第49話 君ともっと一緒にいたいんだ
家に着いても春くんは目を覚まさなかったので、ベッドに運んでそのまま眠っていてもらうことにする。暴れて疲れているだろうし、診察の時は気を張っていたようだったので、目を覚まさないのも仕方のない事だ。
夏乃は終始落ち着かない様子だったが、家に着くなり、お気に入りのドールハウスで遊び始めたので、どうやら気を持ち直してくれたようだった。一緒に遊んでお話しをして、先ほどの件のケアをしてあげたかったが、それよりも先にしなければならないことがある。
僕は、児相の三戸さんの携帯番号をプッシュする。春くんのことについて、あれこれ1人で悩んでいても、解決には繋がらない。そう考えた僕は三戸さんに相談することに決めた。今日は休日で迷惑になるかもしれないが、三戸さんは何かあったらいつでも電話してくださいといってくれていたので、その言葉に甘えることにしたのだ。
仕事中じゃないから、出てくれないかもしれないという不安が過ったが、三戸さんはすぐに出てくれた。
「もしもし、陽中です。お休み中に申し訳ありません」
「いえいえ、お気になさらず。春くんのことで何かありましたか?」
「はい。それが……」
僕は今日起きたことを、正確に伝わるように頭の中で整理しながら、三戸さんに話した。
「春くんが、そんなことを……」
三戸さんは僕の拙い説明を相槌を打ちながら真剣に聞いてくれた。僕の話を聞き終わった後に零れたその言葉は、驚きの色が濃いようだった。
「……確かに、被虐待児の中には少数ですが、自傷行為を行う子もいます。ですが春くんは、私の経験上、そのようなことを行う可能性は低いだろうと思い込んでいました……。自分の経験を過信して、こういうことが起きるかもしれない、と事前に説明できなかったのは私の責任です。申し訳ありません」
三戸さんはショックを受けたように、声のトーンを落として謝罪した。電話の先で、深く頭を下げている様子が目に浮かぶようだった。
「いえ、謝らないでください。あなたには相談に乗っていただいたり、指導していただいたり、春くんのことで大変お世話になっています。あなたがいなければ、春くんと家族として暮らしている今はありません」
「はい、ありがとうございます。すでに起きてしまったことを悔やんでも仕方ありませんね。……春くんの自傷行為について、私なりの考えをお話しします」
三戸さんは、気持ちを切り替えるように声色を真剣なものにして、語り始める。
「まず、なぜ今までいい子に過ごしていたのに、そのような問題のある行動をとったのか、です。様々な理由が考えられますが、一番可能性が高いのは、“安心したから”だと思います」
「……安心?」
どういう意味だろうか? あの行動は、安心とは真逆のように思えるのに……。
「はい。春くんが陽中さんの家で過ごすようになって十日が経ちました。そのあいだ、春くんは問題行動を一切起こさず、いい子だった……。おそらくそれは、春くんが努めていい子であろうとしたからです。いい子であろうと自分を繕っていた、と言い換えてもいいです。いつでもいい子でいなければ、ここでも虐待されるかもしれない。そう考えた春くんは、様々な感情を押し殺して、いい子であろうとした」
……確かに、今思えば納得のいく話だ。4年ものあいだ、想像も絶するほどの虐待を受けてきた春くんが、いつもいい子でいられるはずがなかったんだ。いろいろな問題が起きて当然なのに……。
それは、春くんが虐待への怒りや悲しみ、苦しみなどの激情を、無理矢理に抑え込んでいい子であろうとしたからなんだ……。
「押し殺していた感情の爆発……。それが自傷行為だと、私は思います。では、なぜ爆発したのかというと、これが先ほど言った安心に繋がります。十日間、あなたと過ごして……あなたの優しさに触れて、春くんは、この人なら大丈夫だと安心したんです。ここなら、虐待なんて起こらない。だから、ありのままの自分を見せても大丈夫。そう安心した春くんは、今まで内にため込んできた感情を爆発させました。感情の爆発させ方が、どうして自分を傷つけるという行為になったのかは、正直なところ分かりません。その理由、背景についてはこれから探らなければならないことです」
押し寄せてくる感情にパニックになったのか、溢れ出してくる感情を抑えるためにやったのか、それとも苦しむ自分に気付いてほしくてやったのか……三戸さんは最後にそう付け加えた。
「いずれにしても、これからが大事ということですね。……春くんが今、すごく苦しんでいることは分かります。では、春くんのために、私には何が出来るでしょうか?」
「自傷行為は反復的に行われることが多いです。春くんの場合も、二度目、三度目があると考えて行動するべきです。陽中さんは今まで以上に春くんを見てあげてください」
「春くんは基本的に1人でいるのが好きなようで、自分の部屋のいることが多いのですが、そのあいだはどうすればいいのでしょうか? やはり、部屋に1人でいさせるのは自傷行為を見逃すかもしれないから避けるべきでしょうか?」
僕の質問に、三戸さんはしばらく考え込んでから答えてくれた。
「……難しい問題ですね。可能な限り、1人の時間を無くすのが理想ですが、春くんの意志が第一だと思います。1人でいたいと言うのなら、そうさせてあげた方がいいでしょう」
「ですが春くんの体のことを考えると、無理やりにでも一緒にいた方がいいのではないでしょうか?」
「意志を尊重しないのは、さらなる問題を引き起こしかねないので、推奨できません。それに、1人になりたいのにそうできないのは相当に心に負担がかかることです。そうなってしまうと、せっかく築けた安心感も、形成されつつある信頼も失ってしまうことになりかねません」
それは、もう2度と修復不可能なほどに深い傷を、春くんの心に刻みつけることになるでしょう。……三戸さんは神妙な声で言った。
「陽中さんの心配はごもっともですが、気にしすぎるのはかえって逆効果です。自傷行為は自殺とは違って、死に至るようなことはありません。春くんが行うことに命の危険が伴うのであれば、縛り付けてでも防ぐべきですが、そうではないのです。これは、春くんの回復のために許容しなければならないリスクだと、私は考えます」
本当にそれでいいのか……。三戸さんを信用していないわけではないが、そう思わずにはいられない。
そんな僕の不安を感じ取ったのか、三戸さんが僕の言葉を待たずに続ける。
「……これはあくまで、春くんの意志に反するくらいなら、という話です。陽中さんは、春くんが1人でいたいという意志を直接確認したことはありますか?」
「……いえ。いつも自分から進んで自室に向かうので……。それが春くんの意志だと……1人でいたいのだろうなと思っていました」
「確かにそれは春くんの意志でしょう。ですが、陽中さん。あなたの気持ちを、春くんに聞かせてあげたことはありますか?」
「……え?」
僕の……気持ち?
「春くんに“君と一緒にいたい”という、あなたの気持ちを伝えてあげてください。春くんはあなたに対して、安心を感じているはずなんです。凄惨な虐待を受けて、周りの全員が敵に思えるような状態で感じることができた安心……。そんな安心を感じる相手に“一緒にいたい”と言われれば春くんは、どう思うでしょうか? ……嬉しいはずです。きっと“僕も一緒にいたい”という意志を、示してくれると思いますよ」
……目から鱗だった。
僕は今まで、春くんの気持ちを分かろうと必死になっていただけで、自分の気持ちを伝えようとしたことはなかったかもしれない。一方通行になってしまっていたんだ。そんなことでは、春くんは不安になって自分の気持ちもうまく伝えられないだろう。
僕はこんな簡単なことにさえ、気付かなかったのか……。
「春くんが目を覚ましたら、すぐに伝えてみようと思います。このことに限らずに、これからは自分の気持ちを伝えるようにしたいと思います」
「ええ、ぜひそうしてください。きっと、上手くいきますよ」
春くんに、もっと一緒にいたい、という僕の気持ちを伝えること。きっと春くんは僕の気持ちに応えてくれて、眼の届く範囲にいてくれるようになる。そうすれば、自傷行為を未然に防げたり、被害を最小限に留めることが出来る。
「これで私が今後どのように対応すればいいのか、だいたい分かりましたが、根本的な解決にはなっていないと思います。今後、繰り返し行われるであろう自傷行為は、やはり時間をかけて治していくしか方法はないのでしょうか……?」
「ええ、時間をかけてゆっくりと治療していくほかにないでしょう。すぐにやめるように強要するのは、絶対にしてはいけないことです。これから自傷行為を目撃した際は、まずはそれ以上自分を傷つけることのできないように、優しく受け止めてあげて、落ち着くのを待ってください。そして、自傷行為そのものを否定したり、責めたりは決してせずに、苦しい気持ちに寄り添ってあげてください。君の味方だよ、とか。つらいことがあったら力になるよ、とか。声をかけてあげることも大切なことです」
そうすることで、どれだけの効果があるのかは分からないが、僕にできることがあるならばなんでもしたい。時間をかけるしかないのなら、焦らずにゆっくりと、根気強く春くんの心に寄り添ってあげたい。
「ゆっくりと時間をかけていくことに変わりはありませんが、医学的なアプローチも必要になると考えています。春くんの自傷行為はおそらく繰り返されるでしょう。そうなれば医学的なアプローチは不可欠です。……今から専門のお医者さんを紹介するので、憶えておいてください」
三戸さんが口にした病院の名前、住所や連絡先を忘れないようにメモをとる。三戸さんの言う通り、繰り返し自傷行為が行われるようなら、この病院にかかることになるだろう。
「紹介した病院の院長は、私の古い友人なので春くんのことについては話をしておきます。児童虐待について知見があり、治療も数えきれないくらい行ってきた方なので、きっと力になってくれますよ」
「はい、ありがとうございます」
三戸さんは最後に、近いうちにまた面談に来てくれることを約束してくれて、電話を切った。その時にはさらに詳しい話を聞いてみることにしよう。
…
……
………
昼食の時間になっても春くんは起きていなかったので、夏乃だけで昼食を済ませてもらった。
昼食に使った食器を洗い終え、ダイニングのテーブルでひと息ついてると、春くんがやってきた。
「起きたんだね。おでこは、どう? 痛くない?」
病院で処置してもらったガーゼもちゃんとついているし、見たところ問題はないようだ。
「大丈夫です。それよりも、おなかがすきました」
「……え? あ、ああ……もうお昼過ぎだもんね」
春くんが自分から、それに事もなげに気持ちを伝えてくるのは初めてだったので、少々面食らってしまった。
「ごはんならもう出来てるよ。夏乃は先に食べたから、僕と一緒に食べようか」
春くんには先に席についてもらって、2人分の昼食を温めなおし、食卓につく。
春くんはいつもと変わらない様子で食事を摂った。食べ終えた皿を流し台へ運び、歯磨きをして、春くんは自室の方に向かっていった。
僕はそんな春くんの後ろをついて行き、部屋のドアに手をかけたところで声をかける。
「ちょっといいかな?」
春くんは1人で部屋の中にいるつもりだろう。また自傷行為に走ってしまうかもしれない。先ほど、三戸さんが教えてくれた、自分の気持ちを伝えるということをしてみようと思った。
「……」
春くんは無言でこちらを向く。
「もしよかったら、その部屋の中じゃなくて、リビングで過ごさない? 僕ね、前から思ってたんだけど、君ともっと一緒にいたいんだ。僕たちは家族だから、君のことをもっともっと知りたいんだよ。だから、君さえよければ、できるだけ一緒のところにいてくれると嬉しいな。……無理にとは言わないよ。君がそうしたくなかったら、それでもいい。僕はリビングで待ってるからね」
もちろんこれは、自傷行為のためだけに言っていることではない。一緒にいたいというのは、そんなことは関係なく、僕の素直な気持ちだ。
「……」
でも僕の気持ちとは裏腹に、返事もなく、春くんは部屋の中に入ってしまった。
「……ダメか」
僕は肩を落として踵を返し、リビングへ向かう。三戸さんがあんな風に言ってくれたのだから期待はしていたのに、そう簡単にはいかないようだ。
リビングのソファに腰を掛け、少し離れたおもちゃで遊ぶスペースにいる夏乃をボーっと眺める。夏乃は楽しそうにひとりで遊んでいる。
春くんにとっては未だに、部屋以外の空間は、ちょうど今の夏乃のように安心して過ごせる場所ではないのだろうか。三戸さんは、自傷行為を安心を感じたからこその行動だと言っていたが、その安心とは別ものなのだろうか。
そんな風に思考を巡らせていると、ダイニングの方で物音がした。視線を送るとそこには、ダイニングテーブルの椅子に座ろうとしている春くんの姿があり……手には本を持っていた。
きっと、僕の言葉を受け入れてくれて、一緒にいてくれようとしてくれているんだ……!
リビングではなく少し離れたダイニングだが、元々この部屋には2つを分けるものはなく、明確な境界線はないので、一緒にいるといってもいいだろう。そして、十分に目が届く範囲なので自傷行為を見守る点においても問題はない。
春くんがリビングのソファに座ることはほとんどないが、ダイニングは毎食座っているから、そっちの方が抵抗が少なかったのだろう。
……春くんは、僕の気持ちに応えてくれた。こんなに嬉しいことはない。自傷行為をはじめとする問題が解決したわけではないが、これは大きな一歩だと思わずにはいられなかった。




