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第38話 シングルファザーの忙しい一日

 カーテンを開けると、柔らかな朝の光が、薄暗かった部屋を照らし始めた。ベッドの上で布団にくるまった小さな体が、その眩しさからか、可愛らしいうめき声を上げながらうごめいている。


 ――夏乃。僕の大事な大事な1人娘だ。血の繋がりはないがこの子が、僕、陽中大樹の大切な娘であることには変わりない。


 夏乃は今から4年前……2歳だった頃に、両親を交通事故で失った。身寄りのなくなってしまった彼女を、親戚である僕が“里親”として引き取ることになり、今日に至る。


「夏乃。そろそろ起きないと、幼稚園に遅れるよ」

「うぅ……ん。まだねむたいよぉ」


 布団越しに体を揺すって起こそうとしても、眠たげなくぐもった声が返ってくるだけだった。

 あとひと月足らずで卒園で、もうすぐ小学生のお姉さんになるというのに、未だにひとりで起きることが出来ないのは、僕が甘やかしすぎたからかもしれない。


 甘やかしすぎ……そんな風に思うことは今までに何度もあったが、一度たりとも厳しく接することは出来ていなかった。これは、娘を持つ父親の全世界共通の悩みだと思う。可愛い可愛い娘を叱ることが出来ないのは仕方のないことなんだ。

 一般的な家庭ではそれでもいいのかもしれない。代わりに母親が叱ればいいのだから。でも、この子には母親がいない。僕は結婚していたが、夏乃を引き取る前に妻を亡くしている。叱る人がいない……ひいては母親がいないことが、この子の成長にどんな影響が与えるか考えない日はなかった。


 約4年もの間、シングルファザーとしてこの子を懸命に育ててきたが、もっと厳しくするべきか否か、という悩みからは解放されることはないのだろうか。


「おとーさん。まだねてちゃ、だめ?」


 布団から鼻先より上だけをひょっこりと出して、少しうるんだつぶらな瞳と甘えたような声で、夏乃が言った。


 ……ああ、やっぱり、厳しくなんて出来るはずがない。


 こんなに可愛い娘に厳しくできる父親なんて、世界中探したって見つけられやしないだろう。


「あと5分だけだよ。5分経ったら、ちゃんと起きなさい」

「うん。ありがとぉ、おとーさん。おやすみぃ……」


 夏乃は、すぐに目をつむり、小さな寝息をたて始めた。

 その、天使と見まごうばかりの寝顔を見ながら、また甘やかしてしまったと、少しだけ情けないような気持ちになってしまった。


 …

 ……

 ………


 夏乃が通う幼稚園は、家から7、800メートル離れたところにある。いつも徒歩で登園していて、今日もまた夏乃と手を繋いで、通園路を歩いていた。

 年少・年中の時は、最後まで歩けずにおんぶをねだられることがよくあったが、年長になってからは疲れても自分で歩くと言うようになった。そんな成長を嬉しく思う反面、今朝のようにもっと甘えてもいいのに、と少し寂しく思ったりもする。


「あら、陽中さん。おはようございます」

「藤山さん、おはようございます」


 近所に住む顔見知りの主婦に挨拶を返す。通園中、時々こんな風に近所の方と出くわすことがある。ここら一帯に住んでいる方々とは、顔と名前が一致する程度には付き合いがあった。

 主婦の方々から、子育てのアドバイスを受けたり、世間話に混じったりと、田舎ならではのご近所付き合いは良好と言えた。


「夏乃ちゃんも、おはよう。ちょっと見ない間に大きくなったね」


 藤山さんが夏乃の前にしゃがみこんで、柔らかく微笑んだ。


「うぅ……おとーさん……」


 しかし、夏乃は挨拶を返すことなく、僕の後ろに隠れてしまう。先ほどよりも手を強く握られていて、緊張しているのがよく分かる。どうやら、引っ込み思案で人見知りなところは、年少の時から――これでも多少ましになってはいるが――変わらなかったようだ。


「夏乃。挨拶をしてもらったら、どうするんだっけ?」


 手を繋いだまましゃがんで、目線を合わせながら訊いてみる。すると夏乃は手を離して、藤山さんに向き合った。


「おはようございます……」


 少しの物音でもかき消されそうなほど小さな声だったが、夏乃はなんとか挨拶を返すことができた。


「ちゃんと挨拶できて、夏乃ちゃんはえらいね」


 藤山さんは笑みを崩さないまま、優しく夏乃の頭を撫でる。夏乃は「えへへ」と小さくはにかんで、嬉しそうだ。


「ありがとうございます、藤山さん。では、僕たちはこれで」

「足止めしてしまったみたいですね、では、お気をつけて」


 藤山さんと別れて、さらに歩いていく。ちゃんと挨拶が出来て嬉しかったのか、夏乃は先ほどよりも元気な様子で歩いている。


「あっ! ちょうちょさんだ!」


 ご機嫌な様子の夏乃から、ひときわ大きな声が上がった。立ち止まって、道端に咲いている野花を指差している。


「真っ白なちょうちょさんだね。なんていうちょうちょさんかな?」

「う~ん……わかんない!」

「あの真っ白なちょうちょさんは、モンシロチョウって言うんだよ」

「もんしろちょー……かわいいね!」


 黄色の花弁に止まって吸蜜すいみつをするモンシロチョウを、夏乃は興味津々な様子でじっと眺めている。吸蜜が終わったのか、夏乃が近づきすぎたためか、やがてモンシロチョウは飛び立っていった。


「ばいばーい! もんしろちょーさん!」


 飛んで離れていくモンシロチョウに向かって、小さな手を精一杯振る姿に、心が癒されるのだった。


 それから20分ほどかけて、ようやく幼稚園に辿り着く。本来なら10分程度で着く距離だが、好奇心旺盛な夏乃が先ほどのように寄り道を繰り返すので、いつもこのくらいかかってしまう。当然、そんなことは見越して早めに家を出ているので、遅刻はしていない。

 すっかり顔なじみになった保育士さんに夏乃を預ける。「おとーさん、ばいばーい!」と笑顔で手を振る夏乃に、こちらも笑顔で返す。通いたての頃はお父さんと離れたくないとぐずったものだが……と、ふと思い出してしまい、またしても嬉しいような寂しいような感覚に陥りつつ、幼稚園を後にした。


 帰りは1人なので、寄り道もせず真っ直ぐに自宅へ歩いていく。歩幅も夏乃に合わせる必要がないので、行きと比べて半分くらいの時間で帰宅できた。


 夏乃を幼稚園に送り届けた後も、やらなければならないことは数多くある。シングルファザーの一日は忙しいのだ。今ではある程度慣れてはきているが、夏乃を引き取った頃は、育児に家事に仕事にと、それはもうてんてこまいな毎日であった。


 まずは、洗濯や部屋の掃除といった家事から始めることにする。洗濯は夏乃と僕の2人分だから、量は多くない。1回の洗濯で済むし、干すのにも大した時間はかからないだろう。厄介なのは掃除だった。2LDKの一戸建てを掃除するとなると、なかなか骨が折れる。もちろん毎日している訳ではないが、夏乃の健康のためにも清潔を保つことは重要なので、掃除は定期的に行っていて、今日がその日だった。


 午前中の時間をフルに使って、ようやく家事を終えた。疲れがドッと肩にのしかかってくるが、弱音を吐いてはいられない。次はスーパーに行って食品と日用品の買い出しだ。

 車を走らせること10分で、スーパーに到着する。激安スーパーとして地元では有名で、経済的に厳しかった時期には大いに助けられ、今でも足繁く通っている。

 朝の通園中、夏乃がハンバーグが食べたいと言っていたので、ハンバーグの材料を中心に買い物をすることにした。夏乃にはおいしいものを食べて欲しいので、食材の目利きは怠らない。数年間、主夫をやってきた経験から、おいしい野菜や新鮮な肉の見分け方は頭に入っている。

 夏乃の「おいしい!」という言葉を待ち遠しく思いながら、買い物を進めていった。


 買い物を終え、自宅に戻ってくる。コーヒーを入れてほっと、ひと息。もう昼過ぎだったが、昼食はある時から摂らなくなったので問題はない。

 ある時、というのは夏乃を引き取った頃のことだ。その頃は、仕事である小説があまり売れなくて経済的に厳しかった。節約の一環として昼食を抜き始めたのがきっかけで、当初は我慢をしていたのだが、いつしか昼食を摂らないことが苦ではなくなって、今では逆に、昼食は欲しくないと思うようになっていた。


 この後の家の用事は、夏乃のお迎えを残すのみなので、それまでの空いた時間は小説の執筆に充てることにする。


今でこそ、こうして小説を書くことで安定した収入を得られるようになっているが、そうなるまでは経済的に苦しい毎日を送っていた。先の昼食の件しかり、過度な節約をしなければ夏乃をちゃんと育てていけないくらいに困窮していた。

それでも、小説家をやめて、就職しようとは思わなかった。小さな夏乃を家に1人にするわけにもいかなかったし、亡き妻が好きだと言ってくれた小説を諦めたくないという思いもあった。


 そして、諦めなかった結果の今がある。立派に小説家をやって、子供も男手ひとりで立派に育てていけている今の姿を、愛しい妻に見せることができないのが心残りだが……。


「……ふぅ」


 今日の分の原稿を書き上げ、ひと息ついた。時計を見遣れば、そろそろ幼稚園に向かう時間だった。


 僕は身支度を整え、家を後にした。

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