表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/86

第51話 男の子と黒い子猫

 1回目の箱庭の日になった。病院に行き僕と春くんは、箱庭を担当してくれるセラピストの高左たかささんに連れられて、ある一室に案内される。箱庭療法を行うための、プレイルームと呼ばれる部屋だ。


 プレイルームに入ってまず驚いたのが、病院の一室とは思えないほど、部屋全体がカラフルだったことだ。床には、黄・だいだい・桃・黄緑といった様々な明るい色のマットが敷き詰められていて、壁は一面、晴天の空を思わせるような澄んだ青色をしている。


「クライエントが心理的に安心できるように、このプレイルームは作られているんですよ」


 僕の驚きを知ってか知らずか、隣に立つ高左さんが、透明感のある高い声でそう言った。


「カラフルな色合いの部屋に、暖かな照明の色。リラックス効果がある、森の香りがするアロマもいています」


 意識して匂いを嗅いでみると、高左さんの言う通り、かすかに森の香りを感じた。確かに、安心を感じる環境で、箱庭療法にふさわしい一室だと思った。

 壁際の一角まで歩いていくと、カラフルなマットの上に、蓋のない箱のようなものが置かれていた。木でできていて、面積は学校で児童が使う机ほどで、高さは5~6センチメートルといったところだ。中には、高さの3分の2くらいのところまで砂が隙間なく敷き詰められている。これが箱庭療法で使用する箱なのだろう。

 そして、周辺には棚がたくさん並べられている。どれも春くんの身長の半分くらいの高さで、中には様々な種類のミニチュアが収納されていた。

 高左さんは、棚の中のミニチュアをいくつか取り出して、箱の横に正座し、僕と春くんと正対した。


「春くん。今からあなたには、このおもちゃと砂を使って好きなものを作ってもらいます」


 そう言って高左さんは、箱の中に、手に持っていた女の子と犬の人形、木の模型を置いた。


「こんな感じで自由に置いて遊んでね。もちろんこの女の子とか犬だけじゃなくて、棚にあるおもちゃだったら、どれでも好きなだけ使っていいんだよ」


 そんな風に、高左さんは春くんに箱庭のやり方を説明する。最後に、おもちゃを壊してはいけないこと、砂を箱の外に出してはいけないこと、などといったルールを説明し、立ち上がった。

 春くんはその説明を黙って聞いて、小さく返事をしたあと、ミニチュアの置いてある棚の方に歩いて行った。

 早速ミニチュアを取り出して箱庭を始めるのかと思いきや、春くんはしばらく棚の前で立ち尽くした。時折、こちらをチラチラと見ては棚に視線を戻し、立ち尽くす。

 何か伝えたいことがあるのかと思い声を掛けようとした時、


「春くんは私たちがいて緊張しているのかもしれません。少し離れましょう」


 高左さんがそう言ったので、僕たちは春くんのそばを離れることにした。


「こんなに離れてしまって大丈夫なんですか? ここからじゃ何を作ってるかよく分かりませんが……」

「箱庭を作る過程を観察するのも重要ですが、始められなかったら元も子もありません。それに、緊張している状態で箱庭を作るのは、かえって逆効果になることがあります。周りに人がいることに緊張して、なかなか始められないのは実はよくあることなので、安心してください。しばらくこのままで様子を見ましょう」


 高左さんの言う通りにこのまま様子を見守っていると、春くんはしばらくして棚から、遠くてよく分からないが何かを取り出した。そして箱の前にぺたりと座り込んで、箱庭の制作に取り掛かったようだ。


 春くんはそれから、30分の制限時間が来るまで、一度も立ち上がらずに箱庭の前に座り込んでいた。手は動かしていたようだったから、ボーっとしていたわけではないのだろうが、ミニチュアは最初に取り出したものだけのはずなので、寂しい箱庭になっていることだろう。


「春くん、お疲れ様。今日はこれでおしまいだよ」


 時間が来たので春くんのそばに近寄り、高左さんが声をかけた。それを聞いた春くんはすぐに立ち上がり、僕の隣まで歩いてくる。

 出来上がった箱庭は予想した通り、寂しい印象を受けた。


 広い箱の中に、男の子と黒い子猫のミニチュアがひとつずつ、隣同士にポツンと置かれているだけ……。


「ねぇ、春くん。たくさんあるおもちゃの中から、このふたつを選んだのはどうしてなのかな?」


 高左さんが、春くんに優しく問いかける。


「……」


 春くんは高左さんの問いかけに対して、黙ったままだ。


「……ごめんね。ちょっと難しかったよね。今日はこれで終わりだから、外に出て、すぐそばにある椅子に座って待っててくれるかな?」

「はい」


 春くんは短く返事をし、扉を開けて部屋を出た。


「……さて。本当は春くんにこの箱庭についていろいろ聞いてみるところなのですが、どうやらそれは難しいようですね。春くんが語ってくれないのなら、この箱庭を見て読み取ることになるのですが……。動きが少なくて評価が難しいですね」


「失敗……ということですか?」


「いえいえ、とんでもないです。箱庭は長期で行うものですから、1回だけで判断はできません。動きが少なく、寂しい箱庭なのでここから何かを読み取るのは非常に難しいですが……。例えば、この男の子が春くん自身だと考えると色々浮かび上がってくることがあります。男の子のそばにいる黒い子猫……これはひとりで寂しいと思ったから置いた、味方だと捉えることが出来ます。他の人型のミニチュアや大きな動物では怖い、多くあっても怖い。だから何もされる心配のない可愛い子猫をひとつだけ隣に置いた……。男の子も子猫も、箱の左側に置かれていますね。箱庭では左側が内の世界、右側が外の世界と言われています。2つともが内の世界に置かれている……それが男の子は春くん自身、黒い子猫は味方と考えた根拠です。もちろん、これには例外があって左右の境がない箱庭や、真逆になっている箱庭もあります」


「これを見ただけでそこまで読み取ることが出来るのですね。驚きました」


「箱庭を見て色々想像することは出来ますが、今お話ししたのはあくまで、少ないヒントからの推測にすぎません。大切なのはこれから繰り返し行い、どのような変化があり、どのような物語になっていくか、です。ともかく、寂しい箱庭になってしまいましたが、無事に完成したのは素晴らしいことです。これからも続けていき、日々の生活に役立つような治療になるといいですね」


 高左さんはそう言って、出来上がった箱庭の写真を撮った。あとで箱庭の考察に使用するのだろう。


「私はこの部屋の後片付けをしますので、外で待っている春くんと一緒にお待ちください」

「はい。ありがとうございました」


 こうして初めての箱庭は無事に終わったのだった。


 …

 ……

 ………


 家に帰ってから春くんに、今日の箱庭はどうだったかと尋ねたら、意外なことに、楽しかったという言葉が返ってきた。全くそんな風には見えなかったのだが、箱庭には春くんの心に刺さるものがあったのかもしれない。

 春くんが“楽しい”などと、ポジティブなことを言うのは初めてのことだった。もうそれだけで、箱庭療法は成功だったんじゃないかと思えるほど嬉しくなる。次の箱庭の日に行きたくないとか言い出すんじゃないか、とか考えていたのだが、その心配は無用のようだった。


 夜になって、夏乃と春くんがそれぞれの部屋で寝静まった頃。家事と仕事を終えた僕は、就寝のためリビングのソファに横になった。

 春くんが自傷行為を行うようになった日から、僕は自分の部屋ではなくリビングで寝るようになっていた。春くんが深夜に目を覚まして、自傷行為をしてしまった時にすぐに駆けつけられるようにするためだ。春くんの部屋にほど近いリビングにいれば、春くんの声がしっかりと耳に届く。出来ることなら一緒に寝たいのだが、そういうわけにもいかず、これが精一杯のできることだった。

 僕の心配とは裏腹に、春くんは深夜に目を覚まして自傷行為をするようなことは今まで一度もなかった。朝までぐっすり眠っているのか、目が覚めたとしても深夜ではそんな気が起こらないのか、どちらかは分からないが、心配が杞憂に終わるに越したことはない。


 今日も何事もないのだろうと、半分安心、半分心配な心境の中、眠りに落ちそうになったその時、


「うわぁああああああああああああ!!!」


 春くんの部屋の方から、そんな叫び声が聞こえてきた。

 すぐに意識を覚醒させ、飛び起きた勢いのまま春くんの部屋に駆けつける。


「春くん! 入るよ!」


 扉を開け放ち、照明をつけて確認すると、春くんはベッドの上で頭を抱えて丸くなっていた。

 ……ただ丸くなっているだけで、動く様子はない。


 これは、自傷行為ではない?


 いつものように頭をどこかに打ち付けたりせずに、固まっている。

 ……いや、かすかに震えていて、まるで何かに怯えているようだった。


「……春くん。どうしたの?」


 ベッドに近寄って優しく声をかけると、春くんは起き上がってこちらを向いた。


「……おじさん。あれ? 今のは……ゆめ?」


 どうやら春くんは、怖い夢を見てしまったらしかった。悪夢を見て叫び声を上げながら飛び起きて、僕が声をかけるまでそれが夢だったと気づかなかったようだ。

 どんな夢を見たのか知っておきたかったが、聞くのはやめておいた。思い出してまた怯えてしまったらかわいそうだから。


「もう大丈夫?」

「はい。ごめんなさい」


 すでに震えは治まっていて、眠たそうに目をこすっているので、返事の通り、大丈夫なのだろう。


「謝る必要はないよ。何かあったらいつでも呼んでいいんだからね。……まだ怖かったら、一緒に寝る?」


 僕としては、一緒に眠った方が安心なのでそう問いかけるが、


「いえ、ひとりでだいじょうぶです」


 春くんはそう言って、僕の誘いを断った。


「……うん。じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 春くんが布団に入るのを確認し、照明を切って部屋を出る。

 自傷行為じゃなくてよかった……。そんな安堵を感じながらソファに再び横になると、間もなくまぶたが重くなってくる。僕は襲ってくる睡魔に、そのまま身をゆだねた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ