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第54話 兄妹の絆

 4回目の箱庭が終わってプレイルームを後にし、僕は診察室に訪れていた。今回の箱庭の所感、評価及び考察を精神科医の志和多しわた先生に聞くためだ。


「今回の箱庭は、前回までと比べると大きな変化がありましたね」


 先ほど春くんが作った箱庭の写真をモニターに映して、志和多先生が言った。


 箱庭の左半分に男の子と黒い子猫、それを囲うブロックの壁。ここまでは同じだが、中央には反り立つ壁のような大きな砂の山ができていた。山は箱の端から端まで高さを保っており、左右を完全に分断している。

 そして、男の子と子猫から見て山の向こう側の右半分には、男女の大人達やライオンやワニなどの凶暴な動物、大きな肉食の恐竜などが入り乱れていた。


「新しくできた左右を分かつ砂の壁は、左は内界、右は外界を表すという箱庭の特徴を、分かりやすく示していますね。外界に新しく現れたミニチュアたちは、春くんにとって怖いと感じているものなのでしょう」


 ライオンやワニなどの動物や、大きな恐竜は誰もが怖いという印象を持つものだろう。大人のミニチュアが怖いと感じるというのも、春くんが被虐待児である事実を考えれば、得心がいくものだ。


「なぜ春くんはわざわざ、怖いと感じるものを箱庭に表現したのでしょうか?」

「この箱庭から読み取れるのは、春くんにとって外の世界は怖いもので溢れているということです。怖いものたちを隔てる砂の壁に、内界に作られた牢固ろうこたる守り……。これらを自分を守る盾にして、箱庭の中で、怖いものたちに立ち向かおうとしているのかもしれません。もちろん怖いもので溢れる箱庭は、クライエントが精神的に追い詰められている状態にあるとも解釈できます。ですが私は今までの状況を鑑みて、そのようなネガティブなものではないと考えます。これは春くんが人格的成長を遂げるうえで必要なプロセスだと言えそうです」


 まずは箱庭の中で怖いものを克服し、それを現実世界でも反映することができれば……そう考えるのは、希望的観測だろうか。


「……ところで、陽中さん。春くんは“猫”に何か特別な思い入れを持っているのでしょうか?」

「……猫、ですか?」


 意図の掴めない突然の質問に思わずオウム返しをしてしまう。


「はい、猫です。飼っているとか、以前飼っていたとか、飼ったことはなくとも、猫が好きだとか……思い当たることはありますか?」


 家には猫なんていないし、春くんの両親が健在だった頃も、猫を飼っていなかったはずだ。もちろん吉部よしべさんのところにも猫はいなかった。そして普段の生活を見ていても、猫が特別好きだということはないように思える。


「いえ。私が知る限りでは、春くんが猫を飼ったことはないです。猫が好きだということも、たぶん……」


 ……ないと思います、そう言おうとした時、思い出したことがあった。


「そう言えば、春くんが好きでよく読んでいる本の中に、猫が主役として出てくるものがあります」


 少年と猫が大切ななくしものを探す物語の、僕が書いた本のことだ。


「その猫は“黒猫”ですか?」

「いいえ。ソマリという種類で、赤みがかった茶色のような毛色をしています。挿絵もそのように描かれています」

「そうですか。なら、黒い子猫を使うのは偶然か……」


 志和多先生はあごに手を添えながら呟いた。


「あの、この質問の意図は……?」

「あぁ、いえ。春くんは今までの箱庭で必ず黒い子猫のミニチュアを使っているので、何か意味があるかもしれないと思ったんです。特別な思い入れがないようなら、おそらく、最初にたまたま手に取ったのがそれだった、というだけの話でしょう。ひとつのものにこだわるということには、何か意味を持っている可能性はありますが……」


 箱庭の男の子を春くんと置き換えるのなら、その黒い子猫はいつも春くんのそばにいることになる。春くんと黒い子猫に深い繋がりがあったとしたら、黒い子猫を選んだことに何か意味があると言えそうだが、そんな繋がりは普段の生活からは見られない。先生の言う通り、自分に危害を加えない可愛い動物を選ぼうとして、子犬やウサギ、ハムスターなどの中から、たまたま最初に手に取ったのが黒い子猫だったというだけ話なのだろう。


「……おっと。そろそろ別の患者さんを診る時間だ。陽中さん、今日はこれで。次の箱庭も予定通り行います」

「はい。次回もよろしくお願いします」


 …

 ……

 ………


 4回目の箱庭から3日が経った。箱庭には大きな変化が見られたが、春くんの方は特に変わった様子はない。不登校に、自傷行為や夜驚、自己否定……それらが改善する兆候は見られない。


 精神科医の志和多先生も児童相談所の三戸みつどさんも、家庭での生活が何よりの治療になると言っていた。それを疑うわけではないが、春くんを引き取ってからどんどん悪い方向に進んでいっている気がして、自信がなくなってしまいそうだった。


 春くんのためにできることに労を惜しんだこと一度もないし、この先もそうするつもりだ。……だが、この先もずっとずっと、春くんがこのまま変わらないとしたら?

 僕はいつまでこの状況に耐えることができるだろうか。家事と仕事をこなしながら、春くんの自傷行為のために一日中、気を張っておかなければならない。夜には春くんの夜驚に起こされることもしばしば……。


 そして、僕の想いとは裏腹に春くんは『ボクなんか』とか『死んでしまいたい』などと口にする。

 こんなことが終わりも見えずにこの先もずっと続くとしたら、僕は正気を保っていられるだろうか……? 懐疑心やストレス、無力感に押し潰されてしまうかもしれない……。


「おとーさん! ごはん、まだー?」


 リビングから夏乃の声が響いてくる。今日の夕食であるカレーの香りが漂い始めて、我慢が出来なくなった様子だ。


「もうすぐ出来るよー!」


 キッチンからリビングに向かって返事をすると「はーい!」と元気な声が返ってきた。


「春くん、もうすぐご飯ができるよ。手、洗ってきてね」

「はい」


 ダイニングのテーブルで本を読んでいた春くんに声をかける。春くんは本を置いて洗面所の方へ歩いて行った。

 カレーが焦げ付かないように、時々かき混ぜながら煮詰めていく。おたまでルーを少しだけすくって味見をしてみる。甘口のカレーは僕の口は少し合わないが、夏乃と春くんはおいしいと思ってくれるはずだ。


「もう少し、とろみが欲しいかな」


 あと数分煮詰めれば、満足のいくカレーが完成するはずだ。

 2人とも『おいしい』って言ってくれるかな?




「――――うわああああああぁぁぁぁぁ!!」




 ……春くんの声! 洗面所の方からだ!



 慌てて火を止めて、洗面所に向かう。今日もまた起きてしまった。自傷行為はケガを最小限に抑えるため、いち早く制止しなければならない。


 脇目も振らずに春くんのところに向かう最中、夏乃が洗面所に入っていこうとするのを目撃した。


「夏乃! 今はダメ!」


 今、春くんには周りが見えていないはずだ。そんなところに近づいてしまえば、春くんにその気がなくても、夏乃がケガをしてしまうかもしれない。そうなってしまうと、夏乃はさらに春くんのことが怖くなってしまうだろうし、春くんは自分をもっと責めてしまうだろう。

 なんとしても避けなければならないことなのに、僕の叫び声は届くことはなく、夏乃は春くんのいる洗面所の中に消えてしまった。


「まずい……っ」


 焦る気持ちが加速し、心臓が早鐘を打つ。すぐそこのはずなのに長い時間がかかったように感じられ、ようやく洗面所に辿り着く。


「夏乃っ! 春くんっ!」


 そこで目にした光景は、僕が想定したものではなく……


「夏……乃? なん、で……」


 春くんが夏乃をケガさせる最悪の事態をあらかじめ想定し、落ち着いて適切な行動ができるようにしていたつもりだった。



 でもこれは……どうして、こんな……。


 こんなのは、想定していない。出来るはずがない……。


 僕の目に飛び込んできたのは、夏乃が……





 ――――夏乃が、座り込む春くんを、後ろからそっと抱きしめている姿だった。





 夏乃が、暴れる春くんを抱きしめて落ち着かせたのだろうか?


 どうして、夏乃は……。春くんのことが怖かったんじゃないのか? どうしてこんなことが出来るんだ……?




「おにーちゃん。だいじょうぶ、だいじょうぶ」




 固まって動かない春くんを、なおも抱きしめ続けている。夏乃のその声は、ただただ優しく、深い愛情に満ちていた。




「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、おにーちゃん」

「うっ……うぅ……ぅ」




 全てを受け入れるような慈愛に満ちた抱擁に、春くんは嗚咽を漏らし始める。それでも夏乃は「だいじょうぶ」と抱きしめ続け、やがて春くんはせきを切ったように大声を上げながら、泣きじゃくり始めた。


 春くんが涙を見せたのは、これが初めての事だった。それに、ここまで感情を露わにしたのも初めてだ。



 きっと……。



 きっと、春くんはこうして、誰かに抱きしめて欲しかったんだろう。



 両親を失って、心の傷も癒えないまま始まった虐待の日々。周りの全てが敵に見えてしまって、たったひとりで戦い続けた……。

 優しく抱きしめられ、ぬくもりに……愛に包まれて、その孤独が今ようやく、癒され始めたのかもしれない。


 “抱きしめる”という行為がどれほど大きな意味を持つのか、僕はこのとき初めて知った。まだ小学生になったばかりの小さな娘に、教えてもらった……。


 春くんが泣き止むまでのあいだ、僕は洗面所の外で2人の様子を見守り続けた。夏乃は春くんが泣き止むまで、変わらずに抱きしめ続けていた。



 この出来事で、ひとつ確信したことがある。それは、2人の兄妹としてのこれからが、幸せで、明るいものになるということだ。

 離れていた時間の長さなどものともしない兄妹の絆は、確かにここにあったんだ。



「……っ」



 いつの間にか溢れていた涙をしっかりと拭ってから、2人のいる洗面所に入る。



「ご飯、出来たよ。みんなで一緒に食べよう?」


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