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第6話 だいじょうぶ

 目の前に、人が立っている。2人いて、その両方ともが黒いマントを羽織ってフードを目深に被っており、顔を窺い知ることはできない。

 見上げなければならないほど人間離れした背の高さ……いや、違う。俺の背が縮んでいるんだ。

 視線を下に移し、自分の体を確認してみる。

 ……小さい。手も、足も、何もかもが、小さい。小学校低学年くらいだと推察できる。



『お前はダメだ』『ぜんぶお前のせいだ』『お前をかわいいなんて思ったことは一度もない』『お前には何の存在価値もない』『お前は邪魔なだけだ』



 フードの2人から、人格や存在を否定するような言葉の数々を浴びせられる。

 ……怖い。小さな俺はただ縮こまって、耳をふさぐことしかできない。


『なんだ、その態度は? ……お仕置きが必要みたいだな』


 フードの1人が、低く濁った威圧感のある声でそう言った。

 怖くなって顔をあげた瞬間、顔に強烈な痛みが走る。


 ……殴られたのだと、すぐに分かった。


 衝撃で倒れたがすぐに髪の毛を乱暴に掴まれ、無理やり起こされる。


『いいか、よく聞けよ……』


 ドスの効いた低い声に、体が硬直する。




『お前は誰からも必要とされていない。お前なんて、生まれて――――』




 …

 ……

 ………


「……っ!」


 夏乃起こされる前に、目が覚めてしまった。寝間着が汗でびっしょりと濡れている。


 ……悪夢を見ていたんだ。


 内容は……よく覚えていない。ただ、怖い夢だったということだけはっきりと分かった。

 怖い夢を見るなんて、心当たりは1つしかなかった。最近はあの夢を見ることなんてなかったのに……。



 幼い頃、伯父と伯母に虐待されていた時の夢……。あの夢に違いない。



 あの頃……いや、思い出すな。もう過ぎたことだ。今の俺には関係ない。俺はもうあの頃のことを引きずってなどいない。

 ……俺はもう、大丈夫なんだ。



 ――――ほんとうに、そう?



 幼い男の子のような声が頭の中に響いた。

 ……ああ、またか。俺はこの声をよく知っている。

 この声は、幼い頃の俺の声だ。



 ――――わすれた、なんていわせないよ。あんなにつらかったのに、もうだいじょうぶ、なんてゆるさないよ。



「やめろ」



 ――――キミがわすれてしまいそうになってるなら、ボクがおもいださせてあげるよ。さびしかったこと。くるしかったこと。つらかったこと。ぜんぶ、ぜんぶ。



「いやだ……聞きたくない……やめてくれ」


 誰もいないはずの部屋に、人の気配を感じた。


 ……俺が、いる。

 ……幼い頃の俺が、そこに、いる。


 およそ幼い男の子のものとは思えない、一切の感情を感じ取ることができないような、生気を失った表情で。けれども頬には、深い悲しみによる大粒の涙を流しながら、そこに佇んでいた。



 幼い頃の俺が…………ボクが語り始める。



 あのつらいことばかりの日々……。両親が死んで、親戚に引き取られて過ごした数年間…………虐待の日々。

 声に誘発されて、あの頃の記憶が鮮明に、土石流のように頭の中へと流れ込んでくる。

 聞きたくない、見たくないのに、止めることが…………できない。




 クルシイ……クルシイ……クルシイ……。

 イタイ……イタイ……イタイ……。

 コワイ……コワイ……コワイ……。

 アツイ……アツイ……アツイ……。




「……っ!はぁっ……!いやだ……っ!くるな……っ!やめろ……っ!こわい……っ!……はっ、はぁっ……はぁっ……っ!!」



 風呂の水に頭を沈められたこと。

 テレビのリモコンで叩かれたこと。

 いつもいつも怒鳴られていたこと。

 熱したアイロンを腕に押し付けられたこと。



 数々の虐待の記憶が、まるで今起こっていると錯覚するほど、リアルに蘇ってくる。



「ああぁっ……。イタイ……。アツイ……。クルシイ……。コワイコワイコワイ……っ。やめて……やめてくださいっ……」


 ――――おもいだした? でもそれは、ボクたちがされてきたことの、ほんのいちぶだよ。


「あ、あ、あ……っ」


 クルシイクルシイクルシイ。

 イタイイタイイタイ。

 コワイコワイコワイ。

 アツイアツイアツイ。


 


 クルシイイタイコワイアツイ

 ――――――――――――――――サビシイ。







『お前なんて、生まれてこなければ良かったんだ』








「あ、あ、ああぁっ……! あああぁぁっ……! ぅあ……うああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 大声を出しても、かき消せない。

 激しく頭を掻きむしっても、振り切れない。


「……はぁっ! はぁっ……いや、だ……。もうっ……もうっ、やめてくれよ……っ! あああああああああぁぁぁ!」




 ――――まだだよ。あのひとたちがしてきたことは、こんなものじゃないでしょ?




 …………いやだ。

 


 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ―――――――――――――――









「―――――――――――――――お兄ちゃん」







「………………ぇ?」


 ……この感覚は。

 ああ、なんだか……すごく、懐かしい。


「だいじょうぶだよ。お兄ちゃん」

「……ぁ」


 ……夏乃だ。

 夏乃に、後ろから抱きしめられているんだ。

 小さな体なのに、俺を優しく包み込むように抱きしめてくれている。


 体が、心が……じんわりと、あたたかくなっていく。


「安心して、お兄ちゃん。あたしがいるよ」


 その柔らかで優しい、慈愛のこもった声が、心に沁みていく。


 こうして夏乃に抱きしめられて、優しく声をかけてもらって。

 そうやって、夏乃がそばにいてくれることを実感するだけで俺は……。


「…………ありがとう、夏乃。もう平気だ。落ち着いたよ」


 幼い頃の俺の声も、姿も。押し寄せてくる忌まわしい記憶も。

 俺を苦しめていたなにもかもが、嘘だったかのようにきれいさっぱり消え去った。


「もういいの? まだ学校まで時間あるから、もう少しこのままでもいいんだよ?」

「じゃあ、もう少し、このまま……」

「うん、分かった」


 気恥ずかしさはもちろんあった。だが、その提案は夏乃の優しさからくるもので、無碍にはしたくないと思い、もう少しだけ夏乃に甘えることにした。


「……お兄ちゃん。だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 夏乃は、俺の背中を優しく撫でながら、幼い子供をあやすような口調で言う。


 ……こんな風に夏乃に抱きしめられるのは久しぶりだ。昔はよく、今日みたいな過去の記憶に悩まされていて、その度に夏乃や大樹さんに慰めてもらっていた。

 今ではもう、そんな風に慰めてもらわなくても大丈夫だと、そう思っていたのに。今が幸せだから、それでいいと……過去は過去だと、割り切れていたはずなのに。



 ――――俺はまだ、過去に囚われているのだろうか……?



 ……ああ、きっと、そうなんだろう。さっきの醜態しゅうたいがそれを如実にょじつに物語っている。

 過去は過去だ、もう大丈夫……その言葉は自分に言い聞かせているだけ、表面上で取り繕っているだけだったんだ。

 心に負った傷というのは、そう簡単に癒えるものではないらしい。


「ねえ、お兄ちゃん。憶えてる? あたしたちが再会した時のこと」


 夏乃は俺を抱きしめたまま、普段の天真爛漫さからは想像もできないような、穏やかな声音で問いかけた。


 ……再会。そう、再会だ。


 俺たち兄妹は一度、離ればなれになっている。

 両親を交通事故で亡くし、身寄りが無くなった俺たちは、親戚に引き取られることになった。夏乃は父親の義弟である大樹さんに。俺は母親の兄夫婦に。兄妹分離となったのは経済的な理由からだった。どの親戚家庭も、国からの雀の涙ほどの助成金では2人養うことは不可能で……それでも大樹さんは俺と夏乃の両方を引き取ろうとしてくれたが、当時無名の小説家だった大樹さんは、親戚中の反対にあいそれは叶わなかった。

 かくしてそれから数年間、俺と夏乃は離れて暮らすことになったが、あることをきっかけにまた一緒に暮らせるようになる。それは俺を引き取った親戚による虐待行為の露見。助けてくれたのは大樹さんだった。そして、無理をしてでも俺を引き取ってくれたんだ。


 ――――これが夏乃との“再会”だ。きっとこの先も忘れることはないだろう。


「ああ、憶えてるよ」

「あたしは小さかったから、あんまり憶えてないんだけどね。ひとつだけはっきり憶えていることがあるんだよ」


 ……それは何だ? とそう問いかける前に夏乃が続ける。


「あの時のお兄ちゃんが――――すごく、怖く感じたこと」

「…………」


 再会したのは、俺が小学4年生の時。夏乃はその時は6歳だった。当時は自分以外の全てが敵に見えていた。もしかしたら妹の夏乃にさえもそういう態度をとってしまっていたのかもしれない。幼い夏乃がそう感じてしまうのも無理もない話だ。


「でもね、しばらく一緒に過ごして、それは間違いだったって気付いたよ」


 夏乃は次の言葉を考えていたのか、少しの間をおいて再び口を開く。


「お兄ちゃんのように、その……小さい頃にひどいことをされて育った子は、まるで繰り返すように他の人に暴力的になったりすることが多いんだって。……でもね、お兄ちゃんは違ったんだよ。誰かに暴力を振るったりしたことなんて一度もなくて、いつも自分だけを責めてた。最初は怖く感じたお兄ちゃんも、本当は誰よりも優しいんだって分かった。お兄ちゃんが一番辛くて、苦しいはずなのに、いつでもあたしに優しくしてくれたんだよ……。だから、ね……お兄ちゃん――――」







 ――――いつもありがとう…………“大好き”だよ。







 夏乃は最後にそう言って、さらに強く、優しく、抱きしめてくれた。


 ……それは。

 ……その言葉は、俺が伝えるべき言葉だ。

 俺が優しいからじゃない。俺が今日まで道を踏み外さず生きてこれたのは、夏乃や大樹さん、瑠璃……そんな優しい人たちが周りにいてくれたからだ。

 こんな俺なんかのそばに、いつもいてくれた。だから俺は……。

 ……伝えなければならない。……いや、伝えたい。


「夏乃、それは俺が―――」


 ―――ピンポーン


「あっ、いけない! 瑠璃ちゃんだ! ってもうこんな時間!? 早く朝ごはん食べないと遅刻しちゃう! お兄ちゃん、すぐ準備してね!」


 矢継ぎ早にしゃべった後、夏乃は風のように去っていった。

 背中に残る夏乃のぬくもりが、寂しさを一層、際立たせる。


「伝えそびれてしまった……」


 ……でも、まあ、あせることはない。また今度……大樹さんが退院して、瑠璃も一緒にいるときに伝えることにしよう。


 今まで俺を支えてきてくれた人たちは、きっとこれから先もずっと、そばにいてくれるはずだから。

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