37 泣かせてやりたい
Side レイリ
「わたしは、どうなっても良いから」
彼女が必死の形相で言ったその言葉に、無性に腹が立った。
その口から出てくるのは、ひたすらにあの子どもを守ろうとする言葉で。なぜだかは分からなかったけれど、そのことが自分の知らない感情を引き出しているのだということを理解することはできた。
*****
それ自体はあいつらしい、と思ったような気がする。
黒としての魔力が増えている今でこそ彼女はうじうじとしていることが多いし、元からそこまで明るくはないにせよ、同じ研究室所属の同僚として過ごす中で落ち着いた愛情を持ち合わせた人なのだろうということは感じていた。
そしてこちらの脅迫から始まった無理矢理だったはずの秘密の共有にしても、関わるようになれば決して態度の良いとは言えない俺のことすら気にかけているのだと感じることも多かった。
利害の一致もあっただろうけれど、感じたことのないような温かさが彼女のそばにはいつもあるような気がしていた。
白の魔力持ちというのは、絶対的に良いものとされている。
人間にとってという意味が強いけれど、おそらく黒からもそう思われているのだろう。
強い魔力は人間生活の役に立つし、白は暴走も起こさなければ表立って感情にとらわれてトラブルを起こすこともない。
黒は厄介で悪いものとされて、反面、白は善良なものとされる。
けれど、それは本当は違うことを、魔力の強い白は知っている。
確かに白は自己暴走を起こさない。そしてそれは、自身のコントロールができているから、とされているけれど。違うのだ。
そもそも暴走を起こせるほどの魔力を持つ白には、コントロールが必要なほどの感情そのものが、ない。
知識的な理解はしていたけれど、自分の感情というものを俺はこれまで実感したことがなかった。
それに変化が起きたのは、初めて彼女の魔力の吸収をした直後からだった。
俺の中には、初めての感覚があった。ぐっと胸が重くなるようなそれがなんなのか、初めは分からなかった。けれど何度か彼女の吸収を請け負う内に、それは彼女自身の感情なのだということが分かるようになった。そして、それまで彼女に近づいた時に感じていた不思議な感覚も、それであることに気づいた。
彼女は素直だった。
表面上はそこまで豊かな表現はしないし、俺が近づいた時にはいつも難しそうな顔をしていた。元々俺のことを良く思っていないのだろうということは知っていたけれど。彼女はいつも自分の感情を否定していなかったし、負の感情が湧き出たとしても、それが自分のものであることを受け止めていた。
近づけば彼女の感情をかなり鮮明に感じ取れることを理解してからは、いつも色々なことを感じている彼女に興味を抱いた。一般的な人がおそらく感じているのであろう感情を、俺が感じとれるのは唯一、彼女と関わった時だけだったから。
そして実験的に関わっていけば、1度吸収をしても彼女の感情が永続的に感じられるというわけではなくて、時間が経つにつれて、彼女から感じとれるものは減っていくということが分かってきた。おそらく、吸収した彼女の魔力が俺の中にあるときは彼女のことを感じ取りやすくなるのだろうという仮説が立った。
そしてそれとは別に、互いの魔力の相性はおそらくこれ以上ないくらいに良かった。一般的には番と呼ばれる立ち位置なのであろうということも感じていて、その相性の良さから彼女の魔力が自分の内にない状態でも、物理的に近づけばぼんやりとした彼女の中のものを感じ取れるのだということもはっきりと分かってきていた。
俺は、自分の中には存在しなかった感情というものを、彼女から受け取ることで初めて認識していくことになった。
白と黒の特徴を指して、「陽の性質」「陰の性質」という説明をされることがよくある。
黒についての「陰の性質」というのは、その面もあるのは事実だろう。彼女を見ていればネガティブに考えることも多いようだし、魔力が増えるにつれてその傾向は強まってきているように感じていた。そしてその強い感情の結果、暴走を起こすことだってあり得る。
けれど、白についての「陽の性質」というのは、明らかに間違った認識だった。
白の魔力持ちには、ネガティブな感情はない。そして同様に、ポジティブな感情もないのだ。
魔力が強ければ強いほど、それは顕著に表れる性質のようだった。
陰と陽は、それがそろって初めて完成するものだ。陽がなければ陰はできない。影のできない光など、あり得ない。
そのネガティブな感情があるからこそ、ポジティブな感情もあるのだ。その対になったものは、片方だけでは存在し得ないものだろう。
白にあるものは、『無』、そのものなのだろうと思う。
もちろん、そこまで魔力の強くない白にはある程度の感情はあるのだろう。浅倉や寺波を見ていても、彼らには感情があるようだった。ただ特に自分が、無の傾向が強いだけなのだろうと思う。そしてこの国を担う特に優秀とされている白は、おそらく俺と同じような傾向を持っているはずだった。
他人になったことはないから正確には分かるわけがなかったけれど、魔力が強ければ強いほど。つまり、役に立つとされる強い白ほど、おそらくそういう傾向がある。
だからこそ、重宝されて上に立つ白は、これまで人間に歯向かわずに来たのだ。
俺にとっては生まれてからこれまで、無であることが普通だった。
嫌だと思うことも、苦しいと思うこともなかった。例えば生まれが複雑でも、力の強さ故に汚れ仕事を任されても。本能的に快・不快を感じることやちょっとめんどくさいかもしない、くらいの気持ちはあったけれど。
場面に合わせて適切な行動を選んで、その場でどう振る舞えばその依頼の利益に最もつながるかを考えた。それをすることを求められてきたし、それが当たり前だった。自分のことを、自分のためにと考えたことなどなかった。
そして、同時に、そこには嬉しいとか楽しいとか、そういうものも存在しなかった。ただそうあるべきとされて、そう在っただけだった。
けれど、彼女の魔力を定期的に自分の内側に取り込むようになってから、じわりと変化が訪れた。
俺のものではない、けれど明確に何かを感じている感情を、俺はそこで疑似体験することになっていたのだと思う。
苦しさ、恥ずかしさ、怖さ、痛み。
高揚、優しさ、穏やかさ、欲望。
そして、彼女はいつも俺のことを気にかけていた。俺の気持ちを。俺の動きを。それは俺が怖いからなのかもしれないし、彼女が俺のことを嫌いだからなのかもしれないけれど、俺自身のことを、力や身分や見た目ではなく、本当に俺自身がどう考えているかということを、それほどまでに気にされたことはこれまでになかった。
俺は徐々に、けれど明確に、他の誰にも抱いたことのない何かを、彼女に抱くようになってきていた。
あの子どもへの気持ちは、なんて呼ぶのだろうか。
繰り返されるその彼女の感情の体験に、最近徐々に自分の中にも感情と呼ばれるようなものが湧き始めていることを感じていた。
ああ、彼女の世界は。
自分以外の世界は、こんな風に広がるのかもしれない。
驚きと同時に、なんて厄介なものなのか、とも思ったけれど。
自分自身が少しずつ持ち始めた落ち着かなさの反面、穏やかさのようなものも感じていて。だから、それを手放したくないとすら、もしかしたら思い始めていたのかもしれない。
「わたしは、どうなっても良いから」
その言葉に、無性に腹が立った。これは怒りだ、と、自分の中に湧く感情を明確に認識したのはおそらく初めてだった。それから、泣かせてやりたいと思ったような気がする。けれど今度のそれがどんな感情なのかは、全く分からなかった。
ぐっと、黒いものが湧き出したのは分かっていた。厄介だ、と思った。
どうしてそんなことを言うのか、俺はあんたの契約相手なのに。
出会ったばかりのどこのどいつかも知れないあの子どもに、どうしてそんなに肩入れするのか。
俺が必要だと思い始めたあんたを、どうしてあんた自身が軽んじる。
ここまでかき乱しておいて放り出そうとするなんて、俺のことを、なんだと思っているのか。
俺は、あんたにとってもう必要ではないのか。
泣かせてやりたい、俺があんたの番だと、思い知らせてやりたい。
感じたことも扱ったこともないその感情は、気づけば初めて自分の行動を乗っ取っていた。彼女が感情で動いてしまうことを、あれだけ厄介だと思っていたはずなのに。
気づいたらその苛立ちのままに、俺は燈乃の唇に自分のそれを押し付けていたのだった。




