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60 「……痛い」

「レイリ……!」


 思わず、わたしは走っていた。それまでぼんやりとしていたわたしの急なその動きに、文官がハッとしたようにびくりと動いたのが見えたけれど、どうやら瞬発力はわたしの方が高かったようだ。制止を振り切って、わたしはすぐに部屋の中へと足を踏み入れていた。

 両手を後ろに固定された状態はこんなにも走りにくいのかと、もどかしさは感じたけれど。


 レイリは驚いたような顔をしていて、はっきりとそんな表情を浮かべるのは珍しいと思った。あまり見たことのない、襟のついたあまりくつろげなさそうな服を着ているレイリは、ソファの前で固まっているように見えた。


 わたしは、レイリに抱き着いた。何も考えていなかった。ただ、身体がそういう風に動いた。いや、気持ち的には抱き着いたつもりだったけれど、実際は両手を後ろで拘束されているために体当たりに近かったのだけれど。

 レイリは固まったまま、けれどそのわたしが飛びついた衝撃にも動じることなく、わたしの身体を受け止めていた。

 どくりどくりと、わたしの心臓が鳴っていた。それから、目の前の固い身体からも、心臓が動いているのが感じられたような気がした。


 レイリだ。


 わたしは、何も言えなかった。ただ、その温かさに安堵する。


「あんた、なんで、」


 珍しく動揺しているような声を隠さずに、レイリはわたしにそう問いかけた。先ほどまでの無音だった空間に、久しぶりに届く音。

 聞こえないのは良いと、さっきは思ったけれど。いや、この声が聞こえないのはとても怖いことだなと今は思った。


「レイリが、帰って来ないから……っ」


 見当もつかないというような声で聞かれた「なんで」という質問に、わたしはどこか苛立ちを覚えた。そんなの、答えはひとつしかないじゃないか。そう思って、言葉をぶつけたくなった。


「……悪い」


 その苛立ちに気づいたのか、レイリは小さくわたしの耳元に口を寄せて謝る。聞こえるのは、レイリの息遣いとその声だけだ。けれどすぐにレイリの顔はわたしの耳元から離れて行った。

 わたしが顔を上げれば、レイリは前を見据えていて。そうだ文官がいたのだ、とわたしが思い出してレイリから離れようとしたのと同じくらいのタイミングで、引き留めるようにわたしの腰にレイリの手が触れた。

 それから違和感に気づいたのか、その長い指がわたしの手首と手錠をゆっくりとなぞった。手首はじくりと痛みを訴えていた。自分では見えないけれど、血が出ているかもしれない。それからレイリの大きな手はすぐにわたしの腰へと戻って、今度はわたしが離れることを許さないというように、わたしはぎゅっと引き寄せられる。


 びくりと心臓と身体が跳ねて、じゅっと体温が上がった音がしたように感じた。けれど、レイリはそれには反応せずに。


「どうして燈乃を連れてきた」


 わたしに謝ったのとは全く違う声音で、レイリはそう言った。怒りがこもっているような声に、来てはまずかっただろうかと不安になった。パッと視線を上げれば、けれどそれはわたしに向けられた言葉ではないということはすぐに分かった。

 それが向けられた文官からはすぐには返事は帰って来なくて、レイリが質問を重ねる。


「それで?この手錠はなんだよ」


 文官がどんな表情をしているかは、レイリに振り向かないようにと拘束されているから分からなかった。少し間をおいて、またレイリは言葉を重ねる。


「鍵は」


 けれどそのレイリの拘束は温かかった。だからこそ、冷たい手錠が今わたしの手首をまとめているのだということを、わたしはやっと現実のこととして感じ始めていた。そしてその、手首の痛みも。


「どうするつもりだ」


 いつまで経っても返事をしない文官について、そのあたりでわたしの中に違和感がじわりと浮かんだ。部屋の扉は鍵を閉められていたし、レイリもここから身動きをとれないようにされているのだろうという推測はついたけれど、身分の高そうなレイリに、そんなに長い間口をつぐんでおけるとも思えない。

 

 そして、わたしはハッとした。もしかして、今のわたしも先ほどまでと同様に、音が聞こえるようになったわけではないのだろうか。ふと黙り込んだレイリに、わたしも息をひそめる。すると、聞こえるのはレイリとわたしの鼓動の音だけだ。周りの音は、何も聞こえない。


 そうか、ただ単純に、今のわたしにはレイリの音だけが聞こえているのかもしれない。


 そして首だけを動かしてそっと見回せば、辺りはまだ水の膜が張っているようにぼやけて見えた。それからゆっくりとまたレイリを見上げれば、レイリはこんなにもはっきりとわたしの目に映っているのに。

 耳に届く音も、目に見えるものも、レイリの魔法だから、レイリだけは適応外……なのだろうか。


 おそらくレイリはわたしの視線に気づいているのだろうけれど、わたしの方は見なかった。ただただ、その腰に回された腕の強さだけは変わらずわたしをそこに引き留める。

 それからまた、レイリが声を出す。荒っぽさは感じられないけれど、それよりもずっと、低くて怒りが込められているような声だった。


「鍵、寄越せ」


 レイリはそう言うと、わたしに触れた手にもっと力を込める。それから、レイリの反対の手がぐっと伸びるのを感じた。鍵を受け取ろうとしているのかもしれない。それに、文官が話しているけれどその声が聞こえないのだと思えば、レイリの言葉に挟まる少しの間は不自然ではなかった。


「許可するまで、入るな」


 ずっと命令口調のレイリから、流れ込んでくるのは苦しさのようなものだった。


 音が聞こえないというのは、不安になることだなと今度は思った。相手の動向を探れないし、どういうやりとりがなされているのか、視界をレイリで埋められている今はわからない。どうしてレイリがそんな風に感じているのかも、文脈を読めないと分からない。



 ふと、レイリの手から少しだけ力が抜けたことを感じて、わたしはまたレイリを見上げた。

 レイリは小さく息を吐いてから、わたしの視線に応えるようにわたしを見下ろす。身長差があって距離は開いていたけれど近い距離で視線が絡まって、わたしの顔は赤くなりそうになった。


「……とりあえず、出て行かせた」


 レイリはそう言って、わたしの腰から手を離した。


「いきなり、悪かった。とりあえず、本当に親しい関係だと思わせる必要があって、」


 その口からこぼれるのは、どこか言い訳のような言葉だった。いきなりわたしに触れたことを謝っているのだということは分かった。

 べつに良いのに。わたしはそう思ったけれど、たしかにわたしたちは契約を結んだだけの関係で。それ以上でも以下でもない。本当は、結婚などはしていないのだから。

 そう思うとぎゅっと胸が痛くなったけれど、それは顔に出すまいと思った。


「手首、外すから」


 わたしを開放したレイリは、わたしの背後へとまわった。わたしもつられて身体ごと振り向こうとすると、両手で腰を抑えられて止められた。ただ、レイリが膝をついてわたしの手錠の鍵を外そうとしているのは見えた。

 するりと触れられた手首が、痛かった。


 びく、と震えると、レイリはわたしを見上げた。レイリを上から見るなんて、滅多になかったような気がする。その新鮮さに驚きながら、わたしはレイリと視線を合わせた。


「痛いか」


 そう問いかけられて、わたしはやっと声を出した。


「……痛い」


 レイリと名前を呼んだ時はするりと出た声が、どうしてか今は喉でつっかえるような感覚があった。


「……今は治癒できない」


 王宮内では魔法が使えないのだから、それは当然のことだった。わたしは頷いて、するとレイリは小さな鍵を手にしてわたしの手錠を外した。したはずのかちゃりという音は、わたしの耳には届かない。手首から冷たいものがゆっくりと外されて、そこに残ったのは痛みだけ。

 じんじんとする手首をやっと前に持ってきて、見れば赤く線が入ってみみず腫れのようになっていた。ぐっと引き上げられる時にできたのであろう切り傷には、じわりと血が滲んでいる。


 レイリもそれをじっと眺めてから、立ち上がってわたしの元を離れた。向かった先は部屋の入り口の近くにある扉で、その中に入ったようだった。中で何かを探しているような音がして、少しすると両手に収まる程の小さな木箱を持って戻ってきた。

 視線でソファを指しながら、「座って」とレイリは言って、わたしはそれに従った。ソファは柔らかいけれど張りのある、なんだか座り心地の良いものだった。


 それからレイリは、座ったわたしの目の前に膝をついた。今度はわたしに何か指示を出すことはなくて、レイリが勝手にわたしの腕をとって、長袖をまくった。とても、丁寧な動きだった。そして久しぶりに直接触れるレイリの指は、やはり冷たかった。

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