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41 「どこにも行かない?」

「トウノ、トウノ」


 高めで可愛らしい声が聞こえて、わたしは振り返った。ここ2週間ほどでだいぶ耳に馴染んできたその声は、真っ直ぐにわたしを求めていた。


「エシェル、おはよう」


 名前を呼べば安心したようにホッとした顔を浮かべて、エシェルはわたしの洋服のすそをつかんだ。その手には、医療用の防護手袋がはめられている。相性の悪いエシェルとわたしは、何もなければお互いに触れることができない。けれど最近ずっとわたしに付きまとっているエシェルはどうしてもわたしに触れたいようで手を伸ばしては引っ込めて、引っ込めては手を伸ばしてをここ3日繰り返していた。この手袋はそれを見ていたレイリがどこかから調達してきたもので、昨日の夜に複雑そうな顔をしながら、エシェルに渡していたのだ。


 10歳にしては甘えん坊のような気がすると思いながら、けれど色々なことがあったし、何かの反動なのかもしれないとわたしの中ではどこか納得できるような気がしていた。



 あの日から、2週間が経とうとしていた。


 エシェルはあの後、目を覚ますと落ち着いた様子を見せていた。何が起きたのかも分かっているような雰囲気で、こちらが少し戸惑うくらいに淡々としていた。身体についた傷もある程度はレイリが治していて、けれど完全に治すためには時間が必要だった。エシェルはしばらくの間安静にしている必要があって、一日中ベッドの上で過ごしていた。

 その青い目はどこか冷めていて、子どもらしくないな、とは思ったけれど、そういう子どももいるかもしれないと大きくは気にしていなかった。


 そして研究所へと行かなくなったわたしは大体エシェルの様子を見ながら過ごして、けれど何も求めてくることはないエシェルに対して、何かを積極的にすることもなかった。研究所での対象としてしか子どもとは関わったことがなかったし、どうしたら良いか分からないという気持ちもわりと大きかった。



「ホームでの仕事って、何ですか?」


 ホームで過ごし始めて1週間ほど経った日。エシェルの様子を見ている以外に、何か自分にもできることはないのだろうかと思い立って、夜にホームへと帰ってきたレイリにわたしはそう尋ねた。

 レイリは「一言では言いにくいけど」と少し考えてから口を開いた。


「白と黒の性質を把握することと、それが今どうしてこうなっているのかを調べてる。アルジは、白でも黒でもないんだ。アルジ曰く、白と黒は元々はっきりと分かれていたわけではないらしいから」


 初めて聞くその話をすぐには飲み込めなかったけれど、レイリはさらに話を続けた。


「あとは諜報的な活動。俺は白の上部組織に取り込まれているから、そこでの動きを見てるし、そういう白の協力者は他にもいる。あとは、人間側の情報を取り込もうとしている人間もいる」


 つまりざっくりと言えば、現在の制度をどこから崩すかを考えるための情報収集をしているということらしかった。そのために人間側、魔力持ち側それぞれの動きと、今後変化させるとしてどういうことが可能なのかを検討するために、白と黒についてできる限りの情報を把握しようとしている、ということらしい。


 それを聞いて一応は理解できたように感じたけれど、では自分には何ができるのか、ということは全く思いつかなかった。


「……わたしに何かできることは……」


 レイリにそう聞いても、レイリも思いつかなかったのかもしれない。レイリは渋い顔をして「また必要な時に実験させてくれ」と言うだけで、特にわたしにできることはないのかもしれないと少し落ち込んだ。



 けれど、すぐにそんなことを言っていられない状況になった。どうしてかと言えば、あれだけ静かに過ごしていたエシェルが、発作的に泣き出すようになったからだ。


 わたしはホームでの仕事は思いつかなかったけれど、ホームに来た次の日から小会議室のような部屋を生活するスペースに改造するために、毎日ちまちまと作業をしていた。

 エシェルのいる医務室から少し離れたその部屋で日中作業をしていた時のことだ。

 うわああん、と、聞こえてきたのはそれまで聞いたことのないような大きな泣き声だった。一瞬何が起きたのか理解できず、けれどホームにいるのはエシェルとわたしだけのはずだった。エシェルだ、というのは直感的にも状況的にも分かった。


 とにかく何があったのか確かめないといけないと、緊張しながらエシェルのいる医務室へと走って向かえば、エシェルはベッドの上で顔をぐしゃぐしゃにして大泣きしていた。


「エシェル?!」


 わたしがすぐにベッドまで駆け寄っても、エシェルの表情はぐしゃぐしゃのまま、わたしの声に反応することすらなかった。エシェルにどんな声をかけても、近づいても離れても、それは収まらなかった。傷のあったお腹に手を当てて、うずくまりながら大きな声で泣き続けたエシェルは泣きすぎて吐いたりして、最終的には体力を使い果たして眠ったのだった。



 研究所から帰ってきたレイリに事の次第を報告すると「フラッシュバックだろうな」と言われたけれど、どう対処するべきなのか、わたしには分からなかった。

 どうしようか、と考えていれば、レイリが機嫌の悪そうな表情を浮かべたことに気づいた。


「あんたが巻き込まれるのが一番良くない」


 レイリはまるでエシェルの部屋に入るなとでも言うようにそう言った。

 

 けれど、結局、わたしにはそれはできなかった。エシェルは気づいたら泣いていて、わたしは反応すらされないのを分かっていても、エシェルのそばにいてその名前を呼び続けていた。

 そういう日が、数日続いていた。どうやら目が覚めた時に夢見が悪いとそうなるのだということは分かってきていたけれど、それが分かったところでわたしにはなす術もなく、触れられないために抱きしめることもできず、ただただもどかしさが募っていった。

 けれど4日間それが続いた後、5日目にエシェルはその発作中にわたしの存在を認識したようだった。前触れもなく、唐突なできごとだった。


「おねえさ、おねえさん、」


 うわごとのように泣きながら繰り返されるそれは、間違いなくわたしを呼ぶ声だった。


「エシェル、ここにいるよ」


 声をかければエシェルはしゃくりあげながらやはり涙は止まらなかったけれど、じっと隣で名前を呼び続ければ、少しずつその激しい泣き方は収まっていった。

 それからしばらくベッドの脇にいれば、エシェルはしゃくりあげる合間にぼんやりとした目でわたしを見上げて、「僕を、助けてくれたの……?」と小さな声でつぶやいた。それは、あの日、エシェルが言った言葉と同じだった。



 その日から、3日後の今日まで。エシェルは意識がある間中、片時もわたしのそばを離れようとしなかった。


「トウノ」


 わたしの名前を呼ぶその声も耳に馴染んできて、わたしを求めるエシェルの姿はとても可愛らしかった。そもそも他人と関わることをそれほど求めてこなかった人生だったけれど、これが母性というものなのかもしれない、とわたしは思っていた。


「どうしたの、エシェル」


「今日も、どこにも行かない?」


 眉を下げてそう尋ねてくるエシェルをやはり抱きしめたくなるけれど、必死にわたしはその衝動に耐えた。エシェルもわたしと手をつなぎたがったけれどいつもすぐに手を引っ込めて、むやみに触れてくることはなかった。もしかしたら、今まであまり周りの大人とも触れ合ってこなかったのかもしれない。

 泣きながら「お母さん」と「ごめんなさい」をおそらく無意識に繰り返していたエシェルの、トラウマはやはり母親のことだろう。最初は思い出させない方がいいのか、それとも受け止めた方が良いのか迷っていたけれど、エシェルの方から何かが出てきたときには受け止めようと思うようになっていた。


「大丈夫、ここにいるよ。今日もお部屋の改造するけど、エシェルも一緒にする?」


「うん、する。トウノ、手、繋いで?」


 ぱっちりとした可愛らしい青い目に今日も手を求められて、わたしは防御手袋のはめられたエシェルの手を握った。直接触れられるわけではないのに、それでもエシェルは嬉しそうな顔をするのだった。

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