第31話 世界で一番大好きよ
「よぉーしっ! ぜったいおさかなみつけるぞー! おー!」
「おー!」
休憩を終え立ち上がった春と瑠璃は、今度こそ魚を見つけるんだと、拳を突き上げ掛け声をあげた。
「じゃ、いこ! るりちゃん」
瑠璃の手を取り、春は川の方へ駆け出す。
「あんまりはしゃぎすぎないようにね。ケガしたらダメだよ、気を付けてね」
テンションが上がった春は周りが見えなくなることがあるので、冬花がそう釘をさした。
「だいじょうぶだよー! ママもはやくいこ!」
「はいはい、すぐに行くからね」
冬花は少し呆れ交じりに微笑みながら、先を行く春と瑠璃を追いかける。サラも、冬花の後を追った。
川の中に入り、石と石の間を覗き込んだり、石をめくってみたりするが小さな虫やカニ、貝などしか見つからない。やはり魚は見つからず、新しい発見もないまま時間だけが過ぎていく。
「やっぱりみつからないね……」
「おさかな、いないのかな……」
帰宅時刻間近になっても見つからず、2人はしょんぼりと肩を落とす。今日はもうおしまいと諦めかけた時、1匹の魚が春の視線を横切った。
「いた! おさかな!」
「ほんと!? どこどこ!? みたい!」
「むこうにいった! つかまえてくる! るりちゃんはここでまっててね」
春は見つけた魚を追いかけるため、陸から離れるように川の中の方へ進もうとするが、
「春! そっちはダメ。危ないよ」
「だいじょうぶだよ、ママ。あそこにはいかないから!」
春は流れが速く白波が立つ場所を指差して、冬花の制止を振り切り進む。
「春。ダメって言ってるでしょ? ママから離れたら危ないよ。戻ってきて……ああ、もう、しょうがないんだから」
魚を追うのに夢中で、冬花の声が耳に届いていない春は、どんどん進んでいく。冬花は、あとで春を叱らないといけないなぁ、と少しブルーな気持ちになりつつ追いかける。
流れが速いところへはまだ十分に距離があったため、春に危険が及ぶ前に連れ戻すことが出来る……そのはずだった。
「……えっ? あっ!」
踏み出した先にあるはずの地面が、そこにはなかった。春が足を踏み入れたのは淵と呼ばれる場所だった。
淵とは流れは緩やかだが水深がある、危険な場所だ。水面が凪いで穏やかなため、そこが深くなっているとは一見して分かりにくい。春はそんな淵に足を踏み入れバランスを崩し、飲み込まれてしまったのだ。
「春っ!」
春がバランスを崩し、淵に落ちるよりも早く冬花が飛び出していた。
「あっ、あぶっ、ママ!」
「春! 捕まって!」
春は幸いなことに流されたり、沈んだりすることなくその場でもがいていたので、冬花が手を伸ばすことですぐに救出することができた。
「春! 大丈夫!? 水、飲んでない!? どこもおかしくない!?」
春を川から救い上げ、その場に立たせると冬花が血相を変えながら問いかける。
「うん、なんともないよ! ちょっとこわかったけどね、てへ」
ひどく動揺する冬花に反し、春は平然と答えた。素早い救出のおかげで、春の体にはなんの異常もないようだ。
「そう……よかった……」
冬花は春が元気なことを確認すると緊張の糸が切れ、大きく安堵した。そして春の手を掴み「こっちへ来なさい」と陸のほうへ歩いていく。川から出るまでの間、冬花は無言で春の手を引いていた。春もまたそんな冬花の無言の圧力におされ黙ったままだった。
そして川から上がり手を離した冬花は振り返り、春と向き合ってから沈黙を破る。
「春! どうしてママの言うことを聞かなかったの! もう少しで溺れるところだったのよ!」
それは、冬花が今までに出したことのないほどの大きな声だった。春を叱ることはこれまでに何度もあったが、ここまで厳しく叱ったのは初めてのことだ。
「ぇ……ママ……う、うぅ、うわああぁぁぁん!」
初めて聞く冬花の大きな声に驚くと同時に、自分がしたことがどれほど危ないことだったのか、冬花がどれほど心配したのか理解した春。様々な感情が春の心の中を暴れまわり、ついには大声で泣き出してしまった。そんな春を見て冬花は、目に涙を湛えながらなおも続ける。
「ママ、川は危ないから勝手なことをしたらダメだって、言うことは聞きなさいって、言ったよね? どうしてママの言うことが聞けなかったの?」
「うぅ……ひっく……。るり、ちゃんに……おさかな、みせて、あげたかったの……よろこん、で、ほしかったの……。それで……ひっく……ううぅ……おさかな、おいかけ、ちゃったの……」
春は嗚咽交じりに、大粒の涙を流しながら答える。
「そう……。春のその気持ちは素敵なことだけど、危ないことをしたら瑠璃ちゃんだって嬉しくないはずだよ。いい? 川はすごく危ないところなの。さっきみたいに溺れちゃったら、死んじゃうかもしれないの。だから、ママともう一度お約束して。川では勝手なことをしないって。ママの言うことをちゃんと聞くって」
「ぅん……。ごめ……ごめんなさいっ……ママ……ごめんなさいっ……」
小さく頷いたあと、とめどなく流れ出す涙を手の甲で拭いながら、春が謝罪を繰り返す。その姿から春がしっかりと反省していることがうかがえた。
「うん、春。いい子だね」
冬花はそう小さく呟き、そっと優しく、けれど力強く……春を抱きしめた。
「あぁっ、よかったっ……! 無事で……! 春……ママ、すごく心配したんだからね、すごく怖かったんだからね……っ」
「うん、うんっ……ごめん、なさいっ」
「ママも、ごめんねっ。怖かったよね、春。ママ、あんなに怒っちゃってごめんねっ」
「うん……すごく、こわかった……」
「そうだよね、怖かったよね……。でも、ママね、春のことが嫌いだから怒ったんじゃないんだよ」
「……そうなの? ボク、わるいこだったのに?」
「……いい? 春、よく、聞いてね?」
冬花は抱きしめていた両手を春の肩に乗せ、真っ直ぐに春の顔を見据えた。
「あのね、ママ、さっきはすっごく怒っちゃったけど、どうしてか分かる?」
「……ボクがいうことをきかないわるいこだったから?」
「うん、それもあるけどね、それだけじゃないの。ねえ、春。今から言うことしっかり聞いて、しっかり憶えておいてね」
春の瞳に映る冬花の顔にはすでに涙はなく、陽だまりのような温かな笑顔だけがそこにあった。
「ママがね、世界で……誰よりも、何よりも一番、春のことが大好きだからだよ」
「……っ!」
「さっき、春のことを怒ったのもあなたのことが大切だから……愛してるからなの。これからもあなたのことを怒る時があるかもしれないけど、ママがあなたのことを世界で一番愛してるってこと、これだけは忘れないでね。大好きだよ、春」
そう言った後、冬花はもう一度春を強く、優しく抱きしめた。
「……うん、ボクもだいすき! ママのことだいすきだよっ!」
春も一面に眩いばかりの笑みを浮かべ、冬花を抱きしめ返した。
最愛の息子のあたたかな体温を感じながら、冬花は思い出していた。
それは、まだ春がお腹の中にいた頃のこと――――
『ねえ、海人。この子のお名前、そろそろ考えない?』
『……実は僕、この子の名前、もう考えているんだ』
『そうなの? 聞かせてくれる?』
『少し長い話になるけど、聞いてくれるかい?』
『ええ、もちろんよ』
『ありがとう。この話を聞いて、冬花の意見を聞かせてほしい』
『うん』
『僕は、人っていうのは言葉でできていると考えているんだ。目にした言葉や口にした言葉、投げかけられた言葉……様々な言葉たちがその人を形づくっている。
そして、言葉の影響は子供の時ほど顕著にあらわれる。嫌な言葉、汚い言葉ばかりを受け取った子供は、きっといい子には育つことはできない。逆に、素敵な言葉、美しい言葉ばかりを受け取った子供は、とてもいい子に育つと思う。
僕は、この子にはそういう素敵な言葉ばかりの中で、すくすくと育ってほしいと思っているんだ。例えばこの子が何かを成し遂げた時、えらいね、いい子だねと褒めてあげたり。この子がお手伝いをしてくれた時、ありがとう、うれしいよと感謝の気持ちを伝えたり。泣いて落ち込んでいる時、悲しいね、つらかったねと共感してあげたり。何かにチャレンジしようとした時、大丈夫、きっとできるよと励ましてあげたり……。
もちろん、時にはこっぴどく叱らないといけないこともあると思う。そういう時は素敵な言葉をかけてあげられないかもしれない。でも強く叱った後には、落ち込むこの子をそっと優しく抱きしめて、こう言ってあげたいんだ。
――――“大好きだよ”って。
そんな風に、あたたかな“春の陽射し”のような素敵な言葉でこの子が満たされるように育てていくという誓いと、育ってほしいという願いを込めて……』
『……“春”。そうでしょう?』
『その通り。よく分かったね。でも、どうして僕の考えている名前が“春”だって分かったんだい?』
『まずはこの子の出産予定日が4月2日ということ。予定より遅くなっても早くなっても春に生まれてくるはずだから、春に関係する名前で……あとは、性別がまだ分からないから中性的な名前になること。そして最後に、あなたの”春の陽射し”っていう言葉でピンときたわ。私たちの苗字は陽中だから、“春”という名前がぴったりだと思ったの。あなたが言った素敵な言葉で満たされて、この子自身も“春の陽射し”のように優しく、あたたかくみんなを包み込むような人になってほしいっていう想いも込められているのね。……“春”。この子の名前は…“陽中春”。……うん、素敵な名前だわ』
『いいのかい? そんなにすぐに決めて』
『もちろんよ。口に出してみて分かったの。妙に腑に落ちるっていうか、スーっと胸に入ってきたの。これ以上の名前はないわ』
『そうだね、この子の名前は“春”で決まりだ』
『ええ。……ねぇ、聞こえてる? あなたのお名前、“春”って言うんだよ――――』
「――――ママ! ねぇ、きこえてる? ママってば!」
「……えっ? あぁ、ごめんね、何かな?」
過去へと飛ばしていた意識が、春の呼びかけにより現在へ戻る。
「もうはなしてもいいよ、ママ。るりちゃんがみてるから……」
冬花は長い時間、春を抱きしめていた。そんな冬花から、ほのかに頬を染めた春はそっと離れる。
「なぁに? 春? 瑠璃ちゃんに見られて恥ずかしかったの?」
「そんなことないけど……」
モジモジとしながら答える春に、冬花は微笑みを向ける。
「ママはまだ抱きしめ足りないなぁ。だって春のこと、大好きなんだもんっ♪ えいっ♪」
「あわわっ」
少し離れた春にガバっと再び抱きつく冬花。突然抱きつかれた春は、一瞬目を丸くしたがすぐに抱きしめ返す。
「大好き……。大好きよ、春。しつこいくらいに伝えるわ。嫌って言っても聞いてあげないもん。……大好き。世界で一番大好きよ」
「……うん、ボクもママのことだいすき。いやだなんておもわないよ。でもね、ママ。さっきも、ボクがせかいでいちばんだいすきって、いってくれたけど、ボクがいちばんなら、なつのとパパがにばんとかさんばんなの? そんなのいやだよ、ダメだよ、ママ」
「……ほんとうにいい子ね、春。大丈夫だよ、二番や三番はいないの。夏乃もパパも春と同じで世界で一番大好きなの。春はどう? 誰が世界で一番大好きかな?」
「ボクは……ママとパパとなつのが、せかいでいちばんだいすき! あとるりちゃんと、るりちゃんのママも! あとあと、クラスのみんなとせんせー、おじいちゃんのことも、せかいでいちばんだいすき! あとあとあと……」
春は大好きな人たちを次々と列挙していく。冬花はそんな春を抱きしめながら、この子は名前の通り“春の陽射し”のようなあたたかく優しい子に育ってくれていると、内心で喜んでいた。
「パパの言った通りだね……」
「あとはね……ってママ、なにかいった?」
「ううん、なんでもないよ。……まだ春のこと抱きしめていたいけど、そろそろ帰らないといけないね。久遠寺さんも待たせっちゃってるみたいだし」
名残惜しそうに春から離れた冬花は、一部始終を黙って待っていてくれたサラと瑠璃に頭を下げる。
「いえ、気にしないでください。それより、何ともないみたいですが、春くんを一応病院に連れて行った方がいいと思います。すぐに引き上げたとはいえ溺れかけたのですから……」
「すみません、ご心配をおかけしました。その通りですね。帰りに診てもらうことにします」
「はる、だいじょうぶなの……?」
サラの服の裾を掴み不安そうな顔をしながら、瑠璃が尋ねる。
「しんぱいしないで、るりちゃん! ボクはげんきだから!」
春は、その証拠とばかりに瑠璃に向けて力こぶを作り、微笑む。瑠璃はそれを見て、安心したように相好を崩した。
「それより、ごめんね、るりちゃん。おさかな、みつけられなかったね……」
「そんなこと、べつにいいの。またこんど、いっしょにさがそう?」
「うん! また、こんどね!」
「さて、春。びちゃびちゃになっちゃったから、お着がえして病院にいきましょう?」
全身がずぶ濡れになってしまった春を見て、冬花が万が一にと用意していた着替えをカバンから取り出した。
「うん、わかったー!」
元気に返事をし着替えを受け取った春は、その場でいそいそと着替えを始める。
「では、私たちは一足先に帰ります。今日はありがとうございました」
「ありがとーございました!」
サラが瑠璃の手を取り2人に向かって頭を下げると、瑠璃もまたペコリと頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます。またよろしくお願いしますね」
別れの挨拶を交わすと、サラと瑠璃は仲良く手を繋いで帰途に着く。やがて春の着替えが終わり、2人も仲良く手を繋いで近くの病院への道を歩いて行った。




