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第48話 ボクなんか、生まれてこなければ良かったんだ

 春くんを引き取ってから、十日が経った。今日は休日で学校はない。朝食を食べ終えた後、夏乃はリビングのテーブルでお絵かきを始めた。

 春くんはというと、すぐに自分の部屋に行った。おそらく、1人で本を読んで過ごしているのだろう。


 この十日間、春くんはただあまりしゃべらないだけで他に大きな問題はなく、いい子でいてくれた。

 虐待を受けて育った子は、日常生活の能力すら乏しかったり、ちょっとしたことでパニックになったり、時には暴力的な行動を起こすこともあるという。でも春くんは、いつも無表情で心を鎖しているように見えること以外は、普通の子のように思えた。問題のある行動も起こさないし、日常生活をおくるに当たって支障も見られない。このまま時間が経てば、春くんもきっと心を開いてくれるようになると思う。そうなったら、もう虐待のことなんか忘れて、普通の家庭で育った子と同じように生きていけるだろう。


 学校では瑠璃ちゃんがいつもそばにいてくれているようだし、毎日3人で登校する姿を見ていても、学校という場所が春くんにいい影響を与えていることが分かる。被虐待児の中には、とても学校に通えるような状態にない子もいると児相の三戸みつどさんが言っていたので、春くんは比較的、状態がいいと言えそうだ。

 春くんが来て、全く新しい生活が始まり、はや十日。全てが順調……とまでは言えないが、僕が想定していたよりもはるかにいい方向に進んで行っていることに、大きな安堵を感じていた。


 朝の時間の家事がひと通り終わったので、1人でお絵かきをしている夏乃のところへ行くことにする。隣に座って、一緒にお絵かきを始めた。僕も夏乃も、こうして一緒にお絵かきをしながら話をするのが好きだった。

 できることなら、春くんも一緒に……と考えてしまうが、それはまだ気が早いのだろうか。夏乃と春くんの仲は十日経った今でも進展はない。今、一番の気がかりは何かといえば、そのことに違いない。


「ねえ、夏乃。どんな絵を書いてるの?」

「えーっとねー。おとーさんとおにーちゃんと、あたしのえ! おててをつないで、みんななかよしなの!」

「へぇ、そうなんだ。みんな笑顔いっぱいで、素敵な絵だね!」

「うん!」


 夏乃は、絵の中の自分に負けないくらいの満面の笑みを浮かべた後、絵の続きに取り掛かった。

 夏乃の絵には、大きな男の人が1人、女の子と男の子がそれぞれ1人ずつ横並びに描かれている。夏乃の言った通り、僕たち家族の絵だ。左から僕、春くん、夏乃と並んで仲良く手を繋いでいる。3人の顔には、一点の曇りすらない笑顔が浮かんでおり、この絵からは幸せが溢れてくるようだった。


「おにーちゃん、このえみたいに、えがおになってくれるかな……?」


 絵が完成し、クレヨンを置いた夏乃が、小さく呟いた。


「きっとなってくれるよ」


 根拠もなくそう答え、夏乃の頭をそっと撫でる。おそらく、夏乃は夏乃なりに、春くんとの関係を悩んでいるのだろう。少しも縮まらない距離に、やきもきしているのかもしれない。お兄ちゃんと仲良くなりたいのに、そうなれない。この絵からはそんな夏乃の悩みも感じ取れるようだった。


 まぶしいくらいの明るい笑みを浮かべながら、夏乃や僕と手を繋いでいる春くん。もちろんこれは、実際にあったことではない。春くんがこんな風に笑うところは見たことがないので、これは全て夏乃の想像に過ぎない。

 ……いや、想像というより、願望と言った方がいいかもしれない。夏乃の書いたこの絵には、春くんが早く笑顔になって、仲良くなりたいという、健気で尊い願いが込められている気がしてならない。


「その絵、お兄ちゃんに見せにいこっか」


 だから僕は、そう言った。


 夏乃の願いが込められた、この素敵な絵を春くんが見たら、あの子の中の何かが変わるかもしれないと、根拠はないが心から思った。


「……うん! みせたい! おとーさんもついてきてくれる?」

「もちろん。さぁ、一緒に春くんの部屋に行こう」


 画用紙を大事そうに胸に抱えながら歩く夏乃を連れて、春くんの部屋に向かう。

 部屋の前に立ち、扉をノックしようとしたその瞬間――――。




「うわあああああああああああああああああああああああああ!!!」




 扉の奥から、くぐもった叫び声と、ドンドンドンという鈍い音が鳴り響いた。


「春くん!? どうしたんだい!?」


 ただ事ではない叫び声と物音に、冷静さを欠きながらも、何度も何度も扉をノックする。しかし、叫び声も、鈍い音も一向に止む気配はない。


「っ! 入るよ、春くん!」


 普段、春くんの許可なしに部屋に入ることは決してないが、今はそんなことを言っていられない。半ばこじあけるように扉を開き中を確認すると、そこには、壁に向かって自ら頭を打ち付ける春くんの姿があった。



「ぁああああああああ!! ボクなんか……ボクなんか……死んだ方がいいんだ!!!」



 春くんは、なおも頭を打ち付ける。早く止めなければならない、そう頭では分かっていても、あまりに衝撃的な出来事にしばらく体が動かすことができなかった。


 脳の動けという命令にやっと体が反応し、春くんを壁から引き剥がした時には、何度か頭を打ち付けた後だった。頭から滴る一筋の真紅が、春くんの顔を濡らしている。






「ボクなんか、生まれてこなければ良かったんだ……」






 掴まれて動けなくなった春くんは脱力し、僕にもたれかかるようにして、まるでスイッチが切れたように気を失った。幸いなことに、頭の傷は浅いようで、血が次々と溢れてくるようなことはない。

 僕は、春くんをベッドに寝かせて応急処置を施した。このまま安静にしていれば、数日中に傷は癒えるだろうが、脳に損傷があっては取り返しがつかないので、すぐに病院に連れていくことにする。


「あ……。夏乃……」


 春くんのことでいっぱいいっぱいだったので、すぐ近くに夏乃がいることが頭になかった。

 夏乃は、部屋の外で静かに震えていた。さっきの光景は、夏乃が抱える恐怖心を大きくしてしまったに違いない。


 春くんを病院に連れて行っている間、留守番をしてもらおうと思ったが、今、怯える夏乃を1人にすることはできない。僕は、夏乃をそっと抱きしめて、安心させるように頭を撫でた。

 描いた絵を見てもらうような状況ではなくなった上に、春くんに対する恐怖を大きくしてしまったが、起きてしまったことを悔やんでも仕方がない。


「今から病院に行く準備をするから、ちょっと待っててね」

「……うん」


 なんとか震えが治まった夏乃をもう一度抱きしめてから、ベッドで眠る春くんを抱きかかえる。そのまま外へ出て、車の後部座席に横たわらせた。

 家の中に戻り、手早く支度をする。夏乃はその間ずっと、恐怖からか僕のそばを離れなかった。そんな夏乃を助手席に乗せ、病院に向けて車を走らせるのだった。


 …

 ……

 ………


 診察が終わり、家に帰る途中の車内で、春くんは疲れたのか再び眠りについた。後部座席でシートにもたれかかって深い眠りに落ちている。

 診断結果は、特に大きな異常は見られないとのことだった。おでこにできた傷も浅いもので、すぐに治ると春くんを見てくれたお医者さんは言った。

 お医者さんのお墨付きをもらったので、ケガについてはひとまず安心だ。それよりも、さっきの春くんの行動について考えなければならない。


 今まで特に問題もなくいい子で過ごしていたのに、どうしてあのようなことをしたのだろうか。前触れはなく、突然の事だった。今日も、いつもと変わらない様子だったから、あんな行動をとってしまった原因が分からない。


 被虐待児の中には、ふとした拍子に、つらい過去がフラッシュバックしてしまう子がいるという。虐待に使われた道具を目にした時や、つらい過去と似通った状況に立たされた時などに、それは起こる。極めて侵入的で周りが全く見えなくなり、その子にとっては、まさに今、実際に起こっていることのように感じられる。


 春くんのあれも、虐待のトラウマによるフラッシュバックなのか……? いや、過去の虐待を想起させる危険があるものは、部屋の中にも、日常生活においても、徹底的に排除しているからそんなことは起こらないと思いたい。春くんの場合、コンロの火を見せないようにしたり、風呂に入るときは湯船のお湯を抜いたりと、様々な配慮をしている。それに、虐待のフラッシュバックと、自らを傷つけるようなあの行動は結びつかない気がする。虐待のトラウマに苛まれている真っ最中に、あのような行為に及ぶとは、やはり思えない。


 それが虐待のフラッシュバックだったとしても、別の何かだったとしても、僕は何より、“ボクなんか死んだ方がいい”“ボクなんか生まれてこなければ良かった”という言葉が気になっていた。


 春くんは、こんなにつらい想いをずっと1人で抱えながら生きてきたんだ。



 “死んだ方がいい”

 “生まれてこなければ良かった”



 そんな暗く寂しい気持ちは、小さな子供が1人で抱えきれるものでは到底ない。今までそんな気持ちを抱えながら1人で耐え続けてきたのが、今日、ついに限界が来てしまったのかもしれない。


 だがあの行動は、本当に死んでしまおうと思ってとったものではないはずだ。本当に死にたければ、もっと確実で簡単な方法はいくらでもある。それは小学生にだって分かるだろう。

 春くんのあの行動は“助けて欲しい”という心の叫びだったような気がしてならない。春くんが誰かの助けを必要としているなら、僕が喜んで助けになりたい。


 ……でも、僕に何ができると言うのだろうか?


 春くんとはまだ親密な関係を築けていないし、心を開いてくれている様子もない。それなのに、僕が春くんの助けになれるのか?


 ……分からない。

 春くんが心に負った傷は、あまりにも、深すぎる……。


 あんな光景を目の前にして、そんなことは分かりきっていたはずなのに、僕は改めて虐待を受けて育った子が抱える心の闇を思い知った。


 順調、だなんてとんでもないことだった。春くんは、普通のいい子だと思い込んでいただけで、実際は何も分かっちゃいなかった。


 こんな分からないことだらけの僕は、これから一体、どうすればいいのだろうか……。


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