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第16話 チョコレート

 食事を終えた頃には、混み合っていたフードコート内も人通りがまばらになり、空席も目立つようになっていた。

 急いで席を明け渡す必要もないので、しばらく何気ない会話に興じていたところ、ふと、ヒカリが遠くの一点を見つめだした。何を見ているのか気になって、ヒカリの視線の先を見てみると、そこにはクレープ屋があった。


「ヒカリ、クレープも食べたいのか?」


 そう問いかけると「うん! あれ、おいしそう……っ!」と、表情をパーッと明るくさせた。


「食後のデザートにちょうどいいんじゃないかな? ……でも、ヒカリちゃん、1人で全部食べられる?」

「うーん……」


 瑠璃の問いかけに、お腹をさすりながら考え込むヒカリ。クレープを食べきれるかどうか、自分の胃袋と相談しているのだろう。


「あんまり食べられないかも……。でも、あれ食べてみたいなぁ……」

「なら、1つだけ買ってみんなで分けて食べよう? 夏乃ちゃんは、クレープ食べれそう?」

「うん、少しだけなら食べれるよ」


 俺は……


「春は甘いの苦手だから、食べないよね?」


 俺の言いたかったことを、先回りして聞いてくれた。俺が甘いものを苦手にしていることを、瑠璃は昔から知ってくれている。


「ああ、俺はいらない」

「ん。じゃあ、これでヒカリちゃんの好きなのを買ってきてあげて」


 そう言って瑠璃がクレープ代とおぼしき、千円札を渡してくる。


「別にこれくらい俺が出すぞ。ヒカリが食べたいと言い出したんだし」


 家族の分は家族が出すべきだと、そう言ったが、瑠璃は「いいの。わたしも食べるんだから」と、半ば強引に千円札を握らされた。


「ありがとうな」


 厚意は素直に受け取るべきだ。感謝の言葉を返し、ヒカリを連れてクレープ屋に向かう。


「わあ~! 全部美味しそう・・・・・・」


 ショーケースに並べられたクレープのサンプルを眺め、ヒカリがよだれを垂らした。


「こらこら、よだれ垂れてるぞヒカリ」


 ハンカチを取り出し、ヒカリのよだれを拭ってやる。


「んにんにぃ。にゃうぅ……ごめんなさい」

「気にするな。……どれにするか決まったか?」

「うん! これがいい!」


 嬉々とした表情でヒカリが指さしたのは、チョコクレープだった。チョコが練りこまれた生地に包まれる、固形のチョコ、チョコホイップ、チョコソースなどなど……チョコづくしの一品だ。


「チョコか……」


 猫にとってチョコレートは猛毒だ。今のヒカリは人間の女の子でチョコレートを食べても体に異常はきたさないとは思うが、ひとつだけ気になることがあった。

 それはヒカリの猫の耳としっぽだ。


 ヒカリには普通の人間の体にはない、猫耳やしっぽといった猫の部分がある。そのようにして猫としての特徴をある程度受け継いでいるということは、”チョコレートが有毒である”という特徴も受け継いでいる可能性を否定することが出来ない。

 考えすぎなような気もするが、用心するに越したことはない。今にもよだれをたらしそうな顔でチョコクレープを見つめているヒカリには悪いが、我慢してもらった方がいいだろう。


「ヒカリ。残念だけどチョコはダメだ。体調を崩すかもしれない」

「えー! なんでー? 猫がチョコを食べると危ないのは知ってるけど、今は人間なんだよ? さっきもハンバーガー食べたし、チョコを食べても何も問題ないよ!」


 今のヒカリは猫ではない。だからヒカリの言う通りなのかもしれない。そう頭では分かっているが、ヒカリの言葉に首を縦に振ることは、俺の心が許さなかった。


「ヒカリ。何かあってからじゃ遅いんだ。食べないに越したことはない。我慢してくれ」

「う、うん。分かったよ……」


 しぶしぶ、といった具合だが、ヒカリは俺の言うことを聞いてくれた。


「チョコがダメなら……これ!」


 ヒカリが選びなおしたのは、いちごや桃やバナナ、キウイがたっぷりと入った、フルーツクレープ。見たところ、チョコレートは入っていないようなので、これなら安心だ。


「……いい?」


 フルーツクレープを指さしながら、不安げな表情で見上げてくるヒカリに肯定の言葉を返すと、表情が明るく晴れ渡った。

 ヒカリは元気な声で、これ下さい! と自ら注文をする。店員はそんなヒカリの様子を微笑ましく思ったのか、笑みをこぼしてクレープを作り始めた。

 やがてクレープが完成すると、満面に笑みを浮かべながら、ヒカリが受け取る。


「じゃあ席に戻って食べようか」

「うん!」


 今にも飛び跳ねそうなほど上機嫌に、ヒカリは席に向かって歩き出す。人とぶつかったり、転んだりしないだろうかとヒヤヒヤさせられたが、無事に席に戻ることが出来た。


「クレープ買って来たよ!! ね、早く食べよう!?」


 席に座るなり、ヒカリが口を開いた。


「ヒカリちゃん、先に好きなだけ食べていいよ。私たちは余ったのを半分ずつにするから。ね、いいでしょ夏乃ちゃん?」

「うん、もちろん! あたしもあまり食べられないし、それにこんなに嬉しそうなヒカリを見たらダメだなんて言えないよ」

「ほんと? わーい! じゃあ、いただきまーす! あむっ、はむ……うん、すっごく美味しいよ!」


 幸せそうなとびきりの笑顔で、どんどんクレープを食べ進めていく。瑠璃も夏乃もそんな様子に顔をほころばせていた。

 あっという間に3分の1ほどがヒカリの胃袋の中におさまったところで、ふいにヒカリの動きが止まった。


「もうお腹いっぱいになったか、ヒカリ? ……ヒカリ? どうした?」


 声をかけても返事がない。まるで聞こえてないみたいに、うつむいたままピクリとも動かない。この距離で声が聞こえないはずないのだが……。


「ヒカリ、大丈夫か?」


 声をかけながら体を軽くゆすってやると、ヒカリはおもむろに顔を上げた。

 あらわになったその顔は、幸せそうにふにゃふにゃと、とろけきっていた。


「ふにゃあぁぁ……。なんだか、頭がぼーっとするよぉ……。にゃにこれぇ……」


 顔だけじゃなく、声もふにゃふにゃにとろけている。


「ど、どうした、ヒカリ?」

「ふにゃあ? わかんにゃいぃ……。頭がぼーっとして、ほわほわ~ってにゃってるの……にゃんか、きもちいいぃ」

「なんだ? どういうことだ? ほわほわ、気持ちいいって……全然分からないぞ」


 ヒカリの急変ぶりにどうしていいか分からなくなる。幸せそうな顔を見る限り、悪いことは起きてなさそうだが……。


「ねえ、春。これじゃない?」


 そう言って瑠璃が指さしたのはヒカリが手に持っているクレープ。そこに、この状況に対する合点のいく答えがあった。


「キウイ……」


 どうやら、クレープの中に入っていたキウイが原因のようだった。キウイはマタタビ科の植物で、マタタビと言えば、猫を骨抜きにし、酒に酔っ払ったような状態にすることで有名だ。キウイに含まれるマタタビと同じ成分を摂取したことで、このような状態になったのだろう。


「にゃあぁ~。はむっ……あむっ……。これ、しゅごいよぉ……おいひいよぉ」


 酩酊状態といっても過言ではないくらい乱れながら、一心不乱にクレープを口の中に運んでいく。ここまで効果覿面こうかてきめんだと、さすがにヒカリの体が心配になってくる。食べ過ぎてお腹を壊してもいけないし、幸せそうなところに水を差すようでかわいそうな気もするが、一度取り上げよう。


「ごめんな、ヒカリ」

「ああっ……っ!」


 心を鬼にして、ヒカリが持つクレープを取り上げる。恨みがましい視線が心にグサグサと突き刺さるが、ここは我慢だ。


「ハルぅ……どぉしてイジワルするのぉ」

「意地悪じゃない。少し落ち着け」

「落ち着けないよぉ……クレープぅクレープぅ……」


 ヒカリが立ち上がり、俺の手に持つクレープを求めて迫ってくる。奪われるわけにはいかないので、俺も立ち上がって、ヒカリの身長では決して届かない位置まで手をあげる。


「ハルぅ、おねがぁい。それ、ちょおらぁい」


 ヒカリが、俺の腹に手を回して抱きついてきた。そして甘えるように、さながら猫のように、ゴロゴロと喉を鳴らしながら頭をすりすりと押し付けてくる。


「ねぇ……ハル。……ダメ?」

「……くっ」


 ……ダメだ。今、下を向いたらダメだ。きっと、ヒカリはうるうるとした瞳でこちらを見上げている。見たら最後、俺はその可愛さに負けて手を下ろしてしまうに違いない。


「ハル、ちゃんとこっち見て……」


 ヒカリは俺の葛藤が分かってて、そんなことを、そんな甘えた声で言っているのだろうか。

 マタタビ的効果は長く続かないはずだ。もう少し、もう少しこのまま我慢すれば……


「……はっ! ボク、何して……」


 我に返った様子のヒカリが、ゆっくりと離れていく。


「ねぇ、ボク、変なことしてなかった?」


 頬をほんのりと朱に染めて、消え入りそうな声でそんなことを聞いてくる。ヒカリがおかしくなってしまった、先ほどの一連の流れはあまり覚えていないのだろうか。


「大丈夫だ、気にするな。クレープ、まだ食べるか?」


 うつむくヒカリの頭を撫でながら、尋ねてみる。様子を見ながら少しずつ、ゆっくり食べさせればあんなに乱れることはないだろう。あれほどおいしそうに食べていたのだから、禁止にするのは忍びない。


「ううん、なんか食べすぎちゃったみたいで、お腹いっぱいだよ。ちょっと苦しい……」


 みぞおちの辺りを苦し気な表情でさするヒカリ。どうやら我を忘れて食べ過ぎたみたいだ。


「そうか、じゃあ瑠璃と夏乃に残りを食べてもらうな」


 そう言って瑠璃にクレープを手渡す。その時、2人にじとーっとした目で見られていたことに気付いたが、気にしたら負けだ。

 それにしても、キウイであんなに乱れるとは思いもよらなかった。ヒカリが元猫であるという事実を突き付けられたような出来事だった。ヒカリは立派に人間の女の子をしているのに、こんなところで猫としての部分を垣間見ることになるとは……。さっき、チョコクレープを避けたのは正解だったかもしれない。キウイであんな状態になったということは、チョコで体調を崩してもおかしくない。

 ヒカリにはまだまだ不思議なことがいっぱいで、気をつけないといけないと思わずにはいられなかった。


 …

 ……

 ………


 今日も、夏乃は最後に1人で風呂に入ると言うので、俺がヒカリと一緒に風呂に入った。ヒカリは、ショッピングモールで買ったアヒルのおもちゃをいたく気に入ったようで、今日もずいぶんと長いあいだ風呂に入っていた。長風呂にならないように俺が注意しておかなければならないのだが、純粋無垢にはしゃぐヒカリが可愛くてつい時間を忘れてしまったのだ。これからもヒカリの世話していかなければならないのに、こんなことではいけない。

 ヒカリの体を気遣ってやるのも、俺の保護者としての役目だ。長風呂でたくさん水分を失っただろうから、ヒカリにお茶を持っていこう。


「……ん?」


 冷蔵庫を開け、お茶を取り出そうとした時、異変に気付いた。


「俺のチョコレートが減ってるな……」


 疲れた時や、読書のお供としてたまに食べる、板状のブラックチョコレートがひとかけら分、減っている。


「夏乃は苦くて食べれないって言ってたし……まさか、ヒカリか?」


 お茶は後回しにし、急いでリビングでテレビを見ているヒカリのもとに向かう。


「なぁ、ヒカリ。まさかとは思うが冷蔵庫のチョコレート、食べたのか?」


 ヒカリはビクッとした後、恐る恐るといった具合に口を開く。


「うぅ……おゆはんの後、ちょっとだけ……」


 いたずらが親に露見した子供のように、小さく縮こまるヒカリ。


「おゆはんの後って……ヒカリ! 体調は大丈夫なのか!?」


 夕食からはすでに数時間が経っている。夕食後の風呂では元気にはしゃいでいたし、今も、見たところヒカリは元気そうだが……。


「う、うん。元気だよ」


 ……よかった。ヒカリの言葉にホッと胸を撫で下ろす。


「何事もなくてよかったけど、チョコはダメだって言っただろ? どうして食べたんだ?」

「最初は食べるつもりはなかったんだけど、やっぱりどうしても食べてみたくて……つい食べちゃったの……ごめんなさい」

「苦くてまずかっただろ?」

「うん、苦かった。でも、すごく、すごくね……おいしかったんだよ」


 ヒカリは胸に手を当てて、優しい微笑みを浮かべながら言った。


「そうか……」


 まあ、元気なら、それでいい。ヒカリがチョコを食べても問題ないと分かったことだし、結果オーライだ。


「もし体調が悪くなってきたらすぐに言うんだぞ」

「うん。心配かけてごめんね、ハル」

「いや、ヒカリが無事ならそれでいいんだ。あまり落ち込むな」


 しゅんとするヒカリの頭を優しくなでたあと、キッチンに向かい、お茶を用意する。


「俺の考えすぎだったか……本当に何事もなくてよかった」


 ……といってもまだ心配だから、今日は寝るまでヒカリのそばにいるとしよう。

 お盆にコップを2つ乗せ、ヒカリの待つリビングに向かう。ヒカリの目の前にコップを置くと「ありがとう」と言って、ゴクゴクと飲み始めた。

 家事を終えた夏乃が加わり、3人でテレビを見て過ごす。ヒカリはバラエティ番組を見て大笑いしたり、夏乃と仲良くじゃれあったりして、いつものように元気いっぱいな様子だったので、ひとまず安心した。

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