第52話 学校に行きたくない
2回目の箱庭の日になった。プレイルームに行く前に簡単な診察があり、1回目の箱庭を行った日から今日までの1週間で、深夜に目を覚まして泣き叫ぶことが何度かあったことを、医師の志和多先生に伝えた。
志和多先生は、箱庭との因果関係は分からないが、しばらく経過を観察して欲しいと言った。
眠りから目を覚まして、何かに怯えるように叫ぶのは夜驚症と呼ばれる睡眠障害の一種だという。通常、数分で症状は治まって落ち着くので、暴れたり走り回ったりしてケガをしないように注意するだけでいいとのことだ。先生の言う通り、春くんの場合も2~3分で落ち着いて再び眠りについていた。
夜驚の最中、僕の問いかけに応じたり応じなかったり、朝起きてきたときに聞いてみても覚えていない様子だったりするのも、通常の症状らしく、特に気にする必要はないと先生は言った。自傷行為とは違い大きな危険が伴うものではなく、成長と共に自然に無くなっていくものだから、過度に心配することはないと、先生は最後にそう勇気づけてくれた。
プレイルームには前回と同様、セラピストの高左さんと共に3人で向かった。
本来なら箱庭療法は、患者とセラピストの2人で行われるものらしいが、僕は特別に同伴の許可をもらっていた。それは、個室で知らない人と2人きりという状況を嫌がった春くんが、僕にもいて欲しいと言ったからだった。その申し出自体は嬉しい事ではあったが、同時に、病院という絶対的に安全な場所でも恐怖を感じているということに他ならず、素直に喜ぶことはできなかった。
前回は箱庭の作り始めまでに時間を要してしまったので、その反省を活かし、今回は始めから離れたところで見守ることになった。
春くんは早速、棚の方に歩み寄っていき、今回はさほど迷うことなくミニチュアを取り出す。何を取り出したのかよく見えず分からなかったが、春くんはミニチュアを持って箱の前に腰を下ろした。
今日は前回と違い、制限時間の30分を箱庭に全て使うことが出来る。前回、寂しい箱庭になったのはもしかしたら、十分に時間なかったからかもしれない。だから、時間をフルに使える今回の箱庭は、よりにぎやかになることが期待できる。
箱庭にどんな変化があるのか楽しみに思いながら、高左さんと一緒に見守るのだった。
2回目の箱庭も無事に終わった。前回より時間をかけて作った箱庭だったが、完成したものを見てみても、変化はほとんどなかった。男の子と黒い子猫のミニチュアが置かれているだけ……。
高左さんはこれを、自己を開拓するための準備だと解釈した。同じパターンの箱庭を作ることで安全を確かめていると解釈できるらしい。
だから焦る必要はありません、継続して様子を見ましょう、と高左さんは言った。
…
……
………
2回目の箱庭から2日後の朝。そろそろ瑠璃ちゃんが家に来る時間になって、春くんが学校に行きたくないと言い出した。最初は体調が悪いのかと思ったが、どうやらそういうわけではないようだ。
「どうして? なにか嫌なことでもあったのかな?」
「……ありません。でも、行きたくないんです」
毎朝のように顔を合わせている瑠璃ちゃんから、学校での様子は聞いている。瑠璃ちゃん以外の子とはほとんどしゃべらなくて、いつも元気がなさそうにしているけど、いじめられるようになったとか、そういう学校に行きたくなくなるような変わった出来事はなかったはずだ。
それならば、もしかすると今までが無理をしていたのだろうか? 最近、春くんは自分の気持ちを出してくれるようになったので、勇気を出して言ってくれたのかもしれない。行きたくないというなら、無理に行かせない方がいいだろう。
「……分かった。じゃあ、おじさんと家で一緒にいようね」
おそらくこれは、今日だけ気まぐれで言ったことではないだろう。明日も明後日も、その先も学校に行きたくないと言うかもしれない。なら、春くんが再び学校に行きたいと思えるようになるまで、僕が一緒にいよう。
「おとーさん! るりちゃん、きた!!」
窓から外を眺め、瑠璃ちゃんが来るのを今か今かと待ち望んでいた夏乃が、歓喜の声を上げた。夏乃はすっかり瑠璃ちゃんに懐いてしまって、今ではもうベッタリだ。瑠璃ちゃんの方も、実の妹のように夏乃を可愛がってくれて、とても助かっている。
窓から瑠璃ちゃんを視認して間もなく、インターホンの音がリビングに鳴り響いた。
「瑠璃ちゃんが来たけど、会いに行く?」
「……いえ」
「そう。なら今日は春くんが学校にいけないことを僕から伝えておくね。……夏乃、おいで」
「はーい!」
すでにランドセルを背負って準備万端だった夏乃は、ぴょこぴょこと跳ねるように走って、先を歩いていた僕の隣についた。
「ねえ、おとーさん。おにーちゃんは?」
「お兄ちゃんは、今日はお休み。ちょっと寂しいけど、瑠璃ちゃんと2人で学校に行ってね」
「……そうなんだ。おにーちゃんとがっこーにいくの、たのしみだったのに……」
夏乃はしょんぼりと、分かりやすく肩を落とした。登校中、2人の間にあまり会話はないようだったが、それでも春くんと一緒に登校するのは楽しいと感じていたようで、僕は嬉しくなった。
玄関の扉を開け、瑠璃ちゃんと挨拶を交わす。
「あれ? 春はまだじゅんび中ですか?」
瑠璃ちゃんは、すぐに春くんがいないことに気付いたようだ。
「ううん。今日はお休みするんだ」
「体調、わるいんですか?」
……瑠璃ちゃんには本当のことを伝えておいた方がいいだろう。
「春くんは元気だよ。……でも、学校に行きたくないみたいなんだ」
「……そうですか。春はもしかしたら今まで、むりをしていたのかもしれません」
瑠璃ちゃんは俯きがちに言った。瑠璃ちゃんでもそう思うのなら、やはり春くんは無理をして学校に行っていたのかもしれない。
「……うん。たぶん、そうなのかもしれない。……でも、安心して。きっとすぐに学校に行けるようになるから」
悲しそうに目を伏せる瑠璃ちゃんが見ていられなくて、どうすればそうなってくれるのか分かりもしないのに、思わず言ってしまった。僕の子供たちがいつもお世話になってるから、瑠璃ちゃんには悲しい表情をして欲しくなかったんだ。
「……はい。わたしも、春のために何ができるか、考えます」
「うん。いつもありがとうね、瑠璃ちゃん」
「はい。……さ、夏乃ちゃん! いっしょに学校に行こう! 今日は手をつないでいく?」
「うん! つなぐつなぐー!」
瑠璃ちゃんは一転して明るい声でそう言い、夏乃の手を取った。優しい瑠璃ちゃんのことだから、いつまでも悲しんでいたら夏乃にまでそれが伝わってしまうと考えたに違いない。
瑠璃ちゃんがいてくれるだけで、僕たち家族はどれだけ助かっているのだろう? 僕も、夏乃も、春くんも……瑠璃ちゃんには大きな力をもらっているはずだ。
……本当に、いつもありがとう。
心の中でもう一度お礼を言って、仲良く歩いていく2人を見送るのだった。




