第55話 あの日
今日もまた、夏乃が瑠璃ちゃんと一緒に学校から帰ってきた。春くんが学校に行けなくなってから始まった放課後の勉強会は、平日は欠かさず行われ、もはや日常の光景となっている。
「あたし、おにーちゃんのとなりでやる!」
算数のドリルを持って、夏乃が春くんの隣に座り込む。体が触れ合うくらい近くで、こんなことはこの前までは考えられなかった。
ちょうど一週間前、夏乃が苦しむ春くんを抱きしめた日……。あの日以来、夏乃と春くんの距離はグッと縮まった。
なぜあの時、春くんを抱きしめたのか尋ねてみると、夏乃は『あんしんしてほしかったから』と言った。重ねて、『怖くなかったの?』と尋ねると『こわかったけど、してあげたかったから。あたしも、おとーさんにぎゅうってしてもらうと、いつもあんしんするから……。だから、おにーちゃんにもしてあげたかったの』そう、少し照れながら口にした。
あの日まで怖いという気持ちがあった夏乃も、今ではそんな感情はひとかけらも見られない。夏乃はあの時、お兄ちゃんは怖い人じゃないと肌で感じたんだろう。抱きしめることで、春くんが抱えるものを感じ取り、お兄ちゃんはただ苦しんでいるだけで怖いことなんてなにもないと理解したんだ。
「ねぇねぇ、おにーちゃん! ここ、おしえて?」
夏乃は算数のドリルを春くんの前に突き出し、体を密着させながら尋ねる。
「え? う、うん……」
春くんは戸惑いながらも返事をする。距離が縮まっているのは確かなのだが、春くんは急激に近づいた距離に困惑している様子だ。でも、嫌がっているようには全く見えなかった。
いつも無表情でいる春くんが、照れたように頬を染めながら、たどたどしくも勉強を教えている。そんな光景を見て、あの時も感じたことだが、兄妹の関係はこれからいい方向に進んでいくのだろうと思えた。
「ははっ」
「……? おじさん、どうしたんですか?」
仲の良い2人を見て思わず零れてしまった微笑に、瑠璃ちゃんが不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもないよ。ごめんね」
突然笑いだしたりしたら、誰だって不思議に思うだろう。集中していた瑠璃ちゃんをこれ以上邪魔したくなかったので、軽い調子で謝り受け流しておいた。
「……できた! おにーちゃん、できたよ! ありがとー!」
「う、うん。よかったね」
夏乃のストレートな感謝の言葉に、春くんはまた頬を染めて顔を逸らした。あれほど感情が読めなかった春くんが、分かりやすく照れている。春くんの照れた表情はすごく可愛らしくて、微笑ましい。これからこんな風に、色んな表情が見れたらいいなと素直に思う。
…
……
………
「瑠璃ちゃん、今日もありがとう。気を付けて帰ってね」
勉強会を終えて、玄関で瑠璃ちゃんを見送る。夏乃と春くんはまだ勉強を続けているが、瑠璃ちゃんは暗くなる前に帰さなければならない。
「……あの、おじさん。ちょっといいですか?」
いつものように元気よく挨拶をして帰っていくと思ったが、瑠璃ちゃんは真剣な顔をして僕に問いかけた。
「いいよ。なにかな?」
「春はまだ、自分をきずつけたりしていますか?」
瑠璃ちゃんにはすでに、春くんが自傷行為を行うことがあると話してある。それを最初に話した時、瑠璃ちゃんはひどくショックを受けた様子だったのをよく憶えている。それ以来瑠璃ちゃんはこんな風に、春くんの自傷行為についてよく気にしてくれるようになっていた。
「……うん。今でも、時々ね」
「……そうですか」
「でも、前よりは減ってきてるんだよ。病院の先生も、良くなってきてるって言っていたし、きっと大丈夫」
これは、悲しんで俯く瑠璃ちゃんのためにかけた気休めの言葉ではなく、紛れもない事実だ。自傷行為は最初の頃に比べて明らかに減ってきているし、志和多先生も治療は順調だと言っていた。
「春は、どうして自分をきずつけたりするんですか……?」
「それは……」
難しい質問だ。いろいろ想像することは出来るが、あくまで憶測の域を出ず、春くんが自傷を行う本当の理由は、正直なところ分からない。
僕が答えに窮していると、瑠璃ちゃんが言葉を続けた。
「……春は、橋から飛びおりて、死のうとしたことがあります」
「……え?」
橋から……飛び降り? ……自殺?
瑠璃ちゃんの口から飛び出した突然の話に、僕は当惑した。
「春とわたしだけのひみつで、ほかのだれも知らないことです。でも、おじさんには知っていてほしいと思って……」
そう言って瑠璃ちゃんは続きを語りはじめた。
春くんが児童相談所に引き取られる少し前の話。今から3ヶ月ほど前のバレンタインの次の日にそれは起こったという。
その日の瑠璃ちゃんは、ここの近くにある河川敷の橋で春くんを見つけ、欄干に身を乗り出し飛び降りようとしているところを止めたらしい。
「わたしがとびついて春を止めた時、“生きていても、いい事なんて何もない”とか“生まれてこなければ良かった”って言っていました……。わたしがそんなことないって言ったら、春はもうしないって言って、飛びおりようとするのをやめてくれたけど……」
これは児童相談所に引き取られる少し前の出来事で、春くんは当時、虐待の真っ只中にいたはずだ。あれほどまでに凄惨な虐待を受けていたら、本当に死んでしまいたくなることがあっても何ら不思議ではなかった。
春くんに過去、本気で自殺を試みたことがあるという事実には驚いたが、全く想像できないことではなかったので、ある程度は冷静でいられた。
「……ねぇ、おじさん。春は今でも、“死にたい”って思ってるんですか? わたし、こわい。春が……。春が今度こそいなくなっちゃうんじゃないかって……。春が自分でつけたきずを見るたびに、そう思っちゃう……っ」
全て語り終えた瑠璃ちゃんは、今にも泣き出しそうなほどの悲痛な表情を浮かべながら、最後にそう言った。
瑠璃ちゃんにとって春くんは、かけがえのない大切な存在だ。そんな大切な存在を失いかけて、瑠璃ちゃんはすごく怖い思いをしたことだろう。大切な存在を失う恐怖は、妻を亡くした僕にはよく分かる。
「春くんはもう“死にたい”だなんて思ってないよ」
春くんは今でも“死んだ方がいい”とか“生まれてこなければ良かった”などと口にするのは確かだったが、それは春くんの本心ではないと確信している。だって……
「だって、瑠璃ちゃんがいつもそばにいてくれるんだから」
「わたしが……?」
「……うん。最近、春くんは感情を少しずつ取り戻していっているんだ。例えば今日ね、瑠璃ちゃんが来てくれる時間が近づくうちに春くんはソワソワしだして、なんとなくだけど嬉しそうにしてたんだ。それでね、春くんは、瑠璃ちゃんに会えるから楽しみって言ってたんだよ。本当に“死にたい”だなんて思ってたら、こんな風には思えないはずだよね。春くんは可愛い照れ屋さんだから、君にはこんなこと言ってないと思うけど、君が春くんを大切に想っているように、春くんも君のことを大切に想ってるんだよ。……人はね、大切なものがあると“死にたい”だなんて心から思ったりはしないんだ。まだ時々、抑えられなくなって自分を傷つけてしまうこともあるけれど、それは心から“死にたい”と思ってしていることじゃないんだよ」
だから、安心して――そう言うと瑠璃ちゃんは、わずかだったが微笑んでくれた。
春くんが心の底から“死にたい”と思ったことがあるのは、瑠璃ちゃんの話からするとおそらく事実だ。でもそれはもう過去の話で、虐待による苦しみと、その苦しみから大切なものを見失っていたからで、今は違うはずだ。
夏乃や瑠璃ちゃん……自惚れが許されるのなら、僕も……。今の春くんには、そばで支えてくれる人がいる。お互いを大切だと思える存在がある。
「……瑠璃ちゃん。本当に、いつもありがとうね。君が春くんのそばにいてくれているおかげで、春くんは元気を取り戻してくれているんだよ。君のその優しさは、春くんにちゃんと届いているはずなんだ。だから、これからも春くんのそばにいてくれるかい? 春くんには、瑠璃ちゃんの存在が絶対に必要なんだよ」
瑠璃ちゃんの瞳を見れば、そんなことは聞くまでもないことだと分かったが、僕はそう尋ねていた。
「はい。春が笑顔をとりもどしてくれるまで……ううん。そのあとも、ずっとずっと、そばにいる……いたいです」
瑠璃ちゃんは、僕が期待していた以上の答えを返してくれた。
先の事なんて誰にも分からないけど、将来、どんなことがあっても瑠璃ちゃんは春くんのそばにいてくれる……。どんなに苦しくても、つらくても、2人が離れることはない……。僕はそんな運命の存在を、信じたくなるのだった。