第66話 もうすぐバレンタイン
「……暑い」
気持ちよく眠っていたはずなのに、妙な体の火照りを感じ、目を覚ましてしまった。
暑いし、それに……。
それに、この感覚、さっきも……。
「またお前か! なんでそうなるんだよ!」
夜中に起きた時と全く同じように、夏乃がべったりとまとわりついている。空っぽの夏乃の布団で寝直したはずなのに……。寝相が悪いってレベルじゃない。
「あ、お兄ちゃんやっと起きた」
……こいつ、起きてやがった。確信犯だ。
「やっと起きた、じゃねえよ。離れろよ」
「またまた~。お兄ちゃんがあたしの布団に入ってきてるんだよ? 寝ながらあたしの布団に入ってきちゃうなんて、さすがに妹のこと大好きすぎてびっくりするよ、お兄ちゃん!」
「お前が最初に俺の布団に入ってきたんだろうが!」
「あ~れ~」
問答無用で引き剥がし押しのけると、掛布団を巻き込みながら転がっていった。
瑠璃とヒカリはすでに起きているようで、座椅子にすわって談笑している。
「あ、ハルが起きた! おはよう!」
「おはよう、春。もうすぐチェックアウトの時間だよ」
「おはよう、もうそんな時間か。……顔洗ってくる」
眠い体に鞭を打って立ち上がり、巨大なミノムシを跨いで洗面所に向かう。
「人を跨いだらいけないんだよ、お兄ちゃん!」
巨大なミノムシが、俺を見上げながらなにやら抗議してくる。
「お前がいつまでも転がってるからだろ」
「てへっ。……ねぇねぇ見て見て。あたし、でっかいミノムシみたいでしょ?」
仰向けになって、掛布団を纏った体をくねくねさせながら、俺が思っていたのと同じことを言う夏乃。こいつと同じ感性なのが微妙に気に食わない。
「知るか、今度は踏むぞ?」
「お兄ちゃんにならむしろ踏まれたい! どんとこい!」
「……ふんっ!」
「ぐえ! ほんとに踏んだんだけどこの鬼畜お兄ちゃん! 信じられない!」
「満足か?」
「ううん、全然! だってほとんど力入れてなかったじゃん! ノリでああ言ったけど、優しすぎて猫が上に乗ったのかと思ったよ!」
夏乃は華奢だからあまり力を入れることが出来なかった。正直なところ、足を腹の上に乗せた時にはすでに、ケガをさせそうで怖かった。
「……ふん、あほらしい。さっさと顔洗わないと」
「えー! もう終わり? もっとミノムシ妹と戯れてよー!」
後ろでなにやら騒ぐ声が聞こえるが、無視して今度こそ洗面所に向かう。
顔を洗い歯を磨いたあと部屋に戻る。夏乃はすでに脱皮していて、3人で仲良く話をしているようだった。
「はい、これ。もしお腹空いてたら食べて」
座椅子に腰を掛けると、瑠璃がテーブルに置いてあったおにぎりを差し出してくる。
「ああ、もらうよ。ありがとう」
3つの中から1つを選び、手に取った。
「ほら! やっぱりおかかだ! あたしの勝ちだねヒカリ!」
「うぅー。ツナの方がおいしいのに……」
「なんだなんだ?」
「お兄ちゃんがどのおにぎりを選ぶか、ヒカリと予想してたの。あたしがおかかで、ヒカリがツナ。お兄ちゃんはおかかを選んだから、あたしの勝ち!」
「果てしなくどうでもいい話だな」
夏乃に思考が読まれていたことが癪だったので、そっけなく返す。
「どうでもよくないよ! お兄ちゃんにも大いに関係のある話です! なぜなら勝った人には、お兄ちゃんの好みをよく分かってるで賞として、お兄ちゃんから賞品が与えられるから!」
「……その賞品って?」
果てしなくどうでもいい話から、果てしなく不安な話になった。
「お兄ちゃんの好みをよく分かってるで賞……その賞品は、なんと! お兄ちゃん1年分です!」
「いいなー、ナツノー」
「お兄ちゃん1年分ってなんだよ」
「今から1年先まで、お兄ちゃんのことを好き放題できる権利です! つまり、今からお兄ちゃんは1年間、あたしの所有物です!」
「俺自体が賞品なのかよ」
果てしなく下らない話だった。
「いいなー、ナツノ―」
「ヒカリ、夏乃の冗談にわざわざ乗ってやる必要ないからな」
「でも、うらやましいよ?」
「うらやましいのか……」
……ヒカリは俺を所有物にして何をするつもりなのだろうか。
「ちなみにシェアはおっけーだから、いつでもヒカリと瑠璃ちゃんに貸してあげられるよ!」
「わーい!」
「え? 私も? わ、わーい?」
「瑠璃も乗らなくていいから……」
「そういえばもうすぐバレンタインだねお兄ちゃん」
「飽きたからっていきなり話を変えるなよ」
夏乃にはよくあることだが、毎度話の転換が急角度すぎて困る。
「今年も楽しみにしててね、お兄ちゃん! お兄ちゃんの好みをよく分かってる妹からのチョコ! ふふん、今年のは美味しすぎてびっくりするよ、きっと!」
板につきすぎているドヤ顔を披露した後、ニコニコ顔でこちらを見つめてくる。
夏乃は毎年欠かさずにチョコをくれる。それも手作りで、かなり力の入ったものをだ。友達にも作っているようだが、それとは別に俺のために用意してくれていた。俺が甘いのが苦手というのもあるだろうが、そこまでしてくれるのは素直に嬉しかったりする。
……まあ、そろそろ好きな人を作って、そっちの方に力を入れて欲しいとも思っているけれど。そういう話も素振りも一切ないから、兄としては少し心配なんだ。
「バレンタイン……。ボクもハルにチョコあげたい!」
「じゃあ、あたしと一緒に作って渡そうよ! 作り方教えてあげるね!」
「うん、ありがとう! ハル、一生懸命作るからね!」
「ああ、期待して待ってるよ」
ヒカリの手作りチョコか。ちゃんと作れるのか心配だが、夏乃が教えるというのならたぶん大丈夫だろう。
「瑠璃ちゃんも一緒に作らない? それとも、やっぱり今年も……?」
瑠璃は困ったような笑みを浮かべて言う。
「うん。今年も誰にも渡す予定はないから、私は遠慮しておくよ」
「そっか……」
「ルリはなんでハルに渡さないの? 2人は仲良しなんだから、渡せばいいのに」
「そっ、それは……なんていうか……」
うっすらと頬を染める瑠璃。俺も、なぜかソワソワしてくる。
瑠璃にチョコをもらえるとしたら、小学生以来のことになる。バレンタインには誰にもチョコを渡さない瑠璃だったが、俺は過去に一度だけもらったことがあった。あれが最初で最後のバレンタインチョコになるとは思わなかったが、すごく嬉しかった記憶がある。
あの時は確か瑠璃とは疎遠になっていて、それなのにチョコをくれたことがすごく嬉しかったんだ……。
「……ねぇ、ルリ。もしかして、まだ気にしてたりするの?」
普段の明るい表情はなりをひそめ、時折見せる真剣な面持ちでヒカリが問いかけた。
その問いの意図は俺には分からない。
「えっ? 気にしてたり……って?」
その言葉は瑠璃には通じているのかと思ったが、どうやらそういうわけではないらしく、ヒカリの意図が伝わっていないようだった。
「ルリ。ちょっとあっちでお話ししよ?」
ヒカリは立ち上がり、部屋の出入り口のふすまを指差す。
「え? う、うん、いいけど……」
瑠璃は困惑しながらもヒカリについて行き、2人はふすまの向こう側に消えた。
「すぐ戻るから待っててね!」
わずかに開いたふすまから顔をひょこっと出して、ヒカリが言う。
「……なんでわざわざ外に出たんだ?」
「女の子には秘密がたくさんあるんだよ。直接理由を聞いたりしたらダメだからね、お兄ちゃん。もちろん、話の内容も」
「まあ、別にいいんだけどな……」
俺か夏乃に聞かれたくないことでもあったのだろうか?
2、3分ほど待っていると、話を終えた2人が戻ってくる。ヒカリはいつにも増してニコニコで満ち足りた表情をしていた。
「ルリも一緒にチョコレート作るって!」
椅子に座るやいなや、ヒカリが興奮気味に言った。
「えっ! 瑠璃ちゃん、それほんと!?」
「……うん、まあね。久しぶりに春に渡してみようかなって……」
俺の方をチラチラとうかがいながら、瑠璃は小さく呟く。
……そうか、今年は瑠璃にもチョコをもらえるのか。
「やったぁ! 3人で一緒にチョコを作れるなんて、今から楽しみで仕方ないよ!」
「ボクもすっごく楽しみ! ルリ、ハルにおいしいって言ってもらえるように頑張ろうね!」
「うん、そうだね。ふふっ」
瑠璃が柔らかな笑みをこぼした。……なんか、すごく嬉しそうだ。
ふすまの向こうでヒカリと何を話したのかは分からないが、瑠璃にチョコを貰えるのなら俺も嬉しい限りだ。
「お兄ちゃん、今年はモテモテだね! 毎年あたしからしか貰えなかったのに、今年は3つも! よかったね!」
「……まあな」
ぶっきらぼうに言ってみせる。照れ隠しであることは自分でも分かっていた。
「14日はお休みだから、当日に春の家で作ってそのまま渡すことにしない?」
「いいね、それ! さんせーい!」
「ボクもさんせーい!」
「お兄ちゃんも、それでいいよね?」
「ああ。俺は貰う側だから、とやかく言ったりしないさ」
「じゃあ、決まりだね。春、楽しみにしててね?」
「お、おう」
瑠璃が優しく微笑みかけてくる。今年は瑠璃とヒカリからも、チョコを貰えるのか。面と向かって渡すと予告されるのは、照れくさくてむずがゆくはあるが、それ以上に楽しみだった。
「あっ、いっけない! そろそろ出る準備しないと、チェックアウトの時間が過ぎちゃうよ!」
夏乃の言葉に、みんな急いで帰り支度を始めた。時間ギリギリではあったが、無事にチェックアウトを済ませる。
こうして温泉旅行は終わりを迎えた。俺にとっては初めての温泉旅行だったが、とても楽しくて嬉しくて、いい思い出が出来たとそんな風に思うのだった。