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第1話 HNS ~始まる世界~


 ―――“死”。


 “死”は避けることは出来ない。

 生きていれば必ず“死”というものに触れることになる。


 例えば、ニュースで目にする見知らぬ人の死。

 例えば、飼っていた生き物の死。

 例えば、近所のおばあちゃんの死。


 例えば――――大切な人の死。


 今まで、様々な“死”に触れてきた。だけど、そのどれもがどこか漠然としていて、自分とは関係のないものだと思っていた……。

 

 ――――失ってしまうまでは。


 かけがえのない存在を失って、世界に絶望した人は、その先の人生をどう生きていけばいい?


 答えは…………分からない。


「ねえ」


 安らかな顔つきでベッドに横たわるキミに声をかけてみても、返事はない。当然のことだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。


 力なく投げ出されてた手をとり、そっと握ってみる。

 あの時みたいに、優しく包み込むように握り返してくれることを期待して。


「……寂しいよ」


 期待とは裏腹に、握った手には一切反応はない。

 ……これも、分かっていたことだ。


「怖い。怖いよ……」


 握った手に少しだけ力を込めてみる。

 こうして、キミと確かに繋がっているんだと、そう思い込まないと……


 ――――怖くて、そっちに行けないから。


「……うん。もう大丈夫」

 怖いのは変わらない。でも、キミのぬくもりに勇気をもらったから、きっと大丈夫。

 握った手にもう一度力を込めて、幸せだった時に思いを馳せて目を閉じる。

 キミがいて、あの子がいて……そんな幸せな記憶がすぐに瞼の裏によみがえる。




 ――――もうすぐ。もうすぐ、だよ。

 もう、すぐ…………また、会えるよ。





「うぅ。うぅ……ん」

 

 深い眠りからの覚醒に、どうして人はこうも抗いたくなってしまうのだろうか。

 ……眠い。眠すぎる。

 せっかく気持ちよく眠っていたはずなのに、先ほど頬に感じた生温かい感触に意識が覚醒しかけていた。


「あと5分……。なつ…………」

 

 まどろんだ意識の中で、妹がいつものように起こしに来てくれたのだとあたりをつけ、睡眠の延長を申し入れてみる。


「うぅ……やめてくれぇ」

 

 ……が、またしても頬に生温かく柔らかい感触がした。

 

 ――というか、この生温かくて柔らかくて、どこか懐かしいような感触は一体なんなんだ? 

 

 あのうるさいくらい元気いっぱいな夏乃が、こんなソフトな起こし方をするだろうか? いつもなら大声を上げながら叩き起こされるというのに……。

 陽中春ひのなかはる、というどうしようもない人間は、妹に起こしてもらうことに最早慣れてしまっているが、こんな起こし方をされるのは初めてだった。


「にゃう」

 

 ……にゃう? 猫?


「なんだ、ヒカリ。お前だったのか」

「にゃう! にゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃにゃにゃう!!!」

「うおおおいっ!  舐めすぎ!  舐めすぎだから!  落ち着け!」

 

 目を開けて、ヒカリの黒い体によく映えたクリクリとした黄色の目と合った瞬間、猛烈な勢いでペロペロしてきた。

 なるほど、生温かい感触はヒカリの舌だったか。

 こうして舐められるのは嫌いじゃないが、さすがに顔中をやたらめったら舐めまわされるのは勘弁願いたい。

 俺は起き上がり、なんだか興奮した様子のヒカリを抱きかかえ頭を撫でる。


「うにゃぁぁ~」

 

 俺に頭を撫でられているヒカリの表情は満足そうで、笑っているようにも見えた。


「今日はやけに元気だな、ヒカリ」

「にゃあ~!」


 ――ヒカリ。真っ黒な子猫。性別はメス。この子は河川敷の高架下に捨てられていた。捨て猫だから正確なことは分からないが、拾った時にようやく足腰がしっかりしてきたくらいの子猫だったことを考えると、それから5ヶ月ほど経った今は、おそらく生後半年といったところだろう。

 ヒカリを拾ってからまだそれくらいしか経ってないが、もう何年も一緒にいたと思ってしまうくらいに、俺の中では大きな存在になっている。


「起こしてくれてありがとうな、ヒカリ。子猫なのにえらいな」

「にゃぁ~」

 

 ヒカリから時計に視線を移すと、そろそろ夏乃が起こしに来る時間だった。この時間に起きたのは好都合だ。たまには自分で起きて、兄の威厳というものを示しておかないといけない。

 まぁ、自分で起きたんじゃなくてヒカリに起こされただけだが、そこは黙っておこう。

 ヒカリの頭を撫でているとまもなく、トットットッ、という軽快な足音が近づいてきた。そして半開きになっている扉が勢いよく開け放たれ……


「おっはよーーーー!!! お兄ちゃん!!! 朝だよーーーーー!!!」

 

 うるさいくらいの元気な声と、眩しいくらいの満面の笑みを浮かべた妹が姿を現した。


「おう、おはよう」

「って起きてるし!! なんでなの!?」

 

 俺がすでに起きていたことに驚いたのか、夏乃は、茶色のサラサラとしたショートカットの髪を激しく揺らしながらのけぞった。


「なんでって、俺にだって1人で起きることがあるんだよ」

「そんな……お兄ちゃんが1人で起きるなんて……ありえないっ。……がくっ」

 

 夏乃は、整った可愛いらしい顔を台無しにするような、もう世界の終わりだと言わんばかりの絶望的な表情を浮かべて、がっくりと膝をついた。

 ……ああ、こいつ、今日もノリノリだ。


「なんでそんな絶望してるんだよ」

「だって! 全世界の妹は朝にお兄ちゃんを起こすのを楽しみに生きているんだよ! それを奪われるなんて絶望だよ!」


 先ほどの表情とは一変して、ものすごい剣幕でこっちに迫ってくる。


「そんな妹はお前しかいねーよ。あと、近すぎる。離れろっ」


 目前に迫ってきた夏乃のおでこに、軽くチョップをお見舞いしてやる。こいつはいつも距離感がバグってる。今だって、夏乃の柔らかな茶色の髪から、シャンプーか何かのいい香りがただよってくるほど近かった。


「いたっ。……むぅ。そんなことないもん! お兄ちゃんは妹というものがなんなのか、全然分かってない!」


 夏乃は俺から離れてスタスタと歩いていき、机の目の前の壁に貼られた大きな紙を、ビシッと指差した。


「いーい? お兄ちゃん。これ読むから復唱ね!」


 その紙の一番上には『妹100箇条』と大きく書かれ、その下に目がくらむような活字が乱舞らんぶしている。俺は読書が趣味だから羅列られつした活字を見ても目がくらむようなことはないが、問題はその内容だった。あまりにもばかばかしすぎて目がくらむのだ。


「いち! 兄は妹のことを大大大大大だーい好きでなければならない!」

「……」

「復唱!」

「……」

「ふ・く・しょ・う!」

「……兄は妹のことが大大大大だーい好きでなければならない」

「大が一個少ないし棒読みだけど……まぁ、許してあげる! に! 兄はあらゆる面で妹にお世話されなければならない!」

「なあ……これ、100までやるのか?」

「当たり前だよ! はい、ふくしょ……って!」


 夏乃はベッドに座る俺の腹のあたりを見て、ひときわ大きな声をあげた。


「またヒカリをだっこしてる! ずるい!」

「今頃気付いたのかよ。夏乃が来てからずっとだっこしてたぞ。それに、ずるいってなんだよ」

「あたしもだっこして欲しいの! もちろん、ただのだっこじゃなくてお姫様だっこね!」

「重くてできねーよ」

「ちょっと! デリカシーは!? こんなにちっちゃくて可愛い妹に向かって重いだなんて、あり得ない!」


 もちろん重くてできないなんて嘘だ。身長180センチの俺が150センチ程の夏乃をお姫様だっこすることなんて朝飯前だ。それに夏乃の体には無駄なぜい肉が一切ないからなおさらだ。


「ほら! 早くお姫様だっこしてよ! そして、『そのからだ、風に運ばれる綿毛わたげごとし!』って恐れられたあたしの軽さに驚くがいいよ!」 

「誰に恐れられてんだよ。……というか、それは恐れられるようなことなのか?」


 ……夏乃はこんな風によく俺をからかってくる。普段なら軽くあしらって、こういったおふざけには付き合うことはないが、からかわれてばかりなのもしゃくなので、今日は本当にお姫様抱っこをしてみようか。


「ったく……。しょうがないな」


 ヒカリをそっとベッドに下ろして立ち上がり、ゆっくりと夏乃の方へ歩いていき、ヒョイっと抱き上げた。


「え? ちょ、え? まって、おにぃ、ちゃんっ。ほんとにしたのっ。えっえっ、どうしよっ、あわわ」


 夏乃が俺の腕の中で顔を真っ赤にしている。小さな顔を縁取ふちどる茶色の髪からチラチラとのぞく耳まで、赤く染まっていた。

 まさか本当にだっこされるとは思ってなかったんだろう。真っ赤な顔のまま慌てふためいている。

 普段ふざけてばかりいるが、こういうところは可愛らしい。


 俺の妹、陽中夏乃はよく言えば天真爛漫、少し乱暴な言い方をすれば奇想天外、奇妙奇天烈。無駄に元気で明るくておまけにブラコン全開ときている。それが夏の太陽のように暑苦しくて非常にうっとうしいが、実のところ俺は夏乃の明るさに救われていた。今の俺があるのは夏乃のおかげだと言っても過言ではない。俺の大切な、大切な……たったひとりの妹だ。

 もちろん、こんなことを口にすると夏乃が調子に乗るので、そっと心に秘めておく。


「自分から言っておいて、なに顔真っ赤にしてんだよ。恥ずかしいのか?」

「赤くなんかなってないもん! もういいから、下ろしてお兄ちゃん!」


 このままだとバタバタと暴れ出しかねないので、下ろすことにする。

 あんまり兄をからかってばかりいると、恥ずかしい目に合うことを知ってもらわなければならない。夏乃はもう中学1年生だ。そろそろ兄離れをしてもらわないと困る。本来は恥ずかしがり屋な夏乃のことだから、これで少しは懲りてくれるといいのだが……。


「あーびっくりしたぁ! まさかホントにしてくれるなんて思わなかったよぉ! あたしとしたことが、少し取り乱してしまった! 今日のお兄ちゃんは一味ちがう……っ!」

「これにりたら、あまり兄をからかうなよ」

「はぁーい」


 夏乃は間延びした返事をしたあと、なぜか机の上のペン立てからマジックを取り出した。なにをするつもりなのか黙って見ていると、『妹 100箇条』の紙に手を伸ばしたのが分かった。何かを書いているのは分かるが、体が邪魔でなにを書いているかまでは分からない。しばらく待っていると夏乃がマジックをペン立てに戻してから振り向いた。


「じゃあ、お兄ちゃん。朝ごはん出来てるから、早く着替えて食べに来てね!」


 バチッ、っと音が聞こえるんじゃないかというほどの、わざとらしくてあざといウインクの後に、満面の笑みを浮かべながら、弾むような足取りで部屋から出ていった。


「何を書いたんだ?」


 気になって『妹100箇条』に視線を戻す。しかし、その紙は『妹100箇条』ではなくなっていた。1のくらいの0が二重斜線で消され、その上に『1』が書かれている。


「妹101箇条……?」


 すごく嫌な予感を感じながら、視線を下へ下へと向けていく。最下段にはこう書かれていた。


『101 兄は1日1回、妹をお姫さまだっこしなければならない』


「あいつ、全然懲りてない……っ!」


 俺はきっと生涯しょうがい、妹にからかわれ続けるんだろうと、この時、さとってしまったのだった。

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