7 「あんたには、選択肢をやる」
「……っ」
わたしは、何も言葉を発することができなかった。息苦しさもあったし、レイリに何と言ったら良いか全く分からなかったからでもある。
見ないで欲しい、と思った。けれど同時に、もうどうにでもなれば良いとも思っている自分もいた。
自暴自棄な気持ちが浮かびながらも、まだ残った理性的な考えとわずかにあった身体の力を振り絞り、わたしはレイリに顔を見られないようにと両手で顔を覆った。ひどく緩慢な動作しかできないことに焦ったけれど、ぎゅっと目をつぶる。
きっとわたしは、ここで秘密を晒されてすべてを終えるのだ。本気でそう思っている自分がいた。
ざく、と躊躇したような半端な音が聞こえて、レイリがわたしに近づいているような気がした。そもそも先程暗闇に浮かび上がったレイリがいたのはそんなに遠くではなかったはずだ。すぐに足音はわたしの近くで止まり、しばらくの間は音が止んだ。
わたしの息は上がったまま。自分の呼吸音だけがこだましているような気がした。本当に、今ここにひとりだけであれば、どんなに良かっただろう。
「あんた、何してる」
先ほど見えた驚いた顔はもうしていないのだろう。レイリの声はいつもの淡々とした、どこか冷たさを帯びているようにも感じられる聞き慣れたトーンだった。
この状態でわたしが答えられるように見えるのだろうかと憤りのような疑問も浮かんだけれど、わたしは声を発することができなかった。
がさ、と今度は先ほどよりも近く、わたしの耳元すぐのところで音がして、わたしの身体はまたびくりと震える。思わず目を開けると、指の隙間から白くて眩しい、細かい光が散るのが見えた。見覚えのある、綺麗さだった。同時に、わたしの身体にはじわりと暖かさが流れ込む。
レイリの手によって、魔法が発動されていた。
「……中てられたのか」
レイリがそう呟いて、細かい光がすっとその場で霧散した。どうやら、レイリはわたしの状態を探知したようだと理解する。
「いつからこうなってる」
聞かれても答えられないのにと思いながら、わたしはまた目をつぶった。目を開けていても閉じていても、世界が回っているような感覚がした。けれど、それにしてはわたしは冷静だなと自嘲のようなものも浮かんだ。
けれど、もうどの感覚も、自分のものではないような気もしていた。
「……」
しばらくお互いに沈黙を味わったあと、レイリはふうとため息をついた。それから、心底興味のなさそうな声で、あり得ないことを言った。
「触れるぞ」
それはどういうことだ、と思わず焦った。
自分のものではないように思っていた感覚が、少しだけわたしに戻る。けれどきちんと考える間を与えられない内にわたしの首にひやりとした何かが触れた。
「熱いな、……自己暴走か」
言われている意味を全く理解できないまま、わたしの身体は強ばったけれど、わたしはそれに抗うように出来る限りの力をもって身をよじった。本来の力があれば、その冷たい手を叩いているところだった。
この男、今、なにを……?
レイリは相性を考えていないかのような振る舞いで、わたしに触れている。エネルギー暴走が起きたらどうなってしまうのか、と絶望的な気持ちに一瞬なったけれど、でもひやりとした手は既にわたしに触れているのだ。唐突なレイリの行動に、わたしの中には冷静さが引き戻されていた。
そして気づけば、エネルギー暴走は起きていなかった。
「……あんたには、選択肢をやる」
ぐわんぐわんと回る世界に、レイリが映った。わたしは目を見開くしかなかった。諦めのような気持ちは一瞬でどこかへ行ってしまっていて、代わりにわたしの中には大きな驚きの気持ちが膨らむ。
いつもの、不愛想な顔だったけれど、レイリからこんなに話しかけられたことは今までないかもしれないとふと思った。
「黒の魔力に中てられたんだろう、この棟から離れればおそらく、多少はましになる」
レイリが指したのは、近くにあった棟だった。
この棟から離れれば……、と、頭の中で言葉を繰り返してみても意味はよく分からなかったけれど、レイリの言葉には続きがあった。
「離れるために、部屋まで連れて行ってやっても良い。ただし、そうすればあんたは俺に手を出されたと周りからは思われるだろうが」
それは嫌だ、と考える間もなく思ったけれど、今の状態ではここから自分で離れることも不可能そうだと苦々しい気持ちになる。
魔力持ち同士が触れ合っているという行為は、そういう同意があってお互いに触れられるかどうかを試した結果であるという風に見られてしまう。
「もしくは」
レイリは淡々と続ける。わたしの考えていることや気にしていることなど、さもどうでも良いというような声で。
「ここでお前のエネルギーを吸収してやっても良い。相性は良さそうだし、そんなに面倒じゃなさそうだ」
今、なんて言った?
信じられないような言葉が聞こえて、わたしは思わず顔をしかめた。いや、おそらくずっと気持ち悪さに顔がゆがんでいただろうから、レイリから見ればそこまで変化があったわけでもないかもしれないけれど。
そしてそれから、レイリはわたしの首に添えていた手を、わざと撫でるようにゆるゆると動かした。それにまた、わたしはびくりと震えてしまう。
その手が、あんたなんてどうとにでもできると言っている気がした。
「……吸、収……」
わたしがやっとの思いで発した言葉に、レイリは「ああ」と頷く。この人から普通に返事を聞くのは、珍しい気がした。
「中てられて、エネルギーが過剰に増殖してる」
エネルギーの吸収とは、他の魔力持ちの魔力を吸い取る行為だ。高レベルの、それも白の魔法の使い手しかできないとされているそれは、胸元の魔力紋に触れて他者の魔力を吸い取るということを指す。
白が白の魔力を何かしらの事情で吸い取ることもある。たとえば、エネルギーを分け与えるとき。けれど、それは親しい間柄で本当に稀な事情がある時に行われることであって、誰とでも頻繁に行われることではない。そもそもそれができる高レベルの魔法の使い手自体が多くないのだから、当たり前ではあるけれど。
そしてそれは、吸収される側の魔力持ちは、吸収する側の意思にすべてを委ねるということにほかならない。過剰に吸収されれば、体調を崩したり、最悪は廃人のようになることもあり得るのだ。信頼がなければ、絶対に成立しない行為だった。
そしてそれよりも、それが行われる場面は。思い浮かべて、わたしの身体は勝手に震えた。
黒の魔法の使い手が暴走することを防ぐために、制御の意味合いでエネルギー吸収を行うことがあるのだと聞かされたことがあった。高レベルの白の魔法の使い手には、時々その仕事が回ってくるのだと。
わたしの頭は、急に覚醒した。そして、血の気が引いていくのを感じた。
わたしは、魔力紋を見られるわけにはいかない。
いや、冷静に考えればおそらく、わたしの魔力紋はきちんと白にカモフラージュされているはずだったのだけれど、そんな冷静さは持ち合わせていなかった。
もしかしたら、わたしが黒であることがレイリに既にばれているのではないか、とものすごい恐怖に襲われた。
そうだとすれば、レイリはわたしをただではおかないだろう。通告されれば裁きを受けるかもしれない。最終的には黒の庭へと来ることになってしまうだろうし、何か罰が与えられるかもしれない。
見られてはいけない。
わたしは必死で、頭を小刻みに横に振った。
「……運んで、……部屋に」
懇願するように絞りだした声は震えていて、自分でも聞き取れないのではないかと思うほどに小さかった。わたしが黒だとレイリが知っているなら、部屋まで運ぶなんてことはしてくれないだろうとも思った。だから、このお願いを聞いてもらえたなら、ばれていないはずだという一縷の望みもどこかにあったかもしれない。
けれど、わたしの心配など全く分かっていないかのように、小さな声を聞き取ったレイリは何も言わず、そして首に触れた時よりも乱暴に、わたしの身体を抱き上げたのだった。