4 「あんたは俺の補佐につく」
「藤吉」
午前中、12歳の子どもたちの魔力判定をしていた日。珍しく午後はわたしには判定の業務が入っておらず、自分の机で事務作業をしていた。アサクラとモモちゃん、そしてレイリは魔力判定のために研究所内の判定室へと出向いていたはずだった。
そんなひとりでいたはずの第13研究室で、急に自分以外の声が聞こえてわたしは思わず身をすくめた。苦手な声というわけではないはずなのに、その人が苦手だと思うと全てに過剰反応してしまいそうになるらしい。それに、冷静に考えてもわたしのことを名字で呼ぶ人は彼くらいしかいない。
そこにいたのは、レイリだった。
「藤吉燈乃」
すぐに返事をしないわたしに、呼びかけが聞こえなかったとレイリは思ったのか、先程よりも強めの声で間髪入れずにわたしのフルネームを呼んだ。
レイリの発音は訛りのない、きれいなものだった。同時に、わたしの名前を呼ばないで欲しい、と思った。何も考えずにまず浮かぶのは、嫌悪感だ。彼の視線や声が自分に向けられるといつも、わたしはどこか不安になる。
コミュニケーションを放棄している彼がわたしたちに声をかけてくる時は、基本的に良い話をされることがないということも影響しているのかもしれない。
わたしは身構えつつ、声のした方へ首だけを意識してゆっくりと向けた。できるだけ、彼の顔を見ないようにと首元に目を留める。
「レイリ、どうしたんですか」
この国では基本的に、どこでもファーストネームで名前を呼び合うのが基本だ。今はそんなことないけれど、もともとは名字のない人間も多かったからだと聞く。
けれど一方で、魔力持ちには独自の文化がある。ある、というか、あった、と言った方が正しいのかもしれないけれど。
今もかろうじて残る魔力持ちの文化で、研究所内で改まった場では名字で呼んだり、「ちゃん」「さん」といった敬称をつけることもある。けれど、今はもうそれは魔力持ちの中でもやや廃れた文化として扱われている。
アサクラを名字で呼ぶのも、モモちゃんにちゃんを付けるのも、この研究室内でのあだ名のようなものだった。アサクラもモモちゃんも、魔力持ち文化の価値観が強く残る場所で育ったらしく、親しみを込めてそうしている。
人間と魔力持ちでは使う言語も実は元々は異なっていたらしいけれど、それも遠い昔の話だ。今名残として残るのは、魔力持ちの名前に漢字が使われることくらいだ。発音がやや難しいため、人間は「燈乃」を「トウノ」と呼ぶ。魔力持ちもそれに倣うように、今はもうそちらの発音寄りで名前を呼び合うことが多かった。
「所長からの指令で、来週頭から黒の庭に出張になった。うちからはあんたと、俺が向かう」
レイリの、研究所ではいつもほとんど感情を映さないその顔をなるべく見ないようにしながら、わたしは「……分かりました」と返事をした。できるだけ出さないようにと努めたけれど、この人と一緒には嫌だなと思うと、わたしの表情は硬くなった。もしかしたらレイリにも伝わってしまっているかもしれない。しかし、レイリはわたしの反応など気にも留めずに業務連絡を続けた。
「期間は3日間、第2研究室の補助が仕事だ。あんたは俺の補佐につく」
黒の庭。
それは、黒の魔法の使い手と判別された者たちが暮らす場所だ。庭なんて自由度の高い場所ではなく、黒を管理するために作られた場所である。囲われた敷地の中は狭くはないけれど、黒は特別な許可がない限りそこからは出られない。人間や白の魔法の使い手が外から入ることについては黒が外に出る程の厳重な管理はされていないけれど、用事がない限りは近づかない者がほとんどだ。
そこへ行くこと自体、とても気が重いことだった。その中にいる黒が嫌なのではない。魔力持ちは皆、黒や白にこだわりを持つ者はほとんどいない。わたしもそうだ。
けれど、その環境に、思わず目をそむけたくなるのだ。
そして、自分が黒であることを隠し続けているわたしにとって、そこは特に近づきたくない場所だった。
「今回は、何をしに?」
「定例視察」
気を取り直して尋ねたわたしに返ってきたのは簡潔すぎるその言葉だった。けれどレイリのそれは通常運転である。わたしも特に気にせず「わかりました」と頷いた。
定例視察は第2研究室の管轄だ。何かの理由で今回は人手が足りず、レイリに声がかかったということなのだろう。わたしは、そのついで。わたし自身が求められているわけではない。それさえ分かれば、わたしの中には少し安堵の気持ちが浮かぶ。
そして、要件が分かれば、この人とは出来る限り話していたくないという気持ちが強くなった。この部屋にふたりきりのこの状況は、いつもよりも落ち着かなさが増した。
わたしがそう思ったのが表情から伝わったのか、レイリも同じ気持ちだったのかはわからないけれど、特にそれ以上の質問をしないわたしをレイリは一瞥して言った。
「以上」
愛想など全くなく、必要最低限の言葉しか吐かなかったレイリはそう締めくくると、すぐにまた踵を返して研究室を出て行った。おそらく、判定業務に戻るのだろう。
レイリに対して抱いている感覚は色々あるような気はするけれど、怖いという言葉がおそらくいちばん当てはまるのだろうと思う。今感じている嫌悪感は、はじめは嫌悪感ではなかったはずだった。
有能な白の魔法の使い手。目つきは悪いけれどある程度整った顔立ちと、あまり筋肉はついていなさそうだけれどひょろりと背が高くそれなりに映える体格。そして、珍しい混血のきれいな色を持つ人。魔力持ちの女子の中でも、人気はある。
元々そこまで自分以外の人間に興味を持たないようにと生きてきたわたしは、彼自身にも興味があったわけではなかった。だから、彼が異動してくる際には、ここまでの嫌悪や恐怖は感じていなかったはずなのだ。
けれどそれは、初対面、彼の目をまっすぐに見た時に一瞬で変化した。
その時に何が起きたのかは、未だに自分でも分からない。けれど、その瞬間に身体の内側が震えるのを感じた。そしてそれは、何かが崩れ落ちるような感覚だった。
それがとても怖くて、この人と目を合わせていてはいけないとすぐに目を伏せたのを覚えている。見透かされてしまう、全てばれてしまう。たぶん、わたしはそう思ったのだと思う。今まで必死に隠して生きてきた、わたしが黒であることが晒されてしまうような怖さと、恥ずかしさだったのかもしれない。
わたしはレイリが出て行ったあと、ひとつゆっくりと息を吐いた。
大丈夫。本当に見透かされて、暴かれてしまっていたら、今わたしはここにいられているはずがないのだから。目が合ったところで、そんなことが起きるはずがない。
わたしは立ち上がって、室内にかけられた大きなホワイトボードの今月の予定表を眺める。そこには、それぞれの名前が記されていた。書類上の正式な名前は漢字であるため、こちらにも漢字での名前が書かれていた。
立場順に上から名前が並ぶ。
『白久怜悧』
『藤吉燈乃』
『寺波桃』
『浅倉陸人』
わたしは、レイリと自分の来週の欄にそれぞれ、『黒の庭出張』と赤字で書き入れた。
レイリの名前は、響きから言えばおそらく「レイリ・シラク」という人間としての名前なのだろう。それに後から、わざわざ漢字を当てたのかもしれない。
他の数少ない混血の魔力持ちは、ほとんどがその名前に漢字をあてるというようなことはしていないはずだった。そのことを思えば、彼は何かしらの意思を持って、敢えて漢字名を名乗っているのだろうということは推測できた。人のことを名字で呼ぶのも、そのことと関係があるのだろうし。
けれど、そのことにそこまで興味もないわたしはすぐにそれを考えることはやめた。正直に言えば、興味がないというのは嘘で、これ以上どんな気持ちも彼に対しては持ちたくないからやめたのかもしれなかったけれど。
そして直後に浮かぶのは、大丈夫と言い聞かせたばかりなのに、一緒に出張は嫌だな、という気持ちだった。
嫌でも行かなくてはならない仕事なのだから考えても仕方がないのだけれど、気持ちを押しとどめることがわたしは苦手だ。あまり動かない表情筋がそれを外に出さない手助けはしてくれるけれど、楽しいときよりも嫌だと感じるときの方が表情筋が動いてしまうのはどうしてなのだろう。
彼といると、自分がとても恥ずかしく思えるのだ。みじめで、そんな自分が嫌になる。
それはわたしが黒だからという意識からかもしれなかったし、彼の有能さを目の当たりにしてきたわたしが自分の非力さを理解しているからかもしれなかった。