第2話 瑠璃色の幼馴染
手早く着替えを済ませた後、寝室を出てダイニングに向かう。テーブルにはすでに2人分の朝食が並んでいた。
……そう、2人分だ。俺達には両親がいない。幼い頃、交通事故で2人共亡くなってしまった。
今は大樹さんという父親の義弟に養ってもらっている。かくいう大樹さんも現在は入院中でここにはいないのだが……。
そういうわけで、ここには2人分の食事しか並んでいない。大樹さんが入院してからしばらく経つので、この光景が日常になりつつあった。
「今日は目玉焼きか」
「うん、あたしの愛情たぁっ~~~~~~~ぷりの目玉焼きだよ♡」
媚びるような表情と口調で言う。文字に起こすと、語尾にハートマークがついてくるに違いない。かなりうっとうしい。
「おう、そうか、ありがとう」
朝食を目の前にいちいち構ってられないので、そんなことは軽く流して椅子に座ることにする。
素っ気ない態度だと文句を言われるかと思ったが、夏乃は手を合わせてニコニコとした顔でこちらを見ていた。
「お兄ちゃん、ほら、はやくいただきますしよ?」
「ああ、そうだな」
手を合わせ、声を揃えて「いただきます」。
食事の前と後の挨拶は欠かさない。それが陽中家のルールだ。
「ねえねえねえねえ、お兄ちゃん! なにか気になることない?」
食べ始めようと箸を手にしたところで夏乃にそう問われた。
……これはできればスルーしたかったが、そう甘くはないらしい。夏乃の言う、気になること……十中八九、この目玉焼きのことだ。
「……ハート型だな」
わざわざ型に入れて焼いたのか、目玉焼きはハートの形をしている。
「そうっ、そうなんだよ! お兄ちゃん! もぉ~、なんですぐに言ってくれないの? 可愛い可愛い妹が、お兄ちゃんのためだけに作ってあげたんだよ? 嬉しくないの!?」
「ああ嬉しいよありがとう」
「棒読み!早口!無表情! 妹の愛が全然届いてないっ……! でも妹はくじけない! 見た目だけじゃなくて味にも愛が詰まってるんだから!」
「……」
夏乃を無視して、目玉焼きにかける調味料を選ぶことにする。テーブルの上にあるのは塩コショウと醤油、マヨネーズだが……。
「食べるの? 何かけて食べる? 醤油? 醤油をぶっかけてビチャビチャにするの? あっ、それともマヨネーズ? 真っ白でドロッドロな液体をぶっかけるの? それともそれとも、まさか……両方!? ビチャビチャにした後に、真っ白のでドロドロにするつもりなの!? や、やだ、お兄ちゃんったら!」
「うるせえ、何言ってんだこいつ」
俺は、箸でハートの目玉焼きを真っ二つにした。
「ああぁぁぁぁぁぁ! あたしの愛がぁぁ!! ひどすぎる!!!」
「どうせ食うんだから一緒だろうが」
「違うよ! お兄ちゃんは妹心が全然分かってない! いっつもあたしの愛を蔑ろにするんだから! 妹101箇条の第6条を忘れたの!?」
「そもそも覚えたことねーよ」
「じゃあ今覚えて! 3回言うから絶対覚えてね! いくよ? ろく! 兄は妹の愛を全力で受け止めなければならない! 兄は妹の愛を全力で受け止めなければならない! 兄は妹の愛を全力で受け止めなければならない! はい、復唱!」
「あ、おい夏乃。猫特集やってるぞ、可愛いな」
「って、テレビ見てて全然聞いてないし!!!」
「ま、うちのヒカリがダントツで一番可愛いが。なぁ、ヒカリ」
テーブルの近くの床でキャットフードを食べるヒカリに声をかけると「にゃー」というひと鳴きが返ってきた。
テレビに映っている猫と見比べてみても、ヒカリの方が断然可愛い。天と地の差、月とスッポンだ。
「あーあ。あたしにもデレて欲しいなぁ~。ヒカリがうらやましいよぉ~。およよ~……って、ん? 猫が好きならネコミミとかつけたらお兄ちゃんが可愛がってくれるかも!? うおぉぉぉぉぉ! ネコミミ!ネコミミ!」
「バカな事言ってないで早く食えよ、遅刻するぞ」
「はぁーい。にゃん♪にゃん♪」
ネコミミをつけた夏乃も可愛いらしいかもな、とそんなことを考えながら、目玉焼きに醤油とマヨネーズをかけて、食事を始めるのだった。
…
……
………
――ピンポーン
朝食を終え、ヒカリとじゃれ合っていると、ダイニングにインターホンの音が鳴り響いた。
「瑠璃ちゃんだ! あたし、お皿洗ってるから、お兄ちゃん出てあげて」
キッチンの方から響く夏乃の声に返事をし、玄関に向かう。夏乃が言った通り、瑠璃が来たのだろう。いつもこの時間になると、3人で登校するために家にやってくる。瑠璃の通学路、その道中に陽中家があるので、いつからかこの家が待ち合わせ場所になっていた。これは小学生の時から続いている習慣だ。
「春。おはよう」
扉を開けると案の定、瑠璃が立っていた。
「おはよう、瑠璃。今日もいつも通りの時間だな」
「うん。私は春と違って規則正しい生活を心がけてるからね」
「む。俺だって……」
「春、寝ぐせついてる。どうせ今日もまた、夏乃ちゃんに起こされるまで寝てたんでしょ? それで……俺だって、何?」
「ぅ……。なんでもない」
寝ぐせがついてるなら、なんで夏乃は教えてくれなかったんだ。まあ大方、その方が面白いから、とか下らないことを思ってるんだろうが。
「ふふっ。ちょっとイジワルな言い方だったね。ほら、春。寝ぐせ、直してあげる」
瑠璃は楽しそうに微笑んだ後、背伸びをして俺の頭に手を伸ばす。
「んっ、んっ! ……ちょっと遠くてやりにくいから、屈んで」
瑠璃の身長は、夏乃より少し高いくらいだから、150と数センチといったところだろう。かなり身長差があるため俺の頭に触れるのも一苦労だ。
「自分でやるから、いい」
一歩下がって瑠璃の手から逃れる。世話焼きな瑠璃らしい行動だが、恥ずかしい事この上ない。
「えー! 1人でできるのー?」
「できるに決まってるだろ」
「むぅ……。してあげたかったのに」
背伸びをやめて手を下ろし、いじけるように、可愛く頬をぷくっ、っと膨らませる瑠璃だ。
――瑠璃。久遠寺・セレナ・瑠璃。名前から分かる通り、外国人とのハーフだ。ミドルネームは、ここ日本で生きていく上では無用の長物で、戸籍上はセレナという名前は省略されているらしい。俺たちが幼稚園児だった頃、仲良しな2人だけの秘密と言ってミドルネームを教えてくれたことは、友達のいない俺にとって密かな自慢だ。
名前もそうだが、その見た目も、瑠璃がハーフであることを如実に表している。まるで清流の滝のように腰まで伸びていて、キラキラと輝いてすら見える金色の髪に、吸い込まれそうなほど大きく鮮やかな瑠璃色の瞳。瑠璃には容姿端麗という言葉がよく似合う。そのうえ明るくて人当たりもいいと来てるから、学校ではいつも人気者だった。
瑠璃は俺とは違って人気者なんだから、俺なんかを構わなくていいだろうに、昔から何かと世話を焼いてくれる。さっきみたいに、俺のことなら何でもしようとする。その姿を見て、お世話を通り越してお節介だなんて言われているみたいだが、俺は瑠璃の優しさを知っているので、それらの行為をお節介などとは思ったことはない。いくらどうしようもない俺でも、そこまで腐ってはいないはずだ。
「ほら、寒いから中に入れよ。風邪ひくぞ」
「あ、うん。お邪魔しまーす」
冬休み直前のこの寒い時期に、いつまでも外にいてもらうわけにはいかないので、中へと案内する。案内と言っても、ただ瑠璃の前を歩くだけ。この光景もすでに日常となっているので、瑠璃は勝手知ったるといった具合にスイスイとついてくる。
「準備するから、適当にくつろいでてくれ」
リビングのソファに座るように瑠璃を促すが、
「大丈夫。夏乃ちゃんを手伝ってくるよ。お皿洗ってるんでしょ?」
と、丁重に断られてしまった。キッチンの方からせわしなく響く食器の音を聞いたのだろう。
「家のことなんだから、別に気にしなくていいぞ」
「気になるよ。家事はぜーんぶ夏乃ちゃんに任せてるんでしょ? 夏乃ちゃん、大変だよ。春も少しは手伝ったらどうなの?」
少しだけあきれた様子で瑠璃が言う。
「いや、だって夏乃が、お兄ちゃんのお世話はあたしがやる-、なんて言うから……」
「そう言われたからって、普通は全部任せたりしないでしょ? 春は夏乃ちゃんに甘えすぎだよ。いい加減、妹離れしないとこれからが心配だよ」
「妹離れ……。いやいや、その言葉は夏乃に言うべきだろ。あいつが兄離れできてないんだよ」
「夏乃ちゃんは夏乃ちゃんで色々言いたいことはあるけど、春も大概だよ?」
「いや……」
言い返そうとしたが、瑠璃がジト目でこちらを見ていたのでやめることにする。ここは話を変えるのが無難だ。
「あー、俺は歯を磨いてくるから、瑠璃は夏乃を手伝ってくれ……」
「……もう。しょうがないんだから」
夏乃が首をどっちに振るのか分からないが、今度手伝いを申し出てみよう、とそう思った。
…
……
………
「すっかり寒くなってきたねー。はーっ。はーっ」
鼻頭をほんのりと赤く染め、口を覆うようにして自らの息で凍える手を温めながら、瑠璃が言った。
今は3人揃っての通学中。特に代わり映えのない平和なひと時だ。
「今年は暖冬って言ってたのに、めちゃくちゃ寒くなってきたじゃねーか」
誰に対してでもない文句で瑠璃に同調する。
「寒いなら、妹の熱、受け取って♡ ぎゅっ♡」
すぐ隣を歩いていた夏乃が、甘えるような声を出しながら俺の腕にしがみついてきた。
「ぎゅっ、じゃねえよ、抱きつくな!」
「えぇ~、ぬくぬくしようよぉ~! ほら、瑠璃ちゃんも~」
「ええっ!? わ、私は見てるだけでいいかな……なんて」
「いや、見てないで助けてくれ……」
夏乃に絡みつかれたまま、瑠璃の方に体を向け助けを求めるも、当人はなにやら下を向いて、もじもじしていた。
「夏乃、いい加減離れてくれ。外でこんなことするなっていつも言ってるだろ」
「ちぇー、いいじゃん、人もあまりいないんだし」
不満そうな顔でぶつぶつと呟きながらも、ちゃんと離れて俺の少し後ろを歩き始めた。
夏乃の言ったように、人通りはまばらだ。それもそのはず、ここ白桜町は俗に言う田舎町で人口はそれほど多くない。村と呼ぶほど寂れてはいないが、市と呼べるほど栄えてもいない。まさに町と呼称するにふさわしい場所と言えた。
山や川といった、白桜町の豊かな自然が織り成す明媚な風景は、心を穏やかにしてくれる。俺は幼いころからこの町の風景が好きで、中でもとりわけ好きだったのが、町の名前にもなっている桜だ。春になると、山々は鮮やかな薄桃色の化粧をその身に纏い、町中にもたくさんの桜が咲き乱れ、辺り一帯を染め上げる。
だがそれは、俺の原風景の話で……十数年ほど前のことだ。春を迎える度、この町に咲く桜の数は減っていった。住みよい暮らしのための犠牲になったのか、樹の老齢化が進んで安全のために伐採したのか、あるいはその両方か。今ではもう、かつての姿の見る影もない……とまではいかないが、山にも町中にも、ポツリポツリと点在する程度になってしまった。
「桜……か」
「桜がどうかしたの?」
心の中で感傷に浸っていたつもりがつい声に出してしまい、その脈絡のない言葉に、瑠璃が不思議そうな顔していた。
「あぁ、いや、なんでもない」
「ふーん……。あ、桜といえばあそこの桜。来年も綺麗に咲くといいね」
「ああ、今から楽しみだな」
瑠璃の言う”あそこ”の桜とは、河川敷の桜に違いない。”あそこ”という言葉だけで通じるということは俺にとっても、おそらくは瑠璃にとっても、特別な場所ということだろう。あの河川敷には、たくさんの思い出が詰まっているから。
「桜! 次こそは絶対、お兄ちゃんをお花見に連れ出すからね!」
注意されて後ろのほうでいじけていると思っていた夏乃が、急に声を張り上げ話に入ってきた。
お兄ちゃんを連れ出す、か。夏乃は相も変わらず、出不精な俺を家から引っ張り出したいらしい。
「まぁ、気が向いたらな」
そう言ったものの、おそらく気が向くことはない。わざわざ外に出るなんて、学校とか、どうしても必要なときだけで十分だ。もう何年もそうしてきて、それが日常だった。変化はいらない。俺には今のままで十分だ。自分に見合ったもの、それ以上を求めてしまうと、その内に足を掬われてしまう。そんな世界を生きていることを、俺は知っているのだから。