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第39話 再会を願って

「おとーさん!」


 こちらに向かって脇目も振らずに一直線に走ってくる夏乃を、受け止めようとしゃがみこむ。そのままの勢いで胸に飛び込んできて頬ずりをしてくる夏乃の頭を優しく撫でた。


「えへへー!」


 すると、夏乃はガバッと顔を上げ、こちらを向いた。その顔は嬉しそうな笑みに満ちていて、そんな夏乃をひと目見るだけで、今日一日の疲れが一瞬で吹き飛ぶようだった。


「今日も楽しかったかい?」

「うん! あのねあのね、まいちゃんとつみきしたり~、かなちゃんとお絵かきしたよ! あとね、あとね~……」

「うん、いっぱい楽しかったんだね」


 このままだと話が止まらないので、一度遮って、立ち上がる。帰り道に、思う存分話してもらおう。


「先生、今日もありがとうございました」


 夏乃を連れてきてくれた保育士の方に頭を下げる。夏乃も僕に倣って、地面に頭をぶつけるんじゃないかと心配になるくらい、深く勢いよく頭を下げ、


「せんせー! さよーなら!」


 元気いっぱいに挨拶をした。保育士の方が手を振りながら挨拶を返してくれたので、夏乃と一緒に手を振って、幼稚園をあとにする。


 家への道すがら、夏乃は先ほどの続きである幼稚園の出来事を、得意げに、楽しそうに話してくれた。その話から、夏乃が幼稚園をどれだけ楽しんでいるかありありと伝わってきて、嬉しく思う反面、心配でもあった。

 もうすぐ卒園を控えていて、その時が来たら、仲のいい友達のほとんどとは離れ離れになってしまうからだ。卒園したくない、とか。小学校に行きたくない、とか言わないだろうか。小学生になって、新しい友達は出来るだろうか……などと、気にしだしたら心配事はいくらでも出てくる。


 ……でも反面、夏乃なら大丈夫だという自信もあった。人見知りで引っ込み思案なところがある夏乃だが、ひとたび気を許したなら、人なつっこく懐の中に入ることができるので、きっと新しい環境でも今みたいに、うまくやっていけると思う。


 登園と同様に、降園も寄り道をするのが常だ。今日は夏乃がブランコをしたいと言ったので、公園に寄り道をしてから帰途に着いた。

 帰宅したのは、西の空が鮮やかなオレンジ色に染まり始めた頃だった。公園で遊びすぎたようで、急いで夕食の準備をしなければならなかった。


 夏乃に録画しておいた女児向けのアニメを見せ、夢中になっている間に夕食をこしらえる。今日のメインは、リクエストの通り、夏乃の大好きなハンバーグだ。別段、特別でもない至って普通のハンバーグを、夏乃はいたく気に入ってくれていた。ハンバーグを頬張って幸せそうに「おいしい!」と言ってくれる姿を想像すると、腕が鳴るというものだ。


 料理の一番のコツは、食べてくれる人のおいしい笑顔を想像することだと思う。それは、夏乃と2人で暮らすようになってから、料理をほぼ毎日続けてきた僕が見つけた答えだった。どんなに腕があっても、どんなに完璧なレシピでも、それがないと、本当においしい料理は作れない。



 2人一緒の夕食と風呂を済ませた後おもちゃで遊んでいると、夏乃がうつらうつらとし始めたので、そろそろ寝かせることにする。時刻は20時を少し過ぎた頃で、いつもより少しだけ早い時間だった。

 ベッドに入った夏乃は、「おやすみ」と小さく囁いた後、ほどなくして寝息をたて始める。穏やかな寝顔を見てやはり天使のようだと、陳腐な表現かもしれないが、思わずにはいられなかった。


「おやすみ、夏乃」


 起こしてしまわないように、優しく頭をひと撫でしてそう囁く。照明を常夜灯に切り替えて、夏乃の部屋を後にした。


 夏乃が眠った後は大抵、仕事をするのだが、今日はその前にやることがあった。

 まもなく夏乃は小学生になるから、いい加減に済ませておかなければならないことがある。




 夏乃と……夏乃の兄である春くんを再会させること――――。




 これまでにも、何度も何度もその機会を設けようとしたが、先方の都合でそれが叶うことはなかった。そもそも、兄妹が離れて暮らすことが間違っているのに、会うことすらできていないなんて、大問題だ。


 春くんは今、2人の亡き母である冬花さんの兄夫婦――吉部よしべさん夫婦と3人で暮らしている。

 義兄にいさんと冬花さんが交通事故で亡くなって、残された夏乃と春くんをそれぞれ、僕と吉部さん夫婦が引き取ることになった。2人が違う家庭に引き取られることになってしまったのは、僕の力不足が原因だった。2人のことを煙たがっている様子の親戚連中を見かねて、こんな人たちには任せられないと考えた当時の僕は、2人を引き取りたいと申し出た。しかし、妻を失って1人だったうえ、売れない小説家だった当時の僕には、2人の子供を育てられるはずがないと反対にあった。


 お金がないと子供は育てられない。国からの助成金なんて雀の涙で、1人育てるのも厳しいのに2人なんて無茶だ、必ず不幸になる。そんな風に言われ全くの図星だった僕は、言い返すことが出来なかった。現に夏乃1人を育てるのにも相当な苦労をしたので、その言葉はある程度正しかったのだろう。


 結局、2人を引き取ることができる程の余裕のある家庭はなく、家庭裁判所にも兄妹分離が認められ、別々に引き取ることが決まってしまう。夏乃を僕が、春くんを吉部さん夫婦が引き取ることになった。吉部さん夫婦は親戚の中で唯一、子供を引き取ることに難色を示さなかったので、僕もしぶしぶだったが2人を引き離すことに納得したのだった。



 ……でも、それ以来一度も2人が会うことができていないのは想定外だった。会わない時間が長ければ長いほど、兄妹の溝は深くなっていく。夏乃が小学生になるまで……それが限度だと常々考えていた。

 吉部さんには会うことを何度も断られていたが、それも今日でおしまいだ。なにがなんでも夏乃と春くんを会わせることを約束させなければならない。


 僕は、吉部さんの自宅の電話番号をプッシュする。


「もしもし、吉部です」


 数コールの後、低く太い声が受話器から流れてくる。電話に出たのは、伯父のほうだった。


「もしもし、陽中です。夜分にすみません」

「ああ、また君か」


 少しだけ面倒そうな口調で、そんな言葉が返ってくる。僕が吉部さんの家に電話をかける用事なんて、夏乃と春くんのことくらいしかなかったので、あちらもこれから話すことを理解したのだろう。ならば話は早いと、僕は早速、本題に入ることにする。


「用件はいつものことです。夏乃を、春くんにどうしても会わせてあげたいんです。こちらはいつでも構いません。春くんと夏乃が再会するための機会を作っていただけませんか?」

「……忙しくて、そんな機会は作れない」


 数秒の沈黙を挟み、聞き飽きた答えが返ってくる。断られるのは想定内だ。だが、今回はこんなところで引き下がるわけにはいかない。


「こちらが吉部さんのお宅にお邪魔します。それでも時間がとれませんか?」


 吉部さんの家は町外にあり、車でも数時間はかかる。これは、なかなか再会できなかった理由のひとつに間違いない。でもこれで、遠距離を理由に断ることはできないはずだ。


「……できない。最近は用事が立て込んでいて忙しいんだ」


 やはりというべきか、色よい答えは返ってこない。


「少しだけでもいいんです。ほんの少しの時間でも。……それでもダメですか?」


 いくら忙しいとはいえ、少しも時間が取れないなんてことはないはずだ。


「……無理なものは無理だ」


 ……なぜ、頑なに、頭ごなしに断り続けるのだろうか。吉部さんに対する不信感が募っていく。


「用事とはなんですか? その用事は、ほんの少しの時間も取れないのですか? そもそも、兄妹の再会よりも優先される用事なんてあるんですか?」


 つい、語気が強めてしまいながら、なおも食い下がる。しかし、吉部さんの返事はない。


「このまま離れ離れでお互いを知らないのは、2人のためになりません。それは、理解していただけていますか?」

「……」

「僕には、2人を会わせられない理由が他にあるように感じます」


 吉部さんは沈黙を貫いている。

 もう、何を言っても無駄だと感じ受話器を置こうとした瞬間、


「――春は、もう家にはいないんだ」


 聞こえてきた言葉に耳を疑った。もういないと、そう言ったのか?

 それは一体……。


「どういうことですか?」

「言葉の通りだ。だから、会わせることはできない。……もういいか、こっちは疲れているんだ」

「いいわけないでしょう。きちんと説明してください。何があったんですか?」

「君もしつこいなぁ」


 吉部さんはため息をついてから続ける。


「ついこの間、児童相談所とやらに引き取られたんだ。だからいない」

「……詳しく経緯を説明してください。どうして春くんが、児童相談所に引き取られたのですか?」


 背筋に悪寒が走る。児童相談所に引き取られるなんて、理由はひとつしかない。頭では分かっていたが、そう尋ねずにはいられなかった。


「……はあ。そんなこと、こっちが聞きたいくらいだよ。ただのしつけなのに、虐待だのなんだの言いがかりを付けられて、無理矢理連れて行かれたんだ」


 吉部さんは、半ば投げやりに、そう口にした。予想通りだった。春くんは今、児童相談所で一時的に保護されている。

 ……虐待から、逃れるために。

 ただのしつけ、と吉部さんは言ったが、強制的に保護されるほどだ。ひどい虐待が行われたと想像できる。


 吉部さんが今まで、春くんに何をしてきたのか、確かめなければならない。


「しつけ、とおっしゃいましたが、具体的にどんなことをしたのですか?」


 なるべく刺激しないように、言葉を選んだつもりだったが、吉部さんの態度は一変して、声をあららげた。


「君もそれか! あそこの職員にも同じことを聞かれたよ! もうウンザリだ!」


 あまりの急変ぶりに虚を突かれてしまい、言葉を返せないでいると、


「……春を引き取った児童相談所の電話番号と、住所を教える。話はそこで聞いてくれ。さっきも言ったが疲れているんだ」


 恥じ入るような声音でそう言った吉部さんは、続けて電話番号と住所を口にした。忘れないてしまわないように、近くに置いてあるメモ用紙にしっかりと書き留めておく。

 追及したいことはたくさんあったが、これ以上神経を逆撫でしてしまうのは避けたかったので、挨拶をしそっと受話器を置いた。


 早鐘を打つ心臓を落ち着かせて、先ほどの会話の整理を試みる。


 ……春くんは吉部さんの家にはおらず、児童相談所に保護されている。それは十中八九、しつけという名の虐待行為が原因だろう。虐待が行われていたなんて信じ難いことだが、保護されているということは、強制的に引き離さなければ危険だという判断が下されたということで、その事実を如実に物語っている。


 どうやら、夏乃と再会どころではなくなってしまったようで、まずは事の真相を確かめることと、春くんの状態を知ることが先決みたいだ。明日、夏乃を保育園に送った後、くだんの児童相談所へ話を聞きに行こう。


 夜は、睡魔が訪れるまで小説の執筆をするのが常だったが、今日はとても書けそうにない。

 春くんのことが頭をグルグルと巡り、結局、眠りにつくまでなにも手につかないのだった。

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