第40話 虐待とは
青々とした木々に囲まれる山道を、車で走ること2時間ほど。目的地の児童相談所がある町に入ったことを、道路脇の看板が知らせてくれた。
『ようこそ。さくらのまち、白桜町へ』と、きれいな桜のイラストと共にそう書かれている。
この町には、数年前に1度だけ訪れたことがある。夏乃と春くんの両親である、義兄さんと冬花さんの葬式の時だ。その時は景色など見る余裕はなかったが、こうして久しぶりに訪れた町を眺めていると、なるほど、さくらのまちという名前も伊達じゃないなと思った。
まだ3月になったばかりで桜は咲いていないが、至るところに桜と思しき木が見られる。きっともうすぐ、町は桜の色に包まれることだろう。
児童相談所への道中に、同じく白桜町にある吉部さん宅に向かおうとも考えたが、昨日の電話での様子だと取り合ってもらえない可能性が高いので、やめておいた。
吉部さんとは深い付き合いがあったわけではないが、あのように声を荒らげるような人ではなかったはずだ。ましてや虐待を行っているなんて以ての外だ。だからあの時、僕は春くんを引き取ってもらうことに納得したんだ。
きっと2人に任せた方が春くんは幸せに生きていくことが出来る。……そう思っていたのに、僕は残虐な素顔を覆う仮面に騙されていた。
そんなことを考えながら、さらに車を走らせること数十分。やがて目的地に辿り着いた。事前に連絡していた時間より少し早かったが、職員の方は快く通してくれた。
案内されたのは、相談室と呼ばれる一室で、さまざまな相談や、僕のような来客のための部屋みたいだ。
「担当の者をお呼びしますので、おかけになってお待ちください」
職員の方は、そう言ったあと、柔らかな笑みを浮かべて退室した。
2人掛けのソファチェアが対面で置かれていたので、片側に腰を掛けて待っていると、まもなく1人の男性が入室してくる。穏やかな雰囲気をまとっていて、優しそうな人だという第一印象を受けた。
「遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。急な申し出にも関わらず対応していただきありがとうございます」
軽く、自己紹介の挨拶を交わす。この方、三戸さんは、この児童相談所の所長らしく、そんな上の立場の方が対応してくれることに少し驚いた。
今朝、アポを取った時に電話に出た職員が三戸さんに伝えてくれたのだろう。僕が何者なのか、どうしてここに来たのか、すでに把握してくれているようで、スムーズに話が進みそうだ。
「早速、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい。ですがその前にお伝えしたいことがあります」
「なんでしょうか」
「今からお話しすることは、春くんのプライバシーに大きく関わります。通常、親族の方とはいえこのように早期の段階でお話しすることはありません。ですが私の判断で今日の機会を設けさせていただきました。私は、あなたに大きな期待を寄せているのです」
「期待……ですか?」
「ああ、いえ。これはお話が終わった後に伝えるべきことでした」
三戸さんは、失礼しましたと軽く咳払いを挟み、続ける。
「これからお話しすることはすべて、春くんを預かっていた吉部さんご夫婦から聞き出した紛れもない事実です。春くんが虐待を受けていたことはすでにご存じかと思います。多くの信じがたい事実をお話しすることになると思いますが、どうか真剣にお聞きいただくよう願います」
それまでの柔らかな声と表情が、打って変わって、緊張をはらんだものに変化するのを見て、身が引き締まるようだった。
「はい、もちろんです」
居住まいを正し、誠意が伝わるように心がけ返事をすると、三戸さんが話を始めた。
「始まりは、数週間前に当所に入った通報でした。幼い女の子からの通報だったと聞いています。友達が家でひどいことをされているかもしれない、という主旨でした」
幼い女の子……。友達……。春くんのクラスメイトの子だろうか。
「その女の子が、涙交じりのたどたどしい口調で住所を教えてくれたので、虐待を疑った私たちは安全確認のため、すぐに訪問に向かいました。ですが吉部さんは私たちの立ち入りを拒否しました。通報があれば、可能な限り早く子供の状態を確認する義務があるのですが、強行することはできません」
「では、その日は春くんの安全確認をできなかったということですか?」
「はい。ですが当然、そこで諦めたわけではありません。春くんが通う小学校や近隣での聞き取りなど、調査を重ね虐待の疑いを強めてから、裁判所へ強制立ち入りの許可を出すように申請しました。そして、後日再び、吉部さん宅を訪れたのです。その時も立ち入りを拒否されましたが、今度は法律に則って、強制的に踏み入りました」
「その時の、春くんの状態は……?」
息を呑んで続きをうながすと、三戸さんは心なしか物憂げな表情を浮かべ、話の再開する。
「春くんは、物置きのような小さな部屋にいました。私もその場に居合わせていたのですが、春くんをひと目みた瞬間、虐待を受けていると確信しました。痩せた体、汚れた衣服にボサボサの髪。あざや火傷と思われる跡。なにより、春くんの顔に“表情”がなかったこと……」
表情が……ない? それは、どういう……。
「その感情の宿らない瞳には、何も映っていないようでした。私は、すぐにでも春くんを保護しなければならないと、強く思いました。……幸い、春くんの保護はスムーズにいきました。立ち入ることはあれほど拒否したのに、2人は保護に対して抵抗を示さなかったのです。連れて行きたかったら、連れていけばいいとすら言いました。私たちは、春くんの安全を確保した後、2人に問いました。春くんに今まで、何をしてきたのかを……。この先は……正直、お話しするべきか迷っています。でも、あなたには知っておいていただきたい事実です。……お聞きいただけますか?」
三戸さんは、再び僕に問いかける。春くんの親族として、凄惨な虐待の事実を知る覚悟が、あなたにあるのか。そう問われているようにも感じた。
「はい、お願いします」
僕がそう返事をすると、三戸さんは静かに語り始める。その顔は、怒りを必死に抑えているように見えた。
「春くんのご両親が亡くなった後、吉部さんのお宅に引き取られたのはご存じだと思います」
三戸さんの言う通り、義兄さんと冬香さんが交通事故で亡くなった後、残された夏乃と春くんはそれぞれ、僕と吉部さん夫婦に引き取られた。
「その時から、現在に至るまで、虐待を受け続けたようです」
その時から……? ということは、もう4年も虐待を受け続けていたことになってしまう。
あまりにも長すぎる……。なぜもっと早く気付かなかったのか。
小学校はなにを見てきたのか? 近所の人たちは気付かなかったのか?夏乃と頑なに会わせようとしなかった時点で、僕も気付けたのではないか?
……いや、そもそもあの時の僕に、2人を同時に引き取れるほどの経済力があれば、こんなことにはならなかったのではないか?
……そんな、どれも今更な、どうにもできない後悔ばかりが募っていく。
「はじめはネグレクトや言葉による虐待でしたが、徐々にエスカレートしていきました。殴る叩くは、日常茶飯事。手をガスコンロの火にかけたり、風呂に頭を沈めたり……など。口にするのもおぞましいほどの行為も多々あったようです」
……信じられない、あまりにもひどすぎる。4年ものあいだ春くんは、それらに耐え続けてきたというのか……。それはどれほどの苦痛だったのだろうか、僕には想像すらできないことだ。
「長いあいだ日常的に虐待を受けてきたことによる、身体的・精神的影響は計り知れません。特に精神的影響は、今後の人生を左右しかねないものです。先ほど“表情がない”と言いましたが、これは誇張でもなんでもありません。春くんは今、完全に心を鎖してしまっています。手遅れになる前に“治療”が必要なんです」
「治療……」
手術をしたり、入院したりするのだろうか……。
「ひと口に治療と言っても、心理的な治療が必要だと考えています。春くんの場合、体にあざや火傷の跡などありますが、手術や入院を必要とするほどではありません。もちろん口が裂けても軽微なものとは言えませんが……。それよりも、虐待によって傷ついた心のケアが重要です。これは決して先延ばしにしてはいけないことです。時間の経過とともに、心に負った傷は、奥深くへと沈み込んで隠れてしまいます。それは見えなくなっただけで、癒えたわけでは決してありません。そして傷は、ひょんなことから再び表に姿を現し、その時には2度と修復不可能なほど広がってしまっているもので、そうなってしまう前に治療が必要なんです。心に負った傷というのは、身体に負った傷よりもはるかに厄介なものなのです」
三戸さんは、今まで何人もの被虐待児を見てきた経験からそのように言っているのだろう。僕にはそのような専門知識はないが、三戸さんの言うことは正しいと理解できる。
しかし……。
「春くんは幼少期に両親を失って、一番悲しくてつらくて、心のケアが必要な時に虐待を受けた……。春くんが受けた心の傷は想像を絶するほどだと思います。そんな深い傷に施せる治療なんてあるのですか?」
「できることをやるしかありません。虐待の傷を癒やすための確立された治療法など、残念ながら存在しません。虐待とその後の影響には個人差があります。今あるその子のあり様を丁寧に見極め、その子が生きてきた歴史に即して、その子に合った治療を見つけなければならないのです。一筋縄ではいかないでしょう。……私たちは春くんを保護してからの数日間、様々な手を尽くしましたが、治療と呼べるほどの成果は得られていません。もちろんたった数日で事が解決するとは考えていませんでしたが、解決の糸口すら見つけられなかったのは想定外で、少なからずショックでした」
被虐待児のケアに関して、百戦錬磨である三戸さんにここまで言わせてしまうほど、今の春くんの状況は深刻なようだ。
「春くんに優しく話しかけても、一緒に遊ぼうと誘ってみても、ただ無表情で立ち尽くし、目をそらすだけ。普通はおびえた素振りを見せたり、反抗的な態度をとったり、ネガティブであっても何かしらの反応を見せてくれるのですが、春くんにはそれがありません。良くない言い方かもしれませんが、心のない人形のようでした」
僕は義兄さんと冬香さんが生きていた頃、春くんと会ったことがある。その時の春くんは、表情豊かで元気いっぱい、周囲に笑顔を振りまくような子だったのをよく覚えている。
そんな子が、人形のようだと……。
「どうすれば……。これからどのようにすれば、春くんは元気を……笑顔を、取り戻してくれるのでしょうか……」
春くんの現状を咀嚼し、考えを巡らせても、僕には皆目見当もつかない。
半ばひとり言のように零れた嘆きに三戸さんは、
「春くんの回復に一番必要なこと……。それは、陽中さん。あなたに、春くんの里親になってもらうことだと思います」
真っ直ぐに僕を見据え、そう告げた。
「……私が、ですか?」
「はい。先ほど大きな期待を寄せていると言いましたが、まさにこのことなのです。今朝あったあなたからの電話は、暗中模索の状態にあった春くんのケアに、一筋の光をもたらしてくれました。あなたが春くんの親族で、春くんの妹の里親だと聞いた時、すぐにでもこのお話をしたいと思いました。私達の考えでは、春くんは施設のような場所で心のケアを行えるような状態にありません。今の春くんには、その凍り付いてしまった心を解かす“あたたかい家庭”が必要だと思うのです。春くんは幼少期を、今は亡きご両親と幸せに過ごしたと聞いています。つまり“あたたかい家庭”を知らないわけではなく、今はただ、忘れてしまっているだけ……。“あたたかい家庭”という環境は、春くんが元気を取り戻すために、大きな役割を果たすはずです」
――――”あたたかい家庭”。
春くんの傷ついた心を癒すためには、それが最も重要なことだと、三戸さんは言う。そしてそれができるのは、ここでも、養護施設でも、他の里親家庭でもなく、陽中さんの家庭だと……。
三戸さんがそう言ってくれるのはすごくありがたいことだ。僕としても、春くんの里親になることを考えてないわけではなかった。吉部さんの家庭に戻すくらいなら、春くんが大人になるまで里親でいたいとすら考えている。
夏乃という実の妹と共に過ごすことができるから、これ以上の適した環境はないと言えるが……。
「私で本当にいいのでしょうか……? 確かに、私には夏乃を……春くんの妹を里親として育てた経験はありますが、それとはわけが違う……。私には、虐待を受けた子供を……心に大きな傷を負ってしまった子供を、しっかりと育てていく能力は、きっとありません。春くんの里親になりたいという気持ちはもちろんありますが、自信がないのです。私が里親になることは果たして、春くんにとって本当に幸せなのかと、どうしても考えてしまいます」
思わず、弱々しい口調になって僕がそう言うと、三戸さんは、真剣な眼差しを柔らかく変化させ微笑んだ。
「あなたの考えている通り、虐待を受けていない子供と比べると、虐待を受けた子供を育てることは、はるかに大変です。そこに疑念を挟む余地はありません。ですが、あなたならきっと大丈夫だと思っています。こうしてお会いしてお話することで、その気持ちはより強まりました」
「なぜ、そう思われるのですか?」
三戸さんは今日会ったばかりの僕に、何を見出してくれたのだろうか。
「あなたをひと目見た時、温かい心を持っている方なんだと思いました。優しい目をしていて、周囲を安心させるような不思議な雰囲気を感じました。主観的で曖昧ではありますが、これが理由のひとつです。もうひとつは、あなたが春くんの幸せを最優先に考えてくれていると感じたからです。これは虐待のケアにおいて、知識や経験よりも大事なことです。あなたのその尊い気持ちがあれば、大丈夫。自信を持ってください。もちろん、春くんを引き取った後も私たちはできる限りサポートするつもりです」
三戸さんはそう言って、柔和な微笑みを僕に向けた。それらの言葉はとても心強かったが、本当に僕でいいのだろうかという気持ちは、正直なところ、完全には拭えていない。
でもそれ以上に、三戸さんの言葉に背中を押され、春くんを引き取りたいという気持ちが大きくなった。
春くんを育てていく上で、何か大きな失敗をしてしまうことがあるかもしれない。それでも僕は、僕が里親になることが春くんの幸せに繋がるのだと言うのなら、精一杯頑張りたいと、そう思えた。
「私はあなたの言葉に、勇気をもらいました。春くんの里親になりたいという思いが、強くなっています。私と夏乃が、春くんを優しく迎えて、3人で一緒に“あたたかい家庭”を築いていければと、そう思います」
「……ありがとうございます。あなたなら、そう言っていただけると思いました」
三戸さんは安心したように、ほうっと息をつき、
「陽中さんの意志を確認したところで、次は、春くんの気持ちを確かめなければなりません。それが春くんのためだからと、大人たちが勝手に決めてしまうのはエゴでしかありません。最も大切なのは、春くん自身の気持ちです。あなたについていきたいという意志を、春くんが示さなければ里親になることはできません」
三戸さんは、きりっとした、引き締まった表情に切り替えて言う。
そして、あなたの決意と優しい気持ちを無碍にすることになってしまいますが……。と申し訳なさそうに付け加えた。
「はい。春くんの気持ちを一番に考えることは、当然だと思います。春くんの意志とは無関係に、無理矢理引き取ろうとは考えていません。……春くんの気持ちを確かめる、とは直接会ってということですか?」
「ええ。里親になっていただくかどうかは、何度かの交流を経て、決めることになります。春くんは他の子より口数が極端に少なく、心を開かないので時間を要するかもしれませんが……」
それは想定内だ。話を聞く限り、まともに口もきいてもらえないことすら考慮しておかねばならない。辛抱強く接して、春くんの信頼を得たいと思う。
「今から春くんに会うことは可能ですか? できるだけ早く会って、話をしてみたいです」
「ありがたい申し出ですが、すぐには出来ません。というのも春くんは今、ここではなく少し離れた一時保護所という場所にいるからです。一時保護所の住所は非公開になっていて、子供の安全確保の観点から、安易にその場所を知られてはいけないことになっています。保護された子供を取り返そうと乗り込んでくる方も中にはいて、そのような危険から子供を守るためです。そのお気持ちは大変うれしく思いますが、そういった事情から、一時保護所へご案内するには煩雑な手続きが必要になるので、残念ながら今から春くんに会うことは出来ません」
最後に三戸さんは、あなたを信頼していないわけではありませんのでご理解いただければ、と少し頭を下げて言った。
「はい、分かりました。ではいつ頃、春くんと会えるようになりますか?」
「数日中に手続きを済ませます。準備が整いましたらこちらから連絡を差し上げます」
「よろしくお願いします」
夏乃が保育園に行っている間なら、いくらでも時間はある。連絡が入ったらできる限り早く、春くんに会いに行こう。
その後は春くんのことや、これからのことについて話をした。
そして、そろそろここを出ないと夏乃のお迎えの時間に間に合わなくなってしまう、というところで話を切り上げ、児童相談所を後にすることにした。




