第32話 笑顔は幸せの魔法
夏休みが終わり、秋が来て、冬が過ぎた。秋には運動会、遠足。家族で紅葉を見に行ったり、キャンプをしたり。冬にはクリスマス会やもちつき大会、雪遊びなど……ただただ平和で平穏で、幸せな日々が過ぎていった。
だが春休みのある日、平和で幸せな日常を壊す、理不尽な不幸が陽中家を蹂躙した。残酷な不幸など生きていれば誰しもが経験するものだ。襲い掛かる不幸の大小は人それぞれだが、人生においてそれは決して避けて通ることはできない。そして、不幸は人を選ばない。それがたとえ小さな小さな子供が相手だったとしても、情けも容赦もなくただただ理不尽に、その牙を向けるのだ――――
…
……
………
「春、はーる。起きて、朝だよ」
午前7時、春の起床の時間。今日は1人で起きられなかったので、冬花が春を起こそうと声をかけた。
「う……うぅんんん……。おはよう、ママ……ふわあぁぁぁっ」
春は眠そうに目をこすりながら、口をいっぱいに広げたあくびをして、起き上がる。
「おはよう、春、大きなあくびだね。ママ、食べられちゃうかと思った」
「う、うぅぅ……たべるー? なぁにー?」
「ううん。朝ごはん出来てるから食べようねって言ったの」
「あさごはん……たべる。……ふあぁぁぁ……」
春はまだ寝ぼけ眼のまま返事をし、両手を高く突き出して大きくのびをする。
「ママはあっちで待ってるから、すぐに来るんだよ」
「はーい」
春はトイレを済ませダイニングに向かった。テーブルには4人分の朝食が並んでおり、それぞれの席に海人、冬花、夏乃が座っていた。
「おはよう、春」
「うん、パパおはよう」
海人へ挨拶を返した春は、そのまま自分の席に着くのかと思いきや、夏乃のそばに寄っていった。
「なつの、お・は・よ・う」
「おぁーよぉ。きゃっきゃっ」
春の挨拶に夏乃は、おぼつかない口調でオウム返しをする。1歳と8か月になる夏乃は、はっきりと口にはできないものの、「パパ」や「ママ」、「にぃにぃ」などの意味のある簡単な言葉を喋れるようになっていた。
夏乃の返事を聞いて満足した春は、自分の席に座り手を合わせる。
「いただきます!」
「あらあら、早速ね。お腹が空いてたのかしら? 私たちもいただきましょうか」
「ああ、そうだね」
冬花と海人も春に続いて食事を開始した。夏乃も食事を始めた3人を見て、スプーンを手に取り食事を開始する。
「ねえ、春。今日はなにするの?」
「うーん……えっとねー、きょうはねー、るりちゃんとあそべないからー……うーん、なにしよっかなー」
今日は特に予定がない春は、冬花の問いに頭を悩ませている。
「なら、春。パパにいいアイデアあるんだけど聞きたいかい?」
「えー!? なあにー? ききたい!」
「今日は、サクラのプロムナードに行ってみようか」
「さくらのぷろーなーどぉ?」
「サクラのプロムナード、だよ」
「なあに、それ?」
サクラのプロムナード。それは白桜町随一の観光スポットだ。約1キロメートルに及ぶ遊歩道の両脇に、所狭しと約150本もの桜の木が並べられている。
そのたくさんの桜の枝が、遊歩道を覆い隠すトンネルを作り、歩く人々を一面淡いピンク色の幻想の世界へと誘う。
それが白桜町サクラのプロムナードだ。
「春の大好きな桜が、いっぱい、いーっぱいあるところだよ」
春の疑問に冬花が答える。冬花もサクラのプロムナードのことは知っており、実は今日、サプライズで春を連れて行こうと海人と予てから話し合っていたのだ。
「さくら!? いっぱい!?」
「そうだよ、いっぱい。河川敷の桜よりもいっぱいだよ」
「そんなに!? ボク、いってみたい!!」
顔中に喜びを漲らせて春が言う。どうやら海人と冬花のサプライズは成功のようだ。
「じゃあ、朝ごはん食べたら早速出かけましょうか」
「うん!」
春は元気に返事をし、期待に胸を膨らませながら食事を再開した。
…
……
………
サクラのプロムナードは陽中家からは10キロメートルほど離れたところにあるため、車で移動することにした。
運転手は海人、後部座席の真ん中に冬花が座り、その両脇にあるチャイルドシートにそれぞれ春と夏乃が座っている。楽しみで仕方がないと、そわそわと落ち着かない春とは対照的に、夏乃はすやすやと眠っている。
「ちゃんとベルト締めた?」
「うん、ばっちり!」
「どれどれ~、うんオッケーだね。……夏乃のも~よし、オッケー。パパ、車だしていいよ」
2人のチャイルドシートのベルトが正しく装着されていることを確認した冬花は海人に合図を送った。
「春と夏乃はいいみたいだけど、ママがシートベルトするの忘れてるよ」
「えっ? ……ほんとだ、忘れてた」
海との指摘に冬花は小さくはにかみながら、シートベルトに手を伸ばす。
「ママ、おくるまにのるときは、しーとべるとをしなきゃいけないんだよー?」
「そうだね、ママ、うっかりしてたよ。……はいっ、これでいいかな?」
「うん、ばっちり!」
「ママの準備もできたみたいだね。ところで、春。今日はどこに行くんだっけ?」
「さくらのぷろむなーど!」
「正解。じゃあサクラのプロムナードに向かって、レッツ~?」
「ゴーー!」
そんな底抜けに明るい春の掛け声を合図に、4人を乗せた車が走り出した。
白桜町はのどかな田舎町だ。車の通りも比較的少なく、スムーズに進んでいき20分ほどで目的地に着く。道中、春が周りの景色に興味を示し、あれなあに? これなあに? と冬花を質問攻めにしていたので、車内は終始賑やかだった。
車から降りた海人と春が手を繋ぎ、夏乃が乗ったベビーカーを冬花が押すかたちで、4人はサクラのプロムナードに向かって歩き出す。
しばらく談笑しながら歩いていくと、前方に桜並木が見えてくる。サクラのプロムナードの入口だ。
「さくらがいっぱいだね!」
前方に満開に咲き誇るたくさんの桜の木を認めた春は、海人の手を一生懸命引っ張り、早く行こうよと急かすように歩いている。
「そんなに急がなくても桜は逃げないよ」
「にげないけど! はやくしないとおはながぜんぶなくなっちゃうかも! だってこんなにたくさん、おはながまってるんだよ?」
桜の木からはまだ数十メートル離れているが、風に乗ってやってきた花びらを指差して春がそう言った。
「大丈夫だよ。そんなにすぐに無くなったりしないから」
「でもでも、あそこも! ほら、あっちにも! ほらほら! なんだかふえてきたよ! ねえ、パパ。おはな、すごくたくさんまってるよ? ほんとになくならないのかなぁ……」
辺りを見渡して、舞い散る桜の花びらを見つける度に、早くしないと全部散って無くなってしまうかのではと不安になる春だ。
「ふふっ、春。着いたよ。前を見てみて」
不安げにあっちへこっちへ視線を彷徨わせていた春は、すぐ目の前に待ち望んだ光景が広がっていることに気付いていなかった。冬花の声に視線を前へと戻しその光景を目にした春は、
「わあぁぁっ~~~!! すっごーーい!!!」
満開の桜にも負けないくらいの満面の笑みでそう言った。
春の眼前には見渡す限りの、淡紅色。どこまでも続いていると錯覚するほど長い桜のトンネル。その中を桜吹雪……とまではいかないまでも、たくさんの桜の花びらが舞い踊っている。
美しくもありどこか儚くもあるそんな光景を、春はしばらくの間ただ立ち尽くし黙って眺めていた。
「どうしたの、春? 桜、綺麗じゃなかった?」
大きく声を上げた後、急に黙り込んだ春を見て冬花が心配そうに声をかけた。
「ううん、そんなことないよ! ボク、かんどーしてたの! こんなにきれいなのみたことなかったから!」
「そうだよね! すごくきれいだよね、ママも感動しちゃった」
「もっとちかくでみてみたい!」
海人の手を放し、春は近くの桜の木へと駆け寄った。自分の背丈よりはるかに大きい桜の木を見上げると、また違った光景が春の目に飛び込んでくる。
そよ風の優しいリズムに合わせて、踊るようにその身を揺らす満開の枝。そこから差し込む、柔らかで温かい春の陽射し。2つのシナジーによって生み出された、桜の木が醸し出す先ほどとは別種の美しさを、春はしっかりと目に焼き付けようと見つめ続けた。
「そんなに近くで見たいなら……こうだっ!」
「わわっ」
すぐに春を追いかけた海人が、桜の木を見上げたままでいる春の股に、頭を入れて立ち上がった。
「たかーーい! あははー!」
突然の肩車に少々驚いた春だったが、すぐに海人の頭の上ではしゃぎだす。
「どうだい? すごく近くなったろう?」
「うん! さわれるくらいちかいよ!」
「春、触ったらダメよ」
枝に手を伸ばそうとした春を、遅れてやってきた冬花が制止する。春は冬花の言葉を聞いてスッと手を引っ込めた。
「どうしてさわったらいけないの?」
「それはね、傷んでしまうからなの。桜はね、ほんの少し傷ついただけで具合が悪くなって、元気がなくなっちゃうことがあるの。元気がなくなっちゃったら、桜も、春も悲しいよね。だから、触っちゃダメなんだよ」
「そうなんだ……。さわってみたかったけどかわいそうだから、ボク、がまんするよ」
冬花に優しく諭された春は、触れないことを残念に思いながらも、素直に頷いた。
「おっ。ちゃんと我慢できるのかー。春はえらいね」
聞き分けのいい春に嬉しくなった海人は、笑顔を浮かべ春を褒めた。
「うん、えらい、えらい。桜は見て楽しむものよ。ちゃんと覚えててね、春」
海人の笑顔につられるように、冬花も微笑み、春を褒める。春もまた褒められて嬉しくなり、少しだけ照れながらも、笑顔になった。
「……くちゅ!」
不意に、眠っていた夏乃がくしゃみをして目を覚ます。舞い散る桜の花びらが、鼻先をくすぐったのだ。可愛らしい夏乃のくしゃみに、3人はさらに頬をほころばせた。
「くちゅ! だって、かわいいね! あははっ!」
「そうだね、はははっ」
「……天使だわ。ふふっ、かわいい」
「ぱぱ、まま、にぃにー。きゃははは!」
3人が一斉に夏乃に笑いかけると、眠そうなとろんとした表情が一気に色づいて、笑顔になった。家族全員が屈託のない笑顔を浮かべる、平和な光景だ。
「花びらが鼻に当たってくすぐったかったみたい。ほら」
冬花は、花びらを手のひらに乗せ、海人と春に見せた。
「きれいな淡いピンク色だね」
冬花の手のひらにそっと佇む花びらを眺めながら、海人がしみじみと呟いた。
「かせんじきのさくらと、おんなじいろだ! きっと、おんなじしゅるいだよ!」
その花びらが河川敷に咲く桜と同じものと気付いた春は、それが世紀の大発見であるかのように、大きな声をあげた。
「春、すごい、その通り。河川敷の桜もここの桜も、おんなじ種類の桜なんだよ。山桜っていうの」
「ここに咲く桜は全部、山桜みたいだね。さっき、案内の看板に書いてあったのを見たよ」
プロムナードの入り口にあった案内看板をチェックしていた海人が、冬花の言葉に付け加えるようにそう言った。
「これも看板に書いてあったことなんだけど、山桜の花言葉は“あなたに微笑む”っていうんだって。素敵だよね、ぴったりな花言葉だ」
「パパー、はなことばってなあに?」
「うーん、難しい質問だなぁ……」
子供に分かりやすく説明するにはどうすればいいか、と海人はしばらく思案したあと口を開く。
「花が持つ、もうひとつのお名前だよ。どんな花にも意味のある、もうひとつのお名前があるんだ。例えばこの山桜に“あなたに微笑む”っていうもうひとつのお名前があるようにね」
「ふーん。じゃあ、ママー、ほほえむってなあに?」
「にっこりと笑うことだよ」
「そうなんだ。なら、やまざくらはパパとママなんだね!」
「……どうしてそう思うんだい?」
春の言葉の意図が掴めず、海人が尋ねる。
「だってね、パパとママはね、いつもボクとなつのをみてわらってくれるから! ねえねえ、どうしてパパとママはそんなにわらうの?」
「……春はどういう時に笑顔になるかな?」
「ボク? えっとねー、たのしいときとかうれしいとき! ……パパはちがうの?」
「違わないよ。パパも楽しい時嬉しい時に笑顔になるよ。でもね、それだけじゃないんだよ」
「そうなの?」
「うん。パパとママが笑うのは、楽しいから嬉しいから……何より、春と夏乃に笑ってほしいから、なんだよ」
海人が優しく微笑みながらそう言うと、冬花があとに続く。
「ねえ、春。笑顔の人を見るとどんな気持ちになる?」
「うれしくなる!」
「そうだね、笑ってる人を見ると、こっちまでうれしくなっちゃって自然と笑顔になるよね。パパとママが笑うと春と夏乃も笑う。逆もそう。笑顔ってそうやって繋がっていくものなんだよ。だから笑うの。誰かが笑うと、みんなが笑う。笑顔を繋げて、笑顔に包まれる……こんなに幸せなこと、ないでしょう?」
「……しあわせ?」
「そう、幸せ。……“笑顔は幸せの魔法”なの」
「なんだかむずかしいね……」
やや観念的な冬花の話に、思案顔の春だ。そんな春に冬花の補足をするように。海人が付け加える。
「笑顔と幸せは、切っても切り離せないものなんだよ。パパとママは春や夏乃に幸せでいて欲しいから、笑ってもらいたいんだ。ちょっと難しい話だったかもしれないけれど、“笑顔を忘れないこと”。これだけ、覚えておいて。笑顔でいれば幸せは、ずっとそばにいてくれるものだから」
「えがおをわすれない……うん、わかった。……でも、かなしいときとかくるしいときも、えがおでいないといけないの?」
「そうじゃないよ。“笑顔を忘れない”っていうのはどんな時も笑顔でいることじゃないんだ。悲しい時、苦しい時……どうしても笑顔ではいられそうにない時。そんな時は笑顔でいる必要はない……泣いたっていいんだ。でも、いつまでも泣いたままなのはいけないよ。“笑顔を忘れないこと”は今がどうしようもなくつらい時でも、いつかはきっと笑顔になれると、信じることでもあるんだ」
「……?」
春は海人の言葉に小さく首を傾げた。幼い春には海人の言葉の半分も伝わっていないだろう。
「……ごめんね、やっぱりちょっと難しかったかな」
「うーん、よくわかんない!……ねぇ、パパ。もうかたぐるま、いいよ。おろしてー」
海人の頭をパンパンと軽く数回たたき、合図を送る。海人がしゃがんで頭を前に倒すのとほぼ同時に地面に着地した。
「ありがと、パパ!」
「どういたしまして。よし、じゃあ歩こうか。サクラのプロムナードはまだまだ続くよ」
「うん! パパ、ママ! いっぱいしゃしんとってね!」
春と海人は再び手を繋いで歩き出す。楽し気に笑いあいながら前を歩く2人に冬花は目を細めながら、カメラを向けた。
「ふふっ」
シャッターを切り、幸せそうに微笑んだあと、冬花もまた2人の後を追うように歩き出した――――――
*
「――――――いたぁっ!?」
突然、頭に鈍痛を感じた。何事かと思い体を起こすと、腹の上から、先ほど瑠璃にもらったクリスマスプレゼントがベッドの上に転がり落ちた。
そういえば、寝転がりながらこの山桜とモンキーフラワーの置物を眺めていたんだった。今もわずかに頭に残る鈍い痛みは、こいつが直撃したせいだ。過去を懐かしんでいたら、ウトウトして手から滑り落ちたのだろう。
「なんか、これがそれ以上は思い出さなくていいって、言ってるみたいだ」
両親が、今は無きサクラのプロムナードに連れて行ってくれた日の、その帰り道……。幼い俺と夏乃は両親を失った。落石が両親の乗る前部座席を襲ったらしい。俺は事故の衝撃で意識を失ったので詳しいことはよく分からない。しかし、運ばれた病院で目を覚まし両親の死を伝え聞いた時のことはよく憶えている。
その後は……いや、この先はわざわざ思い出すこともない。俺は今、十分幸せだ。夏乃がいて、瑠璃がいて、ヒカリがいて、大樹さんがいて……。
今更あの人たちを恨んだりはしない。正直、どうでもいいことだ。
「こいつもそう言ってることだし」
立ち上がり、瑠璃のプレゼントを机の上に戻す。壁の時計に目をやるとそろそろ寝る時間だ。夏乃とヒカリももう寝ていることだろう。起こしてしまわないように寝支度をしよう。
俺はなるべく音をたてないように扉を開け、部屋を後にした。




