第68話 キミの心に残りたくて
「みんな、いってらっしゃーい!」
笑顔で手を振るヒカリに見送られ、家を出る。学校がある日のいつもの光景。ヒカリが人間になって以来、繰り返されてきた日常だ。
俺と夏乃が学校に行っている間、ヒカリはひとりで留守番せざるを得ない。猫だったヒカリには通う学校がないからだ。
この先も人間として生きていくためには学校に通うことが理想ではあるが、現実はそううまくはいかない。ヒカリはたぶん、この先ずっと、元は猫であるというハンデを抱えながら生きていかなければならないだろう。
どんな時でも笑顔でいてくれるヒカリでも、その事で悩む日が来るかもしれない。もしそうなれば俺と夏乃や瑠璃で、ヒカリのことをしっかりと支えてあげたいと思っている。
「ホワイトデーまであと1週間! わーい、もうすぐだー! 妹は楽しみすぎて落ち着きません!」
学校までの道すがら、一緒に歩いていた夏乃が突然走り出し、振り向きざまにそう叫んだ。
「お前に落ち着きがないのはいつものことだろうが」
「いつも以上ってことだよ! お兄ちゃん、今年はなにくれるのかなー」
「なんで貰える気でいるんだ? いつもうるさいから、お前にはないぞ」
もちろん嘘だ。今年は夏乃と瑠璃、ヒカリの分をそれぞれ用意するつもりでいる。3つも貰ったことなんて初めてだから大変だけど、受け取った気持ちにはちゃんと応えたい。
「それは嘘だね! 今年もくれるのは分かってるよ! 毎年なんだかんだ愛のこもったお返し貰ってるんだもん!」
「愛はこめてねえから」
嘘が見抜かれてるのが癪だから、今年は本当に渡さないことにしてやろうか。
「私にもお返しくれるの?」
隣を歩く瑠璃が、ニコニコとこちらを見ながら聞いてくる。
「ああ。貰ったものは返さないといけないからな」
「愛はこめてくれるの?」
「こ、こめないから!」
「ふふっ、冗談だよっ!」
白い歯を見せて、子供のように無邪気に笑う。
最近の瑠璃はどこか上の空な様子になることが増えてきたが、今日は曇りのない笑みを浮かべていて少し安心する。
……だが同時に、空元気なのではないかという心配もあった。
瑠璃が最近、大きな悩みを抱えていることは俺にだって分かる。黙り込んで何かを考えているような時だったり、不安そうな表情で俯いている時に、何かあったのかと問いかけたことが何度かあった。しかしそういう時はいつも、明るく笑って誤魔化すだけで、悩みを打ち明けてくれることはなかった。
「じゃあまたね、お兄ちゃん。瑠璃ちゃん」
中学校に辿り着いて、夏乃と別れる。高校までの短い道のりのあいだ、瑠璃の様子を見ていたが、終始笑顔で悩みなんてないかのようだった。
「俺の勘違いか……?」
「うん? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「そう? 今日の帰りは私が春の教室に迎えに行くから、待っててね」
「分かった」
昇降口で瑠璃と別れ、今日もまた退屈な学校が始まるのだった。
…
……
………
ようやく放課を知らせるチャイムが鳴った。学校の時間はとても長く感じてしまう。小さな頃からだったが、最近になってより一層そう感じるようになっている気がする。それはきっと、学校以外の時間で楽しいと思うことが多くなったからだ。夏乃や瑠璃、ヒカリと一緒に過ごす時間が多くなって、1人で過ごす学校の退屈さが浮き彫りになった形だ。
今日は瑠璃がこの教室に来ると言っていたので、席に座ったまま待つことにする。ものの数分としないうちに、瑠璃が教室にやってきた。
「おつかれさま。早く帰ろ? ヒカリちゃんが待ってるよ」
「ああ」
カバンを持って瑠璃と共に教室を後にする。
「今日もウチに寄っていくのか?」
「うん。いいよね?」
「もちろん構わないが……」
瑠璃はここ1ヶ月ほど、学校が終わったあとや休みの日にはほぼ毎日、俺の家で過ごしていた。夏乃の家事を手伝ってくれたり、ヒカリのお世話をしてくれたり、みんなで遊んだりしてくれて俺としても嬉しいのだけど……
「なぁ、瑠璃。他の友達との付き合いとか、自分の用事とかは大丈夫なのか?」
さっきも学校の玄関を出るときに、友達らしき女生徒からの誘いを断っていたので気になって問いかけてみた。
「私がそうしたいんだから別にいいの」
瑠璃はどこか困ったように微笑んだ。時間があれば、毎日のように俺の家で過ごすようになったのは、最近の分かりやすい変化だった。もしかしたら、瑠璃が抱えている悩みと関係があるかもしれない。
「無理はしてないか?」
「してないよ。あっ、もしかして、迷惑だったりするのかな……?」
心許なげな面持ちで、小さく呟く。
「迷惑なんて思うわけないさ。夏乃もヒカリも、いつも楽しそうにしてるし、俺も……その……瑠璃と一緒にいるのは楽しいし、嬉しいから……」
気恥ずかしさで尻すぼみになってしまったが、素直な気持ちを伝えられたと思う。
俺の言葉に瑠璃は「ふふっ」と明るく、嬉しそうに笑ってくれた。空元気ではない、素直ないい笑顔だと思えた。
瑠璃が何に悩んでいるのか分からないけど、こんな風に笑ってくれるなら、きっと大丈夫だと思える。その悩みについて逆に俺が悩んでしまうことになったら、世話焼きの瑠璃のことだ、自分のことはそっちのけで今度はこっちが心配されてしまう。だからこの件については、あまり深く考えすぎないようにした方がいいのかもしれない。
「ハルー。ルリー。おっかえりー!」
家に帰ると、ヒカリの元気な声に出迎えられた。
「ルリー、今日も一緒に遊んでくれるの?」
「うん。お邪魔するね」
「わーい! 今ね、夏乃とババ抜きして遊んでたんだよ!」
「……それは楽しいのか?」
2人きりでババ抜きなんて、残りが3枚になるまでひたすら無駄な時間が続くだけだと思うが……。
「楽しいよ! でも、みんなでやるともっと楽しいんだよ! ハルも一緒にやってくれるよね?」
「ああ、もちろんだ」
「にゃふふ! じゃあ早く行こっ!」
俺と瑠璃は、嬉しそうにはしゃぐヒカリに手を引かれてリビングに入った。
…
……
………
寝支度を済ませたベッドの上に腰を掛け、ひと息つく。
4人で過ごす時間は、学校とは違いあっという間だった。みんなでトランプをし、みんなで夕飯を食べ、その後もみんなで遊んで……。
瑠璃は遅くなる前に家まで送ったのでもうおらず、夏乃とヒカリは今頃仲良く寝ていることだろう。今、自分の部屋でひとりでいることを意識してしまうと、なんとなく寂しいと感じる。
ひとりが寂しいと感じるようになったのはいつからだろうか……?
「風呂入って、寝よう……」
寂しさからか、そんなひとりごとを零して部屋を出ようとした時、机の上に置いていたスマホから着信音が流れた。
「瑠璃から電話か……」
こんな時間になんだろう? チャットではなく電話ということは急ぎの用事かもしれない。
「どうしたんだ?」
「もう遅いのに、ごめんね。春のお家に忘れ物しちゃったから、今から取りに行ってもいいかな?」
「今から? 明日の朝もウチに来るんだから、その時でよくないか?」
「今からじゃないとダメなの」
「もう外は真っ暗だぞ。なにもこんな時間にわざわざ取りに来ることないだろ?」
何を忘れたのかさっぱり分からないが、夜遅くに取りに来なければならないほどのものがあるとは思えない。
「……お願い、春。どうしても、取りに行きたいの……」
瑠璃の声はいつも凛としているが、今はどことなく悲しげな色を含んでいるように感じた。だから俺は、色々と疑問がありつつも、それ以上は深く尋ねないことにした。
「……分かったよ。でも、ひとりじゃ危ないからウチに来るのは無しだ。俺が届けに行くから、なにを忘れたのか教えてくれ」
瑠璃の忘れ物らしきものを見た覚えはなかったが、探せばすぐに見つかるだろう。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。実はもう、近くまで来てるの」
「は? いま外なのか?」
「うん」
「こんな時間に、ひとりで?」
「うん。ごめんね」
夜道は危険だといつも言ってるし、今日だって、帰りは家まで送ったというのにこれだ。謝ってるから俺の忠告が頭にないわけではないだろうが……。つまりは、それほど忘れ物を早く取りに来たかったということなのか。
「どの辺にいるんだ? 今からでも迎えに行くよ」
「ううん、もう着いたから大丈夫。鍵、開けてくれる?」
「そうか。すぐに開けるから少し待っててくれ」
電話を切って玄関に向かい扉を開けると、瑠璃の姿があった。
「寒いだろ? 早く上がれよ」
ドアを開け放ちすぐに瑠璃を迎え入れる。3月になって暖かくなってきたとはいえ、夜はまだまだ冷え込む。瑠璃の家から歩いてきたなら、体も冷えていることだろう。
「ごめんね。ありがとう」
夜遅くに訪ねてきたことに罪悪感があるのか、瑠璃はおずおずとした様子で中に入ってくる。
「それで、忘れ物はどこにあるんだ?」
先にリビングに入った瑠璃の背中に問いかけた。振り返った瑠璃は笑顔で言う。
「たぶん、春の部屋にあると思う」
「え? そんなところには無いと思うんだが」
俺の部屋にあるとしたら、瑠璃から電話がある前に気付きそうなものなんだけど……。
「……あるよ。だから、行こ?」
記憶によほどの自信があるのか、静かに断言して、スタスタと俺の部屋の方に歩いていく。俺は無いと思うのだが、瑠璃がそう言うなら気が済むまで探してもらおう。
「俺は温かい飲み物を入れてから行くよ。体、冷えてるだろ? お茶でいいか?」
「……うん、ありがとう。部屋で待ってるね」
振り返って微笑んだ後、瑠璃は俺の部屋へと入っていった。
温かいお茶を用意するためにキッチンへ向かう。粉末タイプの緑茶を湯呑みに入れて、電気ポットのお湯を注いだ。少し熱いかもしれないが、冷えた体を温めるにはちょうどいいだろう。
2つの湯呑みをお盆に乗せ、瑠璃の待つ俺の部屋へと向かい、片手で慎重に扉を開く。
「どうだー? 忘れ物あった……か……」
お茶をこぼしてしまわないようにと注視していたお盆から目を離すと、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……え?」
あまりの衝撃に思考がフリーズする。
目の前には、一糸まとわぬ姿の瑠璃が立っている。少し俯いているが、上目遣いの視線が俺を見つめていた。
……え? なんで裸?
こういう時は、どういう反応をするのが正しいんだ? 事情を問い質す? すぐに目を逸らす? きれいだなと褒める?
……だめだ、分からない。あまりに現実離れした光景を目の前にして、ようやく動き出した思考も、ふわふわとして迷子になっている。
「お願い、春……。このまま……」
裸の瑠璃がゆっくりと迫ってきて、促されるままお盆を机に置く。瑠璃はそのまま俺の手を引いてベッドの方へ……。
ベッド……ベッドか。
……いやいや、ベッド!?
このままって言ったのは、まさか……。
裸になってベッドに誘うなんて、つまりそういうことだよな……? でも、どうして急に……? そういうことをするのはもっと段階を踏んでからじゃないのか?
俺たちはまだ、そんな関係じゃないはずだ! いくらなんでも唐突すぎる!
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ!!」
ベッドに座った瑠璃に手を引っ張られ、そのまま覆いかぶさるよう倒れこんでしまう直前に、ようやく声が出た。
瑠璃の手をほどいて、後ろを向いた。あのまま瑠璃の裸を見続けていたら、冷静ではいられなくなってしまう。
「どうしたんだよ、瑠璃。なんで急にこんなこと……」
俺の問いかけに、瑠璃は沈黙する。後ろを向いているから、どんな表情を浮かべているのかは分からない。
恥ずかしがりな瑠璃が、ここまで大胆な行動に出るなんて、未だに現実感が沸いてこない。この前の温泉旅行の時は、裸を見られることに対して極度の拒否反応を示していた。それは全くおかしなことではない。異性に裸を見られることを、恥ずかしいと思うのは当然のことだ。
でも、今はどうだ……。瑠璃は俺に見られるのが分かっていて、全てをさらけ出してそこに立っていた。ついこの間は見られることを嫌がっていたのに、今日は自分から、それに加えてベッドに誘うような真似も……。
一体、どういう心境の変化なんだ……。
「私にとっては、急じゃないんだもん……。ずっとずっと、こうしたかった……」
しばしの沈黙を破ったその声は、か細くも確かな意志が感じられた。
――――“ずっとずっと、こうしたかった”。
胸が締め付けられるような思いがした。後ろめたかったからだ。
昔から瑠璃が、俺に好意を寄せてくれていることには気付いていた。あれだけ一緒にいて、気付かないわけがない。でも俺は、直接言われたことはないからと、瑠璃の気持ちに気付かないフリをしていたんだ。
「なぁ、瑠璃。最近、悩んでいるのはこのことに関係あるのか?」
……おそらくは、そうなのだろう。きっと、俺が瑠璃を追い込んでしまっていたんだ……。
瑠璃からの返事はなく、代わりにベッドの軋む音が返ってくる。
「瑠璃……?」
「春……。何も聞かないで……」
瑠璃の白い腕が、俺の胸のあたりにまわされる。
……後ろから、抱きしめられた。
「一度だけでいいから、私を抱いて……。どんな形でもいいから、私と……して。お願い……」
……頭がクラクラしてきた。見るだけでも止まれなくなってしまいそうなのに、こんな風に裸で抱きつかれて、瑠璃の柔らかな体を感じてしまったら……。
こんなの、我慢なんてできるわけがない……。
「……分かった」
回された腕を優しくほどき、瑠璃に向き直る。
瑠璃の、生まれたままの姿……。緊張と興奮で、頭がどうにかなりそうだ……。
「触って……春」
いつまでも固まって動けない俺に痺れを切らしたのか、瑠璃は俺の手を取って自分の体へ誘導する。
……俺の手が、瑠璃の胸に触れようとした瞬間――――
「瑠璃……お前、震えて……」
手が、体が、小刻みに震えていることに気が付いた。寒いから……じゃない。
瑠璃は、きっと……。
――――このまま瑠璃を抱いてしまって、本当にいいのか?
瑠璃は今、どう考えても普通の状態じゃない。冷静になってみるとよく分かる。体は強張っているし、表情からはあせりや不安が伝わってきて、無理をしていることは明らかだ。
……やっぱり、流されるままに瑠璃と体を重ねてしまうのは間違っていると、強く感じる。
「春……どうしたの?」
胸に触れる前に手を下ろすと、瑠璃は脱力し、不思議そうな顔をして見上げてくる。
「こんなの……よくない。もう、やめよう」
「……どうして? やっぱり、私じゃ魅力ないのかな……?」
「違う、そうじゃないさ。今だって自分を抑えるのに必死なんだ。理性が飛んで襲ってもおかしくないくらいに、瑠璃は魅力的だよ」
「じゃあ、いいでしょ……? 私、襲われたって、強引だって、構わない……。どうしても、春と繋がりたいの……」
瑠璃はたぶん、悩みから解放されようと、自暴自棄のような状態に陥ってしまっている。そんな状態の瑠璃と、自分の気持ちの整理もつかずに流されるままにしてしまうのは、絶対に良くないことだ。
「……できないよ。このまま何も考えずにしてしまったら、瑠璃が壊れてしまう……そんな気がするから」
「……っ」
「瑠璃にこんなことをさせてしまったのは、瑠璃の気持ちに気付いていたのに、何もしてこなかった俺の責任だ。今ここで瑠璃の言う通りにしたら、瑠璃の気持ちも少しは癒してあげることができるかもしれない。……でも、俺自身の気持ちが伴わずに責任感だけでそんなことをしたら、きっと瑠璃を深く傷つけてしまうことになる。……だから、どうしてもできないんだ」
瑠璃色のきれいな瞳をしっかりと見つめて、そう伝えた。体に気をとられたり、目を逸らしながらだと瑠璃の心には届かないと思ったから。
「私はそれでもよかったのに……。春は、ほんとに優しいんだね……」
瑠璃は最後に「ありがとう」と小さく呟いた。そして、ベッドの隅に丁寧に畳んで置いてある服を手に取った。
「俺は後ろを向いてるから」
今更な気もしたが、服を着るのをただ見ているのは変なので、振り返って待つことにする。
衣擦れの音が背後から聞こえてきて、いらぬ想像が膨らんでしまいそうになるが、どうにか抑え込んだ。
「服、もう着たか?」
「うん。もう振り向いても大丈夫だよ」
……ほうっと、安堵の息が漏れる。あの状況で流されなかった自分を褒めてやりたい気分だ。
瑠璃はベッドに腰かけて微笑みを浮かべている。先ほどの件が解決したとは思わないが、笑顔が戻ったということで、とりあえずはそれでよしとしよう。
「お茶、飲むか? ちょっと時間が経ったけど、まだ温かいと思う」
「ありがとう。いただきます」
「体、温まりそうか?」
「うん……。すごく、あったかいよ……」
「……そうか、ならよかった」
椅子に座ってお茶をすする。瑠璃はああ言っていたが、俺には少し生ぬるく感じた。瑠璃はずっと外にいた上にさっきまで裸だったから、多少ぬるくなってしまっていても十分温かく感じたのかもしれない。
しばらくの間お互いに黙り込んでお茶を飲む。あんなことがあったのに気まずい雰囲気にならないのは、瑠璃が時折、嬉しそうに笑ってくれるからだろうか。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。温まったことだし、そろそろ帰った方がいい。サラさんと優大さんが心配するぞ」
忘れ物は? なんて無粋なことは聞かない。それがここに来るための口実だったことは、もう分かっている。
「そうだね。あの……お家まで、送ってくれる……?」
恐る恐るといった具合に問いかけたのは、俺の心配をよそに夜にひとりで出歩いたことに対する後ろめたさと、また手を煩わせてしまうことへの申し訳なさからくるもの、といったところか。
「もちろんだ。ほら、早く行くぞ」
クローゼットから薄手のアウターを取り出し、座ったままでもじもじとしている瑠璃を急かす。
「置いていくぞー」
「あっ、うん。ちょっと待ってっ」
部屋の扉に手をかけてもう一度急かすと、瑠璃は慌てて立ち上がり駆け寄ってくる。
リビングに出て玄関に向かおうとした時、物音がしてそちらに目を向けると、寝ぼけ眼のヒカリがトイレから出てくるところだった。
「にゃあぁ~」
目をこすりながら大きなあくびをする。いつもは元気にピンと立っている耳やしっぽは、眠気からか、へにゃぁっと垂れ下がっている。
「眠そうだな、ヒカリ」
「あれぇ~。ハルと……ルリ? どぉしてルリがいるのぉ? 帰ったんじゃなかったの~」
「忘れ物を取りに来たんだ。そんで、今から帰るところ」
「にゃあ……そうなんだ~。気を付けてね~。ボクは眠いから、部屋に戻るよぉ~」
ふらふらしながらてくてくと歩いていくヒカリ。……大丈夫か?
「ヒカリ、ちゃんと戻れるか?」
「にゃぁん~、平気だよ~」
「いや、平気じゃないだろ。そっちは俺の部屋だぞ」
ヒカリがふらふらと辿り着いた先は、俺の部屋の前だった。
「最後だから、今日はハルと一緒に寝るの~」
ヒカリはそう言い残し、俺の部屋へと消えていった。
最後ってなんだ? 寝ぼけているのか?
「ヒカリちゃん……」
「まあ、帰ったら起こして夏乃の部屋に戻ってもらうよ。それより、もたもたしてたら本気で心配されるぞ」
「……そうだね」
眠っている2人を起こさないよう物音に気を付けながら玄関を出る。外の空気は中と違ってひんやりとしていた。アウターを羽織って正解だった。
もう幾度となく通った瑠璃の家までの道のりをゆっくりと歩いていく。例の河川敷の橋を渡り始めた時、瑠璃がふいに立ち止まった。
「どうしたんだ?」
「さっきはあんなことしちゃって、ごめんね。キミをたくさん困らせちゃった」
瑠璃の方が蒸し返してくるとは思わなくて、少々面食らってしまう。
「……気にしなくていい」
「私、不安でどうかしちゃってた。春が止めてくれなかったら、きっと私は……」
その先の言葉は声にならなかったようで、口を何度か動かした後につぐんでしまった。
瑠璃の反応を見るに、先ほどの選択は間違っていなかったように思える。だが同時に、瑠璃の勇気を踏みにじる形になってしまったのも事実だった。
俺は瑠璃の好意に気付いている。形はどうあれ先程の瑠璃の行いは、その好意の発露であることに疑いの余地はない。
だが俺は、もっともらしく、カッコつけたようなことを言って、それを受け入れなかった。
……要するに、俺は逃げたんだ。
今の関係変わってしまうのが怖くて、瑠璃の気持ちを蔑ろにした。そして、それが分かっていてなお、瑠璃と向き合うことを躊躇ってしまっている。
瑠璃はもう、十分すぎるほどに気持ちを伝えてくれているのに、俺は……。
「ごめんね、立ち止まっちゃって。ほら、行こ?」
瑠璃はいつの間にか歩き出して、俺の隣で優しく微笑んだ。
「……ああ」
眩しい瑠璃の笑顔から、思わず目を逸らしてしまう。瑠璃に対する罪悪感のような何かを感じながら、残りの道を歩いて行くのだった。




