49 「ぎゅってして」
「トウノ、僕ね、考えて練習してみたの」
朝ごはんを食べた後、エシェルが手袋をはめた手でグイグイとわたしを引っ張って行ったのはレイリが防護を施した部屋だった。
エシェルと魔力を扱うときはこの部屋に来ることにしていて、きっとエシェルはわたしに何かを見せようとしているのだということは分かった。
レイリもエシェルの状態を確認しようと思ったのだろう。後ろから何も言わずに着いて来ていた。
「どんなこと?」
わたしがしゃがみこんでエシェルと視線を合わせれば、エシェルはするりと手袋を外した。手袋越しでは魔力は使えないため、この部屋ではわたしに触れる時以外はエシェルは手袋を外していた。だからそれは特に気にならずに、エシェルの返事を待っていれば。
「トウノに、ぎゅってしても良い?」
その口から聞こえてきたのは驚くようなことだった。
「えっと……。エシェル、前にも言ったけど、」
わたしは戸惑いながら返事をしようとした。魔力持ち同士は触れると暴走を起こすことがあること、だからその手袋が必要なことは説明していたし、それを理解しているからこそエシェルは今までそうしてくれていたはずだった。
今更どうしたのだろうと不思議に思ったけれど、わたしがもう一度説明しようと口を開いた時には、先にレイリが口を開いていた。
「どうするんだ?」
レイリの声はどこか、いつもわたしへ向けられる声よりも柔らかいように聞こえた。やや離れたところでわたし達を見下ろすように立っているレイリから、圧迫感のようなものも感じられない。
「あのね、こう、包めばいいと思うんだけど……」
レイリとエシェルが話をしているのは、見たことがなかったような気がして珍しいなと思った。エシェルが起きるときにはもうレイリはいないし、レイリが帰ってくるのはエシェルが眠ってからだ。
けれどエシェルは特別レイリを怖がることもなく、レイリを見上げて話し始める。
「包む?」
わたしが尋ねれば、エシェルはどこかもどかしそうな顔をした。頭の中にあるものを、うまく言葉にできない様子で。
「そう、僕を包むか、トウノを包むかは……やってみないといけなくて」
抽象的なその説明は、正直なところわたしの頭では理解ができなかった。けれど、レイリは「あー」と小さくため息のようなものをついた。
何かピンと来たのだろうか、とレイリを見上げると、レイリはわたしではなくてエシェルを見ていて。
「……燈乃より前に、こっちで試せ」
レイリはそう言ってから、エシェルとわたしの近くへとやって来た。わたしの隣にしゃがみ込んで、エシェルと目線を合わせる。
「抱きしめなくても、手で良いだろ」
自分の左手を、レイリはエシェルへと突き出す。その薬指にわたしと揃いの指輪が光るのが見えた。
差し出されたその手に、エシェルは少し不満そうな顔をした。けれど、エシェルが何かを言う前にまた口を開いたのはレイリだった。
「お前が大好きな燈乃を傷つけたくないだろ、何かが起きても俺ならどうにかしてやれる」
エシェルは、ちらりとわたしを見た。その視線が大丈夫なのかと言っていて、わたしはこれから何が行われるのかは分からないままに、けれどレイリがそう言うのならたぶん大丈夫なのだろうと頷いた。
わたしが頷いたことを確認してから、エシェルはレイリの手にそっと自分の手を近づけた。
「燈乃は下がって」
レイリはわたしをちらりと見てからそう言って、わたしは言われた通りに二人から距離をとる。
どうやら二人が触れようとしているらしい、というのは分かった。つまり、防護手袋なしで触れる実験をしようとしているということだ。
エシェルの手はレイリに触れる前に止まって、エシェルはそこで目を閉じた。集中しているその顔を見て、わたしには緊張が浮かんだ。我が子を見守るような気持ちもあったし、触れて暴走したらと心配するような気持ちもあった。レイリとエシェルの魔力量を考えたら、暴走はかなり規模のものが起きるだろう。けれどレイリはエシェルをホームに連れてくる時にその場で暴走する魔力を吸収していたし、おそらく大丈夫なのだろうとは思ったけれど。
エシェルがぱちりと目を開くと、じわりと魔力が漏れたような感覚が広がった。まだ完全に制御できていない魔力持ちは魔力を少し漏らすことがある。エシェルは今までそんな風になったことがなかったのにと思ったけれど、おそらく触れるための魔力量が比べ物にならないくらい多いのだろうと気がついた。
「触るね」
すっと動いたその手が、ゆっくりとレイリの手に近づいて。そして、二人の手が重なったように見えた瞬間、バチリという大きな音と同時に青い光が爆ぜた。
自分の身体がびくりと揺れて、けれどその衝撃はすべてレイリの手のひらへと瞬時に吸収されていた。
そしてエシェルは、その場で固まっていて。
「びっくり、した」
小さい声は、やや放心しているように聞こえた。あの日、エシェル自身が暴走を起こした時はきっとその衝撃をきちんと認識できないような精神状態だったのだろう。
「今のは自分を包んだのか」
その衝撃に全く動じていないレイリが、エシェルにそう尋ねた。
その内容から、エシェルの身体を自分の魔法で包んで防御層のようなものを作り出そうとしたのだと、わたしはやっと理解し始める。
「うん、でも失敗だった」
「今ので魔力使い切ったか?」
「ううん、まだあると思う。……今度はレイリを包んでみても良い?」
レイリは頷いてまたその左手を差し出した。たぶん、人をひとり包むには相当な魔力量が必要になる。普通の子どもではそもそも不可能だ。大人であっても、部屋に結界や防御魔法を簡単に施せるレイリは本当に異次元の魔力量を持っているのだ。わたしは自分で結界を張ったとしたら、その後しばらくは魔力が使えなくなるはずだ。
けれどエシェルは、まだ余裕という表情をしていて。わたしはふたりの魔力に怖さすら感じていた。
「もう一回するね」
そう言ったエシェルが目を閉じればその周りにまたじわりと魔力が漏れて、エシェルの目が開かれるとまた二人の手が重なった。
衝撃が来るかと、わたしは身構えた。けれど、二人の手が触れたのが見えても、全く何も起こらなかった。ただ、じわりとエシェルの周りに少し魔力が漏れているだけ。
成功なのだろうか、と恐る恐るエシェルの顔を見れば、その目はいつも以上にぱっちりと見開かれていた。どこか興奮したような、キラキラとした表情だった。ふだんふんわりと笑うことの多いエシェルの初めて見る表情に、わたしは少し驚いていた。けれどその顔はどこか、あの日に「来るな」と叫んでいたエシェルの表情と重なった。そうか、エシェルは興奮しているのだ。
「トウノ!」
エシェルはふつりと唐突に魔法を止めて、キラキラした目のままでわたしの方へと駆け寄った。それを見たレイリはふうとひとつため息をついてから、しゃがみ込んでいた姿勢からすっと立ち上がる。
「できたよ!」
勢いよく迫ってくるエシェルの顔には驚いたけれど、同時に微笑ましさも感じた。
「できたね、嬉しいね」
わたしの声にエシェルはにこにこと笑って、わたしはその顔に愛おしさを感じた。
「トウノ、ぎゅってして」
そう言うと、エシェルは一度目をつぶった。それからその大きくて青い目がぱちりと開かれたと思えば、同時にわたしの身体を温かさが包んだ。
同時に目の端で、レイリの視線が少しだけ鋭くなったのが見えた。おそらく、エシェルが失敗した時のことを考えているのだろう。
「トウノ」
その温かさが全身を包んでから、エシェルは甘えたようにわたしの名前を呼んだ。けれどどこか強く響いたように感じて、エシェルがいつもよりも高揚しているのだろうと分かった。
わたしは一歩、エシェルに近づいて。
指先で、できるだけ丁寧にと思いながらエシェルの頬を撫でた。触れた肌は、とても柔らかかった。
触れることができたのだ、エシェルに。
それは、わたしにとっても嬉しいことだった。頬の感触を確かめてすぐ、わたしはエシェルをぎゅっと抱きしめていた。
そしてすぐに抱きしめ返されるその力の強さに、わたしは泣きそうになっていた。




