第59話 おやすみのハグ
8回目の箱庭を終え、志和多先生の見解を聞くため、診察室に入った。
「内界に、大人や怖い動物がいくつか入ってきました。それに、壁が右に寄って、外界が狭くなっています。これは、劇的にいい変化だと思いますよ。自傷行為もここ最近ないみたいですし、家での生活も順調な様子……箱庭を終える日も近いかもしれませんね」
「それはすごく嬉しく思うのですが、実はこの前、気になることがありまして……」
“嫌なことがあった時、楽しい夢を見てやり過ごす”と春くんが語った時についてだ。
心ここにあらずといった感じになっていたこと、夢を見れば嫌なことを忘れられること、“ヒカリ”と言う夢に出てくる秘密の友達がいること……その時の状況を詳しく話した。
「それはおそらく“解離”と呼ばれる症状ですね」
「解離……。それは、どういうものなのですか?」
「“解離”性同一性障害をご存じですか? 俗に言う多重人格です」
「はい、聞いたことはあります」
「異なる人格は、つらい体験を乗り越えるために形成されると言われています。春くんもそれと似たようなもので、嫌なことがあると、人格ではなく意識を解離させ……この場合は“楽しい夢”の世界に浸って……やり過ごそうとしたんだと思います。心ここにあらずだったのも、嫌なことを忘れているのも、意識が解離していれば納得がいきます。友達が出てくる夢を見るのは、その子だと安心を感じるとか、楽しいとか、ポジティブな理由があるのでしょう」
「……なるほど。ですが、ヒカリという友達はどうやら実在しないようなのです。小学校にそのような名前の子はいないみたいでしたし、私が知る限り、春くんには友達と呼べる人物は、以前からお話ししている通り別の1人しかいません。ヒカリという子がどういう子なのか、春くんは話してくれなかったので、確実なことは言えませんが……」
志和多先生は思案顔で、あごに手を当てながら言う。
「実在しない友達……。イマジナリーフレンド……。春くんが見えない友達と遊んでいるような、そんな行動をとっているところを、見たことがありますか?」
「いえ、見たことがありません。ヒカリという名前を耳にしたのも、その時が初めてです」
「……その子についての詳しいことは、春くんが話してくれるまで待つ以外になさそうですね。ですが安心して下さい。解離というのは、実は被虐待児にはよく見られる症状で、夜驚症と同じように、その多くは成長の過程で自然と無くなっていくものです。春くんの場合、頻繁に解離を起こしているわけでもないですし、過度な心配は不要だと思われます」
「そうですか、それなら安心しました」
「特別な対処は、今のところしなくても問題ないでしょう。ただ、もしまた解離のような症状が現れたら、状況をよく覚えておいてください」
「分かりました。……あと、これはお話ししていいものかと迷っていたのですが……。あまりに荒唐無稽な話なもので……」
僕には、春くんの口から“ヒカリ”という言葉を耳にした時に思い出したことがあった。変に思われるかもしれないからと、ずっと心の中に秘めていたことだ。
「どんなお話でも真剣にお聞きしますので、ご安心ください」
「はい。ありがとうございます」
――――それは、あの日……一時保護所で春くんに初めて会った日のことだ。
部屋の中でひとりで静かに本を読んでいた春くんを見て、僕がまず思ったのは、この子はひとりぼっちじゃない、だった。
それは、精神的な捉え方ではなく物理的な捉え方として、だ。
もちろん、ひとりで本を読んでいた春くんは、物理的にひとりぼっちだったのだが、そう表現したほうが正しい気がしたんだ。
なぜ、ひとりぼっちで本を読んでいる春くんを見てそんな風に思ったのかは、正直なところ今でもよく分からない。
だが、あの時、確かに感じたのだ。
――――この子はひとりぼっちじゃない。何か大きな存在に守られている、と……。
「――――本当に荒唐無稽な話なのですが、分かりやすく言うなら“守護霊”でしょうか……」
笑い飛ばされてしまうのを覚悟して話したが、志和多先生は約束通り真剣に聞いてくれた。
「先ほどの陽中さんのお話によると“ヒカリ”という存在が、春くんの心の支えになっているようですから、その子を大切に想う春くんの気持ちが、その時の陽中さんに伝わったのかも知れませんね」
「はい……。すみません、こんな話と真摯に向き合っていただいて……」
「いえ、少しでも気になることがあれば何でもお話しください」
「分かりました。ありがとうございます」
その後も春くんについていくつか話し、診察室をあとにした。
…
……
………
『7月6日 日曜日
今日もいい事がたくさんあった。
朝ごはんにおじさんが、ボクの好きな半じゅくの目玉焼きを作ってくれた。おいしかった。
8回目の箱庭をやった。いいものが作れた気がしたし、ヒカリとたくさんお話しできて楽しかった。
箱庭の帰りにスーパーに行ったとき、瑠璃ちゃんに会った。おかしをいっしょにえらんで、楽しかった。
夏乃がいっしょにおふろに入ろうってさそってくれた。うれしかった。おふろでお湯を飛ばしたりして遊んで、楽しかった。
たぶん、明日も、いい事がたくさんあると思う。』
今日の分の“いい事日記”を書き終え、春くんは静かにノートを閉じた。どこか満足げな顔だった。
そして、おやすみの挨拶をしようとしたところ、ベッドの前に立つ春くんがふいに振り返り、口を開く。
「――――おじさん。ボク、もう死んだ方がいい、なんて思わないよ」
「……それは、どうしてかな?」
春くんに目線を合わせ、舞い上がりそうな気持ちを必死に抑えながら尋ねた。
「だってボクには、おじさんや夏乃、瑠璃ちゃんがそばにいてくれるから。ボクのことを大切だって……大好きだって思ってくれる人が、いてくれるから」
「春くん……」
嬉しくて、涙が零れてしまった。自分の事を否定してばかりの春くんが、そんなことを言ってくれるなんて……。
「そうだね。僕も夏乃も瑠璃ちゃんも、春くんのことが大切で、大好きなんだ。君は、僕たちにとって、かけがえのない存在なんだよ」
僕は、春くんのことが愛しくてたまらなくなって、気付けば春くんの体を思いきり抱きしめていた。
「おじさん……?」
「……ありがとう。今まで、たくさんたくさんつらかったのに、よく頑張ったね。君が頑張った分だけ、これからはきっと、楽しいこと嬉しいことが、たくさんたくさん待ってるはずだよ。……かけがえのない君が、これから幸せに生きていけますようにって、心から祈ってる。春くん……大好きだよ」
「……うん。ボクも、おじさんの事、大好きだよ」
僕が腕に力を込めると、春くんはそう言って、ギュッと抱きしめ返してくれる。
……嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。春くんも、僕の胸の中で、静かに涙を流していた。
僕たちはしばらくの間、そうして抱き合っていた。
どちらからともなく離れ、おやすみを言って部屋を出ようとした時、ある素敵な考えが頭に浮かんだ。
「……そうだ。今日から毎日、おやすみの前、さっきみたいにハグをしよう。あのね、春くん。さっき君とハグをしたらね、心がじんわりとあたたかくなって、大好きっていう気持ちが溢れてきたんだよ。だから、毎日の終わりにハグをして、君にもっともっと、大好きって伝えたいんだ。……春くんは、僕とハグするの、嫌かな?」
「いやじゃな……ううん。おじさんとハグするの、好きだよ」
「そっか。じゃあ、ほら……おいで」
僕が両手を広げると、春くんはゆっくりと近づいきて、抱きしめてくれる。僕も春くんの体に腕を回して、“おやすみのハグ”をした。
「今日も君の事が、大好きだったよ。明日はもっと、その先はもっともっと……君の事が、きっと、大好きだよ。……おやすみ」
「うん。ボクも大好きだよ。……おやすみ」
春くんは静かに離れて、ベッドに入った。そして、数分もしないうちに、落ち着いた寝息が聞こえてくる。寝顔も、無表情だった頃では考えられないくらい、穏やかなものだ。
「今日は怖い夢を見ませんように」
僕は小さく呟いて、春くんの部屋を後にしたのだった。
*
それから1ヶ月が経った。
箱庭療法は終了し、学校にも通えるようになっている。自傷行為や夜驚などの虐待の後遺症は、一切無くなっており、春は普通の子と変わらないくらい、元気に過ごしていた。
……春はもう2度と、あの忌まわしい過去に縛られることはない。
――――さっきまでは、そう思っていた。
今、目の前で春が「イタイイタイ、コワイコワイ」と、頭を掻きむしりながら、悲痛な叫び声をあげている。
それが虐待のフラッシュバックだと、すぐに分かった。
必死になって春を抱きしめ、なだめようとしたが、僕の声は届いてないみたいだった。
虐待の後遺症は完全に無くなった、そのはずだったのに……。
春の心の傷は、まだ癒えていなかったんだ――――。




