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第44話 春くんを迎えに

「いってきまーす!」

「うん、行ってらっしゃい。気を付けてね」


 桜色をしたピカピカのランドセルを背負った夏乃が、元気よく玄関を飛び出していったのを見送る。大きなランドセルで背中をすっぽりと覆われた夏乃の後ろ姿を見て、まだまだ小さいのに本当に1人で大丈夫だろうかと心配になってしまう。


「今日もこっそりついて行こうか……」


 ……いや、やっぱりやめておこう。そんなことをしたらまた怒られてしまう。


『もうあたし、おねーちゃんになったんだから、ひとりでいけるもん! おとーさんは、ついてこなくていいの!』


 入学してから1週間が経った昨日、ひとりで登校できる、もう一緒に来なくていいよと言って家を出た夏乃。僕は心配で心配でこっそりついて行ったのだが、学校に辿り着く直前で尾行がバレてしまった際、そんな風に怒られてしまったのだ。

 だから、本当はまだまだ一緒に登校したいけど、ぐっと我慢。昨日は、ひとりでも交通ルールをちゃんと守っていたし、寄り道もしていなかった。だから、夏乃ならもう大丈夫なんだと、そう無理やりにでも納得しなければならない。夏乃は可愛すぎるから誘拐されたりしないだろうか、とか考えてはいけないんだ。これも立派な成長だと、前向きにとらえよう。


「信じて送り出すのも親の務め、か……」


 夏乃の成長が嬉しいような、悲しいような、そんな悲喜こもごもな心中で、後ろ髪を引かれながらも、キッチンに戻って朝食の片付けをすることにした。


 先日引っ越してきたこの新居は、春くんの通う小学校の学区内にある。それが家を選ぶ上での最低条件だった。そして、もうひとつの大事な条件は、それぞれの個室があることだ。春くんを迎えるにあたって、ひとりで過ごせる場所は必要だろうと僕は考えた。前の家より大きくなって家賃もかなり上がってしまったが、条件に合う物件が見つかったのは運がよかったと思う。


「ふぅっ、これで終わりかな」


 朝食に使った皿を洗い終えてひと息つく。約束の時間までまだまだ余裕はあったが、家にいても落ち着かないので、早めに出発することにした。


 今日はいよいよ春くんが家にやってくる。一時保護所まで車で向かい、春くんを連れて帰ってくる予定だ。今日という日を待ちわびたが、どうしても緊張はしてしまう。このまま一時保護所に向かうと早くついてしまうし、心を落ち着かせる意味でも、ゆったりと車を走らせることにしよう。


 今から数時間後には、春くんと一緒に過ごすことになるのだが、実はまだ正式に春くんの後見人にはなれていない。今はようやく、吉部よしべさんの後見人解任手続きが終わったところだ。

 吉部さんの春くんに対する虐待行為、国からの助成金の私的流用など……。数々の不正行為の証拠を持って解任の申し立てを行い、先日、裁判所から解任の決定が下された。あとは僕が後見人になればこの件に決着はつくが、もう少し時間がかかる。もちろん、すでに手続きを行っているので、何も起こらなければ後見人になるのは時間の問題だから、心配はいらないだろう。


 それよりも気にすべきなのは、吉部さん夫婦のことだ。2人が春くんにしてきたことは紛れもない犯罪行為で、到底許されるものではない。刑務所に入って深く反省するべきで、告発も視野に入れていたが、結局それはしないことにした。そんな僕の個人的な感情よりも、金輪際、春くんに関わらないことを約束させることの方が大事だと思ったからだ。春くんがもう二度と2人に怯える心配がないように、どこか遠くへ消えてくれと告げた。……告発はしないから、という言葉を盾にして。

 今はまだ白桜町に、それもこの家からそう遠くないところにいるので安心できないが、近いうちにこの町を出て遠くへ引っ越すという。2人がこの町からいなくなるのを確認して初めて、この心配もなくなることだろう。


 交通の妨げにならない程度にゆったりと車を走らせること30分ほどで、一時保護所に到着した。前の家から比べて、新居からは一時保護所が近くなったので、ゆっくりと車を走らせてもそれほど時間はかからなかった。予定の時間より早く着いてしまったが、車から降りて一時保護所に向かうことにする。今の時間は朝食を終えた後の自由時間のはずだから、迷惑もかからないはずだ。


「あぁ、陽中さん。おはようございます、早いですね」


 一時保護所の門をくぐると、中で職員と話をしている三戸みつどさんと目が合った。


「おはようございます。ええ、少し早く家を出てしまって……。浮足立ってるのかもしれませんね」

「分かりますよ。なにせ今日から家族が増えるのですから、仕方のない事です。それに、春くんの準備は出来ているので問題ありません。ご案内します」


 三戸さんについて行った先は、面接室と呼ばれる場所だった。中には、座って本を読んでいる春くんと、その様子を少し離れたところから見守る職員の姿があった。僕たち2人が中に入ると、職員の方がこちらに向かってくる。


「特に異常はありません。春くんはいつも通りですね」

「分かりました。では、予定通りにいきましょう」


 三戸さんがそう言うと、職員の方は軽く会釈をして部屋を出て行った。


「今の会話は……?」

「春くんの状態を確認したんです。今まで、今日のように見送ってきた子供がたくさんいますが、中には当日になって嫌だと暴れたり、極度の緊張状態に陥ったりする子がいるんです。そういう子の場合は日を改めたり、最悪の場合、白紙に戻ったりするのですが、春くんの場合は良くも悪くもいつも通りですので、予定通りお迎えしていただくことになります」

「そうですか。それならよかったです」


 虐待を受けて育った子の精神状態は、それほど不安定だということなんだろう。春くんはいつも通りということは、比較的安定していると言えそうなので安心した。


「おはようございます、春くん。約束通り、陽中さんが迎えに来てくれたよ」


 三戸さんがそう声をかけると、春くんは本を閉じて立ち上がり、小さな声で「よろしくおねがいします」とこちらに向かって頭を下げる。その顔には表情がなく、瞳は暗く沈んでいて、確かに良くも悪くもいつも通りという感じだった。


「よろしくね、春くん。これから僕と一緒に新しいお家に帰ることになるけど、準備はいいかな?」


 春くんは、こくん、とわずかに頷いた。


「では、春くんをお願いします、陽中さん。何か困ったことがあったらいつでもご連絡ください。後日、家庭訪問に伺いますので、その時はよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします。……春くん」


 三戸さんに頭を下げてから、春くんに微笑みかけると、黙ったままだったが僕の隣に来てくれた。

 そっと手を繋いでみようかと思ったが、びっくりさせてしまうかもしれないから、やっぱりやめておいた。これから毎日一緒に過ごすことになるのだから、急に距離を縮めようとする必要はない。家族として過ごすことで、ゆっくりと仲を深めていけばいい。

 僕は、これから始まる新しい生活の期待と不安、責任……去来する様々な想いを胸に、一時保護所を後にした。

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