのまま眠りに落ちた。
――――これは、私が見ている“幸せな夢”なんだ。
「それでね、それでね。お兄ちゃんったら……」
電話越しに、懐かしい夏乃ちゃんの声を聞いただけでも、あの明るい笑顔が鮮明に蘇る。
「……瑠璃ちゃん、どうしたの? 聞こえてる?」
夏乃ちゃんはもういない。私はそれを、嫌というほどに分かっている。
これはただの“夢”で、現実では今、春との面会中だ。
……目を覚まさないといけない。私はそう考えた――――――――
――――――――目を開くと、視界一面が真っ白だった。
数瞬の後にボーっとする頭で、それがシーツの白だということに気付く。
私は、春が眠るベッドに突っ伏していた。やっぱり、さっきのは夢で、私は眠っていたみたい。
……不思議な夢だった。夢の中で、これは夢だと気付いたし、起きなきゃいけないと思ったら、すぐに目が覚めた。こういう夢が、明晰夢というものなのかもしれない。
今思い返してみても、さっきの夢は、夢だとは思えないほどリアルだった。
明晰夢は夢をコントロール出来ると言うけれど、それなら、リアルな夢の中で、夏乃ちゃんに会ったり、春と話したりすれば良かったと思ってしまった。
もちろん、夢の中でそんなことをしても、あとで虚しくなるだけなのは分かっているけれど、後悔せずにはいられない。
もう一度眠ったら、同じ夢が見られるかな? ついそんな考えが頭を過り、春の手を取り再び目を閉じようとした時、病室に白衣を着たお父さんが入ってきた。
「春くんは……まだ目を覚まさないようだね」
「うん……。ねぇ、お父さん。こんなに目を覚まさないのって、普通なの? 春は、もう良くなってるんだよね?」
私は、感じていた不安をお父さんにぶつけてみる。
「体に異常が見られないのは間違いないよ。でも、未だに目を覚まさないのは不可解だ。だから、今からもう一度、詳しく検査をする」
「……私はいない方がいいよね?」
「ああ。すまないが、面会は終了だ」
まだ春のそばにいたかったけど、そういうことなら仕方がない。検査の邪魔にはなりたくないから、一度病室を出よう。
「検査が終わったら、戻ってきてもいい?」
病室の扉の前で振り返り、尋ねる。
「いや、検査が終わるころには面会時間も終わっているから、今日はもう帰って休みなさい」
「……そう、分かった。春が目を覚ましたら、すぐに連絡してね」
…
……
………
パッと、目を見開く。時計を見てみると、時刻は午前11時過ぎ。久しぶりにぐっすりと眠ったみたいだった。今まで一睡も出来なかったがウソのようだ。
眠りにつくことが出来たのは、昨日の病室で見た夢がまた見れて、春や夏乃ちゃんに会えるかもしれない、と期待したからなのかな。
……でも、昨日のような明晰夢を見ることは出来なかった。
「春に会いたい……」
今日も病院に向かうため、急いで着替えを済ませる。
昨日、病院から帰ってきてから夜遅くまで、お父さんからの連絡を待ってたけど、結局電話が掛かってくることはなかった。今も携帯に連絡が入ってないから、春はまだ目を覚ましていないはずで……いくら体に異常はないとはいえ、こんなにも長く眠り続けていることに、不安を抱かずにはいられない。
部屋を出て、お母さんに病院に行くと伝えた。お母さんは、私のそばにいるために会社に無理を言い、家で出来る仕事をさせてもらっているらしい。
私が心配みたいで、お母さんはついてきてくれると言うけど、これ以上は迷惑がかけられないから「すぐ近くだしお父さんもいるから大丈夫」と言って断った。
春の病室に着いてすぐに確認するけど、やっぱり、目を覚ましていなかった。昨日と同じように穏やかな顔をして、安らかに寝息を立てている。
病室にいた担当の看護師さんに昨日の検査の結果を聞いてみたけど、体のどこにも異常が見られないとのことだった。その結果は春が元気であることを示しているけど、目を覚まさない原因が分かっていないということでもあるから、素直に喜ぶことはできない。
このままずっと目を覚まさなかったらどうしよう……そんな強い不安に苛まれる。せっかく命が助かったのに、こんなことになってしまうなんて……。
「……春、目を覚まして。お願い……」
私は、春の右手を握って、ベッドにもたれかかるようにうつ伏せになった。
今日はたくさん眠ったはずなのに、すぐに瞼が重くなる。昨日こうして手を繋いだ時と同じように、あたたかな感覚が胸の中に広がった。
また昨日と同じ夢が見られますように……そう心の中で願って、私は目を閉じた――――――――
――――――――ここが夢の中だと、すぐに分かった。
私は、昨日の夢と同じように、自分の部屋にいる。私には、さっき病室で眠りについたという記憶が確かに存在していて、こうして自分の部屋にいることがおかしなことだと……今、私は夢を見ているんだと、断言できる。
部屋の中を見渡してみると、現実の私の部屋とほとんど変わらないようだった。家具の位置が一緒なのはまだ分かるけど、小物類まで再現されているのは不思議に感じてしまう。
普通の夢なら、細かい部分はあやふやになっているような気がするけど……。明晰夢だから、こんなにもリアルなのかな?
部屋を出て、リビングにいるお父さんとお母さんにバレないように、こっそり家を後にする。夢の中なんだから、こそこそする必要なんてないはずだけど、この夢の世界がどこか現実のようにも感じられて、なんとなくそんな風に振舞っていた。
外は真っ暗だった。ポケットに入っていた携帯電話を見てみると、時刻は11時少し前だ。
私は今から春のお家に行こうとしていたけれど、こんな時間に迷惑かも……と、思わず二の足を踏む。同時に、これは夢なんだから気にする意味なんてない、自分のやりたいことをしてしまえばいいとも思った。
たとえこれが夢の中であっても……夏乃ちゃんに、もう一度会いたい。春と、久しぶりにお話ししたい。
私は走って、春のお家に向かう。
外の景色、春のお家までの道のり、何もかもが現実と同じようだった。この夢はやっぱり、普通の夢じゃない。
春の家に辿り着き、上がった息を整えつつ、インターホンを押す。しばらくそのまま待っていると、扉が開いて、春が現れた。
……ああ、春だ。
私の大好きな、春……。
不思議そうな表情を浮かべてるけど、夏乃ちゃんが亡くなる前の、元気な春そのものだった。
「瑠璃、どうし―――っ!」
「っ! 春!」
「うぉおおっと!」
色んな感情が胸に込み上げてきて、私は思わず、春に飛びついていた。
「お、おいっ! なんで急に抱きつくんだよ! どうしたんだよ、瑠璃」
春を抱きしめているこの感触は、ここが夢だということを忘れてしまうくらい、私の心を震わせる。
「聞こえてるのか? 大丈夫か、瑠璃?」
私は春を強く強く抱きしめ、幻想の幸せにただ浸り続けて……そのぬくもりで心が満たされた頃、ようやく離れることが出来た。
春が私の言葉を待っている。早く何か言わなきゃ……。
「ごめんね。つい。なんでもないの」
「なんでもないわけないだろ? こんな時間に来て、しかもいきなり抱きつくなんて……」
「抱きついたのは、ほんとについやっちゃったことなの。こんな時間に来たのは……えーっと、その、ちょっと近くに用があったからついでに……」
私は返答に困って、苦しい言い訳をした。
春は困ったような顔をして、考え込んでいる。こんな状況が現実でも起きたら、春は同じような反応をするんだろうなって思った。これは私の夢なんだから、そう思うのは当たり前のことなのかもしれないけど。
「にゃ! にゃにゃにゃ!!」
……突然、猫の鳴き声が響いた。
声がした方に顔を向けると、小さな黒猫が、春の足元で騒いでいる。
……猫? どうして春のお家に、猫がいるの……?
「ちょ、な、なんだ? どうしたんだよ、ヒカリ?」
「なに? この子猫は……?」
春のお家は、猫なんて飼っていないはず。なのにどうして私の夢に、この黒い子猫が突然出てきたんだろう……?
春のお家の中とか、春が着ている服とかは現実と変わりないのに、この黒い子猫だけが異質な存在だった。
「なにって、ヒカリに決まってるだろ?」
春はその猫を抱き上げて、事も無げに言う。
ヒカリ……その名前には聞き覚えがある。春が小学生の頃に河川敷で世話をしていた、捨て猫の名前だ。思い返せばあの子は、この子猫と同じような黒猫だった。
「…………。そう、だね」
黙り込んだ私を、春は心配そうな顔で見ていたので、様々な疑問をとりあえず飲み込み、頷いた。
『……リ。……ルリ? 聞こえる?』
突然、頭の中に、聞き慣れない女の子の声が響く。
「え? な、なに?」
「なにって、なんだよ?」
『ハルがいない時に、またここに来て……。お話があるの……』
また声が……。
「だ、誰なの? お話って……」
「なあ、ほんとに大丈夫か? やっぱりおかしいぞ?」
頭の中を響く声に困惑していると、春が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
春の顔が……とても近い。
「う、うん。ごめん。おかしいよね……私、帰るねっ!」
その顔を間近で見た私は、急に押し掛けたこととか抱きしめたことが無性に恥ずかしくなって、いてもたってもいられずに駆け出した。
大好きな人の顔があんなに近くにあったら、夢だとしてもドキドキしてしまって、冷静ではいられない。
…
……
………
春のお家から少し離れたところで立ち止まる。冬の冷たい夜風が、頬の火照りを冷ましてくれたみたいで、ようやく冷静になれた。
春とお話ししたいっていう私の願いは、一応叶いはしたけど、それはただの自己満足に過ぎない。ここは私の夢の中で、さっきの春はいわば、私が創り出した春でしかない。
……やっぱり、こんなことしても、虚しくなるだけだ。
「ったく。こんな夜に一人で出かけるなんて、危ないぞ」
もう目を覚まそう……そう思うとほぼ同時に、後ろから春の声が聞こえてくる。
……追いかけてきてくれたんだ。
春は、夢の中でも優しい……ううん、そうじゃなかったね。
私はきっと、無意識の内に、春に追いかけてきて欲しいと思ったんだ。
「うん……ごめんね」
「で、なにかあったんだろ? 話せないか?」
ここは私の夢の中だ。春に私が抱えている不安を吐露したところで、何にもならない。
私が創り出した春が、私が今欲しいと考える言葉で、なぐさめてくれるだけだ。
……こんなに虚しいことはない。
それが分かっているはずなのに……弱い私は、縋るように、口を開く。
「あのね、私、すごく不安なの……。これからどうすればいいのか、分からないの……」
「不安……? なにが不安なんだ?」
キミがいつまでも目を覚まさないから不安だと、そう言ったら、どんな言葉が返ってくるだろう?
私が春に求めているのは、どんな言葉……?
「言いにくいなら言わなくてもいい。ただ、俺たちは幼馴染で、えっと……友達、だ。いつか言える時がきたらいつでも俺を頼ってくれ」
結局なにも言えなかった私を、春はそんな風に励ましてくれた。私が求めていた言葉かどうかは、正直なところよく分からなかったけど、なんだか春らしいなと、また思ってしまった。
「うん、ありがと……春。あのね、ひとつだけお願いがあるの」
最後に、ひとつだけ。
自己満足は、これでもう、おしまいにするから。
「お家に着くまででいいから、手を、繋いでて欲しいの……」
「お、おう。そんなんでいいのか? ほら」
差し出された手を、そっと握った。
……春の手は、とてもあたたかい。最後にこうして春と手を繋いだのが、いつのことだったかはよく憶えていないけど……。
この、心までじんわりとあたたかくなる感覚を、私はしっかりと憶えている。
これからの不安が少しやわらいだような、そんな気がして、ふと、笑みが零れた。
私のお家の前で春と別れ、「夢はここまで」と小さく呟いた――――――――
――――――――瞼を、ゆっくりと開く。
ここはお家の前ではなく、春の病室……現実だ。
私は今見た夢の内容を、怖いくらい鮮明に憶えている。それにまたしても、目を覚まそうと考えた瞬間に、夢が終わった。明晰夢とは、こういうものなのかな……?
夢の中で春とお話しして、手を繋いだ。少しだけ勇気が湧いた気がしたけど、目の前で眠り続ける春を見ると、空虚感に襲われる。こうなることは分かっていた。どれだけリアルでも、しょせん夢は夢で、全て私が創り出したものなんだ。
……でも、ひとつ気になることがある。あの子……ヒカリという、黒い子猫の存在だ。
私の願望で成り立つ、自己満足な夢の世界に、どうしてあの子が現れたのだろう?
幼い頃、あの子のことを羨ましいと思ったり、代わりになりたいと願ったりする憧れのような気持ちはあったけど、それは別にあの子自身へ特別な思い入れがあったわけじゃない。
私とあの子の接点なんて、遠くから眺めたことが1度と、亡骸を春と一緒に埋めたことくらいのものだった。あの子がヒカリと言う名前で、黒い色をした子猫だったということを、さっきの夢の中で思い出したくらいに、関係性は薄い。
頭の奥底に眠っていた記憶が、たまたま蘇り、夢の中に現れた……その程度のことなのだろうけど、なんだか、得体の知れない違和感も覚えてしまう。
なんだろう、この違和感は。
夢の中にあの子が出てきたことが、とても重要なことのように思えて仕方がない。
「あ……」
その時……ふと。
ある、突拍子もない仮説が、思い浮かんだ。
春は今“幸せな夢”を見続けている。そして私は、春のそばで眠りにつくことで、その夢を共有した――――。
あり得ない、と即座に否定したくなるけど、もしそうであるならば、体に異常もなく眠り続けるという状況に納得がいく。
春は、夏乃ちゃんがいない世界に絶望して、自ら死を選んだ。だけど、春は一命を取り留めて……きっと、春からしたら、生きたくもないのに生かされている状態なんだ。
目を覚ましても、そこで待っているのは、夏乃ちゃんがいない絶望の世界。だから春は、絶望から目を背ける方法として、頭の中で夢の世界を創造し、目を覚まさずに“幸せな夢”を見続けることにした……。
そう考えると、あの黒い子猫が出てきた理由も説明が出来る。春にとってあの子はかけがえのない大切な存在だから、何年も前に亡くなっていたとしても、夢に出てくるのはおかしくない。
夢を見続けること、夢を共有すること。大それた仮説だということは分かっているけど、どうしても捨てきれないと思う自分もいる。
「目を覚ましたみたいだね、瑠璃」
「あ、お父さん」
病室に入ってくるなり、お父さんはそう言った。一瞬、春のことを言っているのかと思ったけど、違うみたいだった。たぶん、私が眠っている時に、一度病室を訪れていたんだろう。
「さっき春くんの検査をしようと思って来たんだけど、瑠璃がぐっすり眠っていたみたいだったから」
「ご、ごめん。邪魔しちゃった……」
「そんなことないよ。瑠璃がそばにいることで、春くんにいい影響を与えるかもしれない。……瑠璃は眠っている間ずっと、春くんの手を握っていたね。そんな風に大切な人を想う優しい気持ちが、時に医学では説明できない治癒をもたらすことがあるんだよ」
「私は、そんな……」
恥ずかしくなって、お父さんから目を逸らす。
「検査を繰り返しているが、春くんが目を覚まさない原因はまだ分かっていない。でも、春くんの健康状態は良好だから、安心して欲しい」
お父さんは優しい口調で言ったあと、私の頭を撫でてくれる。
伝えるべきだろうか? 春が夢を見続けているかもしれなくて、私もその夢を一緒に見たかもしれない、ということを。
……ううん、今はまだ、やめておこう。余計な時間を取らせてしまうことになりそうだし、話すのはもっとよく考えてからにするべきだ。そもそも、耳を疑うようなとんでもない話だから、お父さんが信じてくれるとも限らない。
「うん、ありがとう。検査は時間がかかりそう?」
「状況次第だけど、夜までかかる予定だよ」
「……そう。なら、私は帰るね」
確かめたいことがあったけど、仕方がない。
「気を付けて帰りなさい」
お父さんに返事をして、病室を後にした。




