第65話 俺は……笑えない
「……暑い」
気持ちよく眠っていたはずなのに、妙な体の火照りを感じ、目を覚ましてしまった。
暑いし、それに……
「うおっ……なんだ、夏乃か」
体に違和感があったので確認してみると、夏乃がべったりとまとわりついていた。どうりで暑いわけだ。
「というかお前、よくここまでこれたな」
4つの布団は横並びで、俺と夏乃は端だったのに、どうしてこいつは俺の布団の中で気持ちよさそうに寝てるんだ。
「むにゃむにゃ……。ふひひ、おにーちゃん、すきぃ♡」
だらしなくよだれを垂らしながら、幸せそうな顔で寝言を言う夏乃。
よだれを手で拭ってやり、
「は、な、れ、ろー」
半ば強引に引き剥がす。夏乃は眠りが深いので目を覚ます心配はないだろう。
「んあー、待っておにーちゃん。そっちはだめぇ」
あれ、起きたか? ……いや、寝言だ。
「いやぁ、行かないでぇ……。そっちに行ったらあたし、トマトにされちゃうからぁ~」
……どんな夢を見てるんだ?
「……ふぅ。やっと離れた」
また抱きつかれたらたまらないし、俺は夏乃の布団で寝ることにしよう。瑠璃やヒカリを起こしてしまわないようにそっと立ち上がるが、
「……トイレ」
夏乃の布団に入る前に、ふと尿意を感じたのでトイレに向かうことにする。なるべく音を立てないように慎重に歩き、ようやく辿り着く。
「夏乃のせいだ」
普段夜中に目を覚ましてトイレに行くことなんてないのに。朝起きたらひとこと文句を言ってやろう。
用を足し洗面台で手を洗った後、ふと、ヒカリにもらったコップが目に映った。寝る前に歯を磨いた時にさっそく使って、ここで乾かしていたんだっけ。
なんとなく、コップを手に取り眺めてみる。
『キミがまた、こんな風に笑ってくれたらいいなって、そう思って描いたんだ』
それは、ヒカリがこのコップを俺にプレゼントする時にいった言葉。
絵の中の俺は、満面に笑みを浮かべている。
『だって、ハル……笑わないから』
『キミは、いつからか笑わなくなっちゃった……』
俺は……笑わない? 笑わなくなった?
俺って、そうなのか? そんなこと、ありえるのか?
人が笑顔になる時なんて、楽しい時や嬉しい時、幸せだと感じた時……色々あるはずだ。俺だって楽しかったり嬉しかったり、時には幸せを感じることくらいある。
……それなのに、ヒカリは“笑わない”と言った。
「笑わない……か」
コップから鏡へと目を転じた。そこには、ぶっきらぼうに口を引き結んだ自分がいる。
笑顔なんて、誰しもが特に意識することなく、自然と零れてしまうもののはずだ。それに、笑顔なんて少し口角を上げれば、簡単に作れてしまう。
“笑わない”という俺にだって……
「…………っ。なんで……っ」
……出来なかった。
ただ口角を上げるだけなのに、ピクリとも動かない。脳が“笑え”と何度も何度も命令しているのに、体が言うことを聞かない。
なんなんだよ、これ……。
なぜ、こんなに簡単なことが出来ないんだ……。
「……ぁ……はぁっ……ぁぁ……っ」
息が、苦しい……。胸が、締め付けられるように痛い……。
俺の体が、笑顔になることを拒絶している……?
「……はぁっ……ぅぁ……あぁっ……っ……お、おれっ……は……っ」
――――俺は“笑わない”のではなく“笑えない”……のか?
「……春。どうしたの? 大丈夫?」
扉の方から、声が響く。振り向くと、瑠璃が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫だ、なんでもない。……いつからそこに?」
「苦しそうな声が聞こえて、それで……」
……見られていたか。瑠璃には心配をかけたくなかったが、あんなところを見られてしまっては隠すことはできない。
「……なあ、瑠璃。お前は俺が笑わないこと、知っていたのか?」
「……うん」
少しだけ逡巡した様子を見せた後、伏し目がちに首肯する。
「いつからだ? いつから俺は、笑わなくなったんだ?」
瑠璃は小さなころからずっとそばにいてくれた。もしかしたら、俺が笑わなくなったのがいつ頃のことなのか知っているかもしれない。
「それは……」
瑠璃はそう一言発して、考え込むようにしばらく沈黙したあと再び口を開いた。
「……私たちが再会した時にはもう、キミは笑わなくなってた。それから、ずっと、キミは一度も……」
俺と瑠璃が最初に出会ったのは幼稚園だった。そして、あの人たちに引き取られ幼稚園に通えなくなり、再会したのが小学校の入学式の時……。
「俺は、そんなに前から……」
だとしたら、笑えなくなった理由は明白だった。俺は虐待を受け続けるうちに、笑うことができなくなってしまったんだ……。
虐待をされていたのはずいぶんと昔のことなのに、こんなところにもその影響が残っているなんて思いもしなかった。瑠璃や夏乃や大樹さんが、その後を支え続けてくれたのに、俺はなんて弱い人間なんだろう……。いつまでも昔のことを引きずって……。
みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめん、瑠璃。俺、ずっと気付かなかった……。笑顔を一切見せないなんて……そんな奴とずっと一緒にいたら、気が滅入るし不気味だよな」
どんな時でも決して笑わない奴と何年も一緒にいること……。そのことでみんなにどれほどの迷惑をかけたのか、想像に難くない。
だからこそ、これからは笑顔でいようと思っても、俺は……。
「……春、違うよ。そんな風に思ったことは一度もないから、謝る必要なんかない。それにね、笑わないのはキミのせいじゃないんだよ。あんなにひどいことをされてきたんだから、仕方ないよ」
「でもそれは昔の話で……。みんなが支えてくれているのに、俺はいつまでも引きずるようなことを……」
「ねぇ、春。私は、もうすぐだと思うんだよ」
「……もうすぐ?」
「うん。ついこの前も言ったけど、春は最近、特に明るくなったように感じるよ。もうあの頃とは比べ物にならないくらいにね。……きっともうすぐ、笑えるようになる日が来るよ」
――――だから、大丈夫。春は、大丈夫。……きっと、大丈夫。
瑠璃は、俺を励ますように言った。何度も「大丈夫」と繰り返す様子は、なぜだか、自分に言い聞かせているようにも見えた。
「……今、俺が伝えるべきなのは“ごめん”じゃなくて“ありがとう”だよな」
……不思議だ。瑠璃にこうして励ましてもらうだけで、気持ちが晴れやかになってくる。
さっきまで、自分はおかしいんじゃないかと不安でいっぱいだったのに、今はもう大した問題ではないとすら思えてしまう。
瑠璃がこれからもそばにいてくれるのなら、俺はきっと……。
「瑠璃……ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして。さ、戻ろ? 早く寝直さないと、チェックアウトの時間までに起きれなくなっちゃうよ。春はただでさえ、ねぼすけさんなんだから」
「ああ、そうだな」
瑠璃の微笑みに、笑顔を返すことは出来なかったけれど……。
いつか笑い合えるような日がくればいいなと、願わずにはいられなかった。