第25話 出会い
「ママー! ボク、せーふくにきがえられたよ!」
陽中春、5歳。今日は幼稚園の入園式の日だ。今は、1人で幼稚園の制服に着替えることができたので褒めてもらおうと、母親にそれを報告しているところだった。
春が今日から通うことになる睦美幼稚園は2年保育制で、いわゆる年中・年長の2学年しか存在しない。5歳という一般的には少し遅い入園となったのはそれが理由だ。
「よしよし、えらいね、春」
慈愛に満ちた表情で春の頭をそっと撫でるのは、母親の冬花だ。入園式に出席するため、スーツを着ている。息子の入園式という晴れ舞台にふさわしい、お祝いの気持ちのこもった明るいクリーム色のスーツだが、派手な装飾は一切ない。あくまで主役は息子たちであり、目立ちすぎず、かといって地味すぎず……という謙虚さと息子を想う気持ちが、その姿から見て取れた。
「おっ。やっぱり似合ってるなぁ、かっこいいぞ、春」
制服姿の春を見て、父親の海人が言った。腕には小さな赤ん坊を抱いている。赤ん坊は生後9ヶ月の夏乃だ。父親の優しい腕の中で、すやすやと心地よさそうに眠っている。
……と思いきや、
「おぎゃあーおぎゃあー」
大きな声で泣き出してしまった。海人の声で目を覚ましてしまったようだ。
「おーよしよし。大丈夫、大丈夫」
泣き出した夏乃を見て、海人は腕を揺り籠のように揺らし、あやし始める。すると、すぐに夏乃は泣き止み再び眠りについた。夏乃をあやすことは、お手の物だった。
春の子育てに積極的に参加し、冬花と二人三脚でやってきた経験が今に生きている。男親だからといって子育てに参加しないということは一切なく、今日まで立派な父親として在り続けてきた海人だ。
「じゃあ、パパ。ちょっと早いけど行ってくるね。夏乃とお留守番、よろしくね」
「うん。いってらっしゃい。式が終わるころに夏乃を連れてそっちに向かうから」
冬花の言葉に、今度は夏乃を起こしてしまわないよう小さな声で答える海人。夏乃を式に連れていくと迷惑になると考えたため、海人は欠席だ。かといって、春の晴れ舞台を見逃すわけにはいかないので、式の終わりを見計らい幼稚園に向かうつもりだった。
「ママー! はやくー」
入園が楽しみで仕方がない春は、すでに靴を履き玄関で冬花を待っていた。
「はーい。今行きまーす」
そんな春の様子に顔を綻ばせ冬花は返事をする。
「じゃあ、おててを繋いでお話ししながらいきましょうか」
足早に玄関に向かった冬花は、ヒールを履いたあと扉の前で待つ春に手を差し出した。
「うん!」
春は元気よく返事をし手を握り返す。
「行ってきまーす」
「いってきまーす!」
2人揃って挨拶をし、玄関の扉を開いた。
本日は晴天。まるで、今日という日を祝福するかのようなあたたかな春の陽射しが、新たな一歩を踏み出した2人を優しく包み込むのだった。
…
……
………
陽中家から睦美幼稚園への道はそう遠くない。子供の歩幅で歩くとしたら、約20分といったところだ。
仲良く手を繋ぎながら歩くこと10分。2人の前方に橋が現れた。白桜町に流れる創芽木川を渡るために架けられた、長さ30mほどの橋だ。
階段を下ると河川敷に出ることができ、その広々としたスペースや川の浅瀬で遊んだりできる。そして、ここを語る上で欠かせないのは、なんといっても桜だろう。河川敷に植えられているのは山桜という品種で、数はそれほど多くはないが、毎年立派に花を咲かせる。
今年もその例に漏れず、橋を歩く2人の下方には山桜が咲き誇っていた。
「ママー、さくら、きれいだね!」
橋の下に見える桜を指差しながら春は言う。
「そうだね。春は桜、好き?」
「うん! だいすき!」
「なんで大好きなのかな?」
「えーっとねー……おはながきれいだから! あとね、このまえ、あそこでおはなみしたのも、たのしかったから! だから、だいすきなんだよ!」
春は冬花を見上げ理由を答えた。この年代の子には珍しく、春は「なんで?」という質問にもしっかりと自分の考えを述べることができる。春の先の言葉は、親とのしっかりとした日々のコミュニケーションがあってこそのもので、そこから冬花と海人の深い愛情が読み取れた。
そして春は言い忘れていたばかりに「あっ!」と大きな声をあげ、続ける。
「あとね、あとね かせんきじ もだいすきなんだ!」
「ふふふっ。かせんきじ、じゃなくて河川敷だよ、春。惜しかったね」
「そうだったー! かせんじきー! まちがえちゃったー!」
「でも河川敷なんて難しい言葉よく知ってたね。ちょっと間違えちゃったけど、ママはそれだけですごいなぁって思うよ」
「えへへ~」
何気ない会話のようだがこの中にも、冬花の春に対する愛情が感じ取れる言葉があった。春の言い間違いをただ訂正するだけではなく、「惜しかったね」と励ましたり、「すごい」と褒めたり。ただ、違うよと訂正するだけでは子供は否定されたと感じてしまい、傷ついてしまうのだ。小さな子供にも自尊心は確かに存在し、それを尊重することが大切で、冬花はそのことをよく理解していた。
橋を渡りまたしばらく歩くと、睦美幼稚園が見えてくる。
「ほら、春。あれが幼稚園だよ」
冬花が指差した先にある建物を確認した春は、ニッと笑い白い歯を見せる。
「ようちえん!ママ、はやくいこ!」
逸る気持ちが抑えられない春は、冬花の手をぐいぐいと引っ張り、急かす。
「そんなに急いでも幼稚園は逃げないよ」
冬花はそんなことを言いつつも、先ほどよりも少し早足になった春に合わせて歩く。程なくして睦美幼稚園の門に辿り着いた。
門の上には、訪れる新園児を歓迎するように『にゅうえんおめでとう』と書かれたアーチが架かっている。門を潜ると、園庭に設置された受付が見えた。早速手続きを済ませ、建物の中に入る。
睦美幼稚園は小規模なため中は広くない。2年制な上、各学年1クラスしかないから多くの部屋を必要としないのだ。主な部屋は年中のさくら組の教室、年長のひまわり組の教室、先生の部屋、遊戯室くらいのものだ。
2人は入園式の会場である遊戯室を目指して歩く。園内は広くないため、すぐに着いた。入口の上には『おゆうぎしつ』と書かれているのでここで間違いない。
遊戯室にはパイプ椅子が整然と並べられていたが、まだ式までには時間があるので、ポツポツとしか埋まっていない。受付で席は出席番号順であることを聞いていた冬花は、指定された席に向かう。出席番号は五十音順なので、真ん中より少し後ろの方の席だ。
まず春を椅子に座らせた後、その隣の席に腰掛ける。前の方に座る保護者と偶然目が合ったので軽く会釈をした後、冬花は口を開く。
「式が始まったら静かにしないといけないから、今のうちにたくさんおしゃべりしちゃおっか、春」
「うん! ママとおしゃべり、するー」
開会までの時間は2人でおしゃべりをすることにしたようだ。元気が有り余っている春は、長時間の式に耐えられないかもしれないから、今のうちに発散させておこうと冬花は思ったのだ。
式の時間が近づくにつれ、遊戯室が活気を帯びていく。
今は開式時間の10分前だが、すでに新入園児とその保護者は全員集まったようだ。一室に集った30人の園児が思い思いに過ごしているので、なんとも騒がしい。だがそれも仕方のないことだろう。どの園児も今日という日を待ちわびていたのだから。
「じゃあそろそろ静かにしてよっか」
開式時間が間近に迫っているのを確認した冬香は、口元で人差し指を立て、春にそう言った。
春は「うん」と一言返事をし、冬香の真似をするように人差し指を立て、ふわりと微笑んだ。
喧騒に包まれていた遊戯室は、開式が近づくにつれ静けさを取り戻していった。どうやら今年の入園児は聞き分けの良い子ばかりのようだ。
「只今より、睦美幼稚園の入園式を開始いたします」
――と、開式予定時刻ちょうどにマイクを通した声が静かだった室内にこだまする。こうして睦美幼稚園の入園式が始まるのだった。
入園式は園長先生の挨拶から始まり、最後の記念撮影まで滞りなく進行し無事、終了した。式の後は少しの休憩を挟み、そのままこの部屋で懇談会だ。懇談会では保護者と保育士による質疑応答、保護者や園児たちの自己紹介などを行う。
「ママー。じこしょうかいって、なにすればいいの?」
式と懇談会の休憩時間である今、春は冬香にそう問いかけた。
「元気よく自分の名前を言うんだよ。ボクは陽中春です、って。できるかな?」
「うん!」
園児の自己紹介といってもそれを行うのは主に保護者だ。だから園児の自己紹介というより、保護者による園児の紹介といった方が正しいかもしれない。
「最初はママがお話しするから、その後に自己紹介をしてね」
「うん、わかった。ボク、がんばる!」
休憩時間が終了し、懇談会が始まった。保育士による園の教育方針や年間スケジュール等の説明のあと自己紹介の時間がやってくる。出席番号順に行うので、春と冬花の出番はまだ先だ。
静かに他の園児たちの自己紹介を聞いていた春だったが、ある母娘の番になると口を開いた。
「あのこ、がいこくのひと、なのかな? きんいろのかみが、すごくきれいだね、ママ」
春は普段目にしない美しい金色の髪の毛に興味を惹かれ、冬花に話しかける。
「そうだね。でも他の人がお話しする時は黙って聞こうね」
「そうだった、ごめんなさい」
春が冬花からその母娘に視線を戻すと、母親の方が話し始めた。
「久遠寺瑠璃の母親の、久遠寺サラと申します。瑠璃は恥ずかしがりなところもありますが、とてもいい子です。みなさんぜひ仲良くしてください。よろしくお願いします」
流暢な日本語で紹介を終えた母親――サラは隣に立つ娘の背中を優しくポンポンとたたいた。すると俯きがちにその娘――瑠璃が口を開いた。
「く……くおんじるり、です……。よろ……よろしく、おねがい、します」
何度もつっかえながらも、なんとか自己紹介を終える瑠璃。そして2人は周囲に一礼をし席に着く。
恥ずかしがり屋な瑠璃にとってこの自己紹介は一大イベントだった。サラは大仕事を終えた瑠璃を労うように頭を撫でている。
久遠寺母娘の自己紹介の一部始終を、春は静かに眺めていた。そんな中、不意に春と瑠璃の視線がぶつかった。遠目からでもはっきりと分かるほど鮮やかな瑠璃色の瞳に、春は金髪を見た時と同様に、きれいだなという感想を持った。
対する瑠璃の方は、春を見ても特に感想を抱かなかった。それはほんの一瞬の出来事で、次の自己紹介の声を合図にするように互いの視線は逸れていくのだった。




