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第58話 君の事が“大好き”だから

 7回目の箱庭を終えて、昼食と買い物を済ませた後、家に帰ってくる。春くんが作成した箱庭は、前回とほとんど変わらなかったが、先生はいい傾向だと言ってくれた。


「おとーさん、おなかすいたぁ!」


 リビングに入るなり、夏乃が僕の腕を引っ張りながら言う。時計を見遣ると、もうすぐ15時になるところだった。


「じゃあ、おやつにしよっか」

「わーい!」


 夏乃は、ダイニングのテーブルまで元気いっぱいに駆けていく。


「先に手を洗わないと、おやつ食べられないよ?」

「そうだった! あらってくる!」


 椅子に座ろうとしていたのを中断し、夏乃は洗面所に向かっていった。


「春くんも、お腹空いてる?」

「うん」

「良かった。なら、一緒に食べよう」


 春くんが洗面所に歩いて行ったのを確認し、おやつの用意を始めることにした。キッチンで手を洗い、冷蔵庫を開け、中を物色する。


「賞味期限が近いから、今日はチョコレートにしよう」


 板のミルクチョコレートを、野菜室から取り出した。包装を剥がして2等分にし、皿に移す。テーブルに戻ると、夏乃と春くんが座って待っていた。


「はい、今日のおやつだよ」

「わあぁ! チョコだ! おいしそう!」


 チョコレートの乗った皿をテーブルに置くと、夏乃は目を輝かせて喜んだ。


「おにいちゃん、チョコだよ! すっごくあまくて、おいしいんだよ!」

「う、うん」


 おやつを目の前にしてテンションの上がっている夏乃に、春くんは少し困惑しているようだ。


「いただきます!」

「いただきます」


 2人は手を合わせた後、チョコレートを食べ始める。夏乃は、チョコレートに勢いよくかぶりついた瞬間、幸せそうに顔を綻ばせた。


「あまくて、おいひい!」

「こら、ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」

「……んく。ごめんなさい。あまくておいしいよ、おとーさん!」

「そう、良かったね。おいしいのは分かったから、急がずに、よく噛んで食べるんだよ」

「はーい!」


 夏乃は、チョコレートが付いた前歯を覗かせて、元気よく返事をする。春くんはというと、黙々と食べ進めているようだった。


「春くん、チョコレートおいしい?」

「……」

「春くん?」


 ……返事がない。聞こえていなかったのだろうか?


「チョコレートはおいしいかな?」

「……」


 春くんは、僕の方に目もくれずただチョコレートを食べ進めている。二度も声を掛けて、聞こえていないはずがないんだけど……おかしいな。


「春くん、どうしたの?」


 体を軽く揺すってみても、一点を見つめたままで返事がない。なんだか、心ここにあらずという感じだ。


「春くん、春くん」


 少し不安になって強めに体を揺すると、春くんはハッとした様子で僕の方を見た。


「おじさん、なに?」

「なにって、春くんがなかなか返事をしてくれなかったから」

「……ごめんなさい」

「ううん、謝らなくても大丈夫だよ。それより、どうしたの? もしかして、チョコレートは嫌いだったのかな?」


 春くんは少しのあいだ黙り込んで、恐る恐るといった様子で口を開く。


「……うん。ボク、甘いのがきらいなんだ」


 やはり、そうだったか……。先ほどの不自然な様子は、嫌いな物を我慢して食べたことによるものだろうか。今までも何度か、プリンやケーキなどの甘いおやつを出したことがあったが、気付いてあげることが出来なかった。その時の春くんの気持ちを考えると、やるせなくて、とても心苦しい。


「早く気付いてあげられなくて、ごめんね。きっと、すごく嫌だったよね。嫌いなら無理して食べなくてもいいんだよ」

「おじさんも、あやまらなくていいよ。ボク、無理なんてしてないから」

「本当に? 嫌いなんだよね?」

「うん。……でも、ボクはへっちゃらなんだ。だって、いやなことがあったら、“楽しい夢”が見れるから」

「楽しい……夢?」


 どういう意味だろうか。


「夢って、寝ている時に見る、あの夢?」

「うん、そうだよ。でも、ボクはねてなくても夢が見れるんだ。夜はいつもこわい夢を見るけど、昼に見る夢はいつも楽しいんだよ」


 起きている時に見る夢……情景を想像している、ということか? 夜驚の原因である怖い夢を見ていることは知っていたが、春くんの言う“楽しい夢”とは一体……。


「何かいやなことがあっても、夢を見てれば、いつの間にか終わってる。夢を見た後は、どんないやなことがあったかほとんど忘れちゃうから、へっちゃらなんだ」


 僕の問いかけに気付かなかったのは、楽しい夢を見ることに集中していたからか……。嫌いなものを食べるという嫌なことをやり過ごすため、春くんは先ほど、楽しい夢を見ていたんだ。


「その夢は、どんな夢なのかな?」

「昼に見る夢には、いつも()()()が出てきてくれるんだ。たくさんお話しできるから、とても楽しい」

「……ヒカリ? ヒカリって、なんだろう?」

「ヒカリはヒカリだよ。ボクのお友だち」


 友達……。瑠璃ちゃん以外に友達がいたなんて知らなかった。


「そのお友達は、どんな子?」

「……教えたくないです。ボクの大切なひみつだから」

「……そう。ごめんね、無理には聞かないよ」


 夢の中で、ヒカリという友達と話をする……。

 ヒカリという名前は今初めて耳にしたし、春くんの話から察するに、夢の中にしか出てこない友達なのだろう。イマジナリーフレンドのようなものかもしれない。春くんが話してくれる気になったら、詳しく尋ねてみよう。


 その友達が実在するしないはともかく、夢に意識を飛ばして嫌なことをやり過ごす、というのが気がかりだ。明らかに普通の行動ではなく、これも虐待の影響によるものだと予想できる。

 次の箱庭の時に、先生に今日の事を相談してみよう。


 …

 ……

 ………


 夜、春くんの部屋の扉をノックすると、間もなくゆっくりと扉が開かれた。


「入っていい?」

「うん」


 春くんが寝る前に、僕はこうして毎日部屋を訪れている。いい事日記を一緒に書くためだ。だが、一週間ほど経っても、春くんは“いい事”を書けずにいた。

 今日はどうだろう、と隣に座って見守るが、春くんはなかなかペンを走らせようとしない。


「ねぇ、おじさん」


 春くんはペンを置いて、僕の方を見た。


「なにかな?」

「おじさんはボクのことを、家族だって思ってるの?」

「もちろんだよ」

「あの人たちみたいにひどいことをしないのは、家族だって思ってるから?」

「うん、そうだね。君は大切な家族だから、ひどいことなんて絶対にしないよ」

「大切な家族……。おじさんは、ただの親せきだったはずなのに、どうしてそんな風に思えるの? おじさんには何もいい事なんてないはずなのに、どうしてそんなにボクにやさしくしてくれるの?」

「それは……」


 最初は、春くんの言う通り、ただの親戚だった。でも今の僕は、春くんのことを大切な家族だと、本気で思っている。



 ――――では、どうして僕は、春くんのことを大切な家族だと思っている?



 春くんを引き取った時、親戚だからという義務感や、境遇が可哀想だという同情心が強かったように思う。

あの頃の僕は、春くんのことがこんなに大切でかけがえのない存在になるなんて、考えもしなかっただろう。


 それが今となっては、大切な家族として、僕が持てる限りの愛で、精一杯優しくしてあげたいと思っている。義務感や同情心じゃない、その気持ちは……。



 ……ああ、なんだ。気付いたら、簡単なことじゃないか。あれこれと考えるまでもなく、僕の中にあった単純な気持ちだ。



 春くんの事を、大切な家族だと思って、優しくする理由。



 今なら、迷いなく、こう言える。




「――――それはね、君の事が“大好き”だからだよ」




「……大好き?」

「うん。僕は君の事が、大好き。大好きだから、大切だと思うし、優しくしたいって思うんだよ」

「……どうして、ボクなんかを大好きだと思うの? ボクは、めいわくばかりかける悪い子なのに」

「春くんは、悪い子なんかじゃないよ。君は気付いてないかもしれないけど、君にはいいところがたくさんあるんだよ」


 あげだしたらキリがないが、例えば……


「絶対に人の事を傷つけたりしないところとか、夏乃に優しくしてくれるところとか、いつも素直なところとか、他にもたくさんたくさん……。僕は、そんな春くんのいいところを知って、大好きになったんだよ」


 春くんは、しばらく黙ったかと思うと、ふいにペンを手に取り、ノートに走らせた。


 そこには、不格好な文字で『夜ごはん、おいしかった』とだけ書かれている。


 すごく短いけど、初めて“いい事”を書いてくれた……!


 いい事をひとつ書いた、ただそれだけなのに、とても大きな一歩のように思えて、嬉しい気持ちでいっぱいになるのだった。


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