32 「来るな……!」
その子の動きは俊敏だった。建物の陰から陰へと走り、わたしはそれに置いて行かれないようにとなんとか後を追った。3回ほどそうして走ったあと、路地の奥でその子の身体がガクンと、いきなりその場に崩れ落ちるように揺れたのが見えた。
「大丈夫?!」
わたしはやっと距離を詰めることができた。普段走ることなんてないわたしは肩で息をする。けれど、それを落ち着かせている余裕などわたしにはなかった。
青白い顔は血の気がない。なのにじろりとわたしを睨むように見るその瞳が痛々しかった。その瞳がこちらへ来るなと訴えていて、わたしは距離を詰めすぎずに一度立ち止まる。
「……おまえも、おれを捕まえるのか」
その言葉からも、おそらく誰かに追われているのだろうということは推測できた。そして薄汚れたその姿から、もしかしたら先ほどの爆発音と関係があるかもしれないということも。
「……何があったの?」
わたしはゆっくり、そう問いかけた。
「……」
彼はじりとわたしを睨んだまま、何も言わなかった。けれど一度倒れた身体は立ち上がる気力もないようで、わたしが少しずつ距離を詰めてみても、今度は何も言わずにそこで身体を硬くして逃げようともしなかった。
じゃり、と足元が音を立てた。周りは混乱した人たちの声や足音で騒がしいのに、ここだけはやけにしんと静まり返っているような気がした。
じわりじわりと圧迫感と恐怖を与えないようにと思いながら近づいて、最終的にわたしは彼のそばに膝をついた。その間一度も外されなかった彼の視線に、わたしは少しだけ苦しさのようなものを感じていた。
黒かもしれない。
共鳴はしていなかった。けれど、黒の庭で中てられた時と似ている感覚が、わずかに自分の身体の中に湧き出していた。記憶にある感覚に、この子は黒かもしれないと思った。
元々の肌も白そうだったけれど、失血しているためなのか余計に青白い顔に、どうにか温かさを分けなければとわたしは彼の額に手をかざした。わたしの手から光がふわりと彼に移って、それは彼を包み込む。
何をされるのか一瞬分からなかったのであろう彼は、身体もっとを硬くして目をギュッとつぶったけれど、すぐに少しだけ目が開いて、身体からも少しだけ力が抜けたように見えた。一瞬視線がわたしをかすめて、けれど今度はわたしを睨むことなく、またゆっくりと目は閉じられた
その素直な反応に、余計にわたしは胸を締め付けられるような感覚になった。
「……寒い?」
わたしが聞けば、ゆるりと開かれた瞳はやはり青かった。綺麗だなと思いながら、けれどどう見ても人間寄りのその見た目に、わたしは正直驚いていた。
「……ちょっと、あったかく、なった」
先程までの力の込められた目ではなくて、もう何かが途切れそうな目だった。その声も、細くて小さい。
「……ちょっとごめんね」
わたしがそう言えば彼はまたすぐに目を閉じた。目を開けているのもしんどいのかもしれない。わたしはまた、彼の額に手をかざして、魔力をゆっくりと自分の手に集めた。それから彼の中にそれを流し込むようなイメージで、探知の魔法を起動した。
この子が本当に魔力持ちなのかが分からないと、対処がしづらい。わたしはいつも研究所で子どもたち相手にやっているように、彼の中を魔力で探知をし始めた。
ブーンという低い音を立てて彼の身体にわたしの魔力が入ろうとすれば、ぐっと反発が返ってきた。相性の良くない魔力持ちの探知をする時は、こうなることがよくあった。レイリに探知をされる時のびりびりとする刺激のような感覚とはまた違って、とにかく魔力がその器に入り込みづらいような感覚だった。
相性が良くないということはつまり、この子がそもそも人間ではないことを意味していた。この子は魔力持ちなのだと、わたしはそこで確信を持った。
その反発の力に耐えながら、わたしはじりじりと探知を続ける。そうすると、身体の傷がまず気になった。血が滲んでいる洋服の下はそれなりの出血量のようだ。そしてそれ以外にも、身体にたくさんの傷があった。爆発でついたと思われる新しいものが多かったけれど、中にはそうではない痣のようなものもあるようだった。
たぶん、日常的に暴力を受けているのだ、とすぐに気がついたけれど、それを悲しむような余裕は今のわたしにはなかった。混血として生まれて、人間の中で生活していればそういうことが起こりうる。人間として生まれるよりも、ずっと高い確率で起きてしまう。残念だけれど、それが現実だった。
けれどそのすべての事情を含めても、胸が痛い気はした。
それから、わたしはじわりと意識を身体から内側へと移した。魔力の保有量はそれなりに多そうだった。そして、その魔力自体はどちらかといえば陰の気質を強く持っていそうに感じた。おそらくやはり、この子は黒なのだろう。
胸の魔力紋を見ればより確実に判別ができるけれど、今はそこまでする必要もないと思った。服を脱がせて身体を冷やさせてまで、そんな情報は必要ない。
「ごめんね、おしまい」
わたしがすっと魔力を手元に収めれば、閉じられていた目が同時にぴくりと震えて開きかけた。けれど、うっすらと開いたかと思えばまたすぐに力尽きたように閉じられる。はあはあと荒い息が聞こえて、わたしはその子を思わず抱きしめたくなった。
けれどいくら触れたくても、おそらくわたしとの相性が悪いこの子に触れるわけにはいかない。大規模な暴走を起こしうる魔力量のある子どもであれば特に。
先ほどよりも状況を把握できたわたしの頭は、先ほどまで余裕がなくて考えずにいられた、この子の境遇についてを考え始めてしまっていた。
頭では分かっている。人間社会の中で魔力持ちの能力が表出されれば、普通の人間は気味悪がる。いくら人間の生活に欠かせない力だとは言っても、その圧倒的な数の中では異端でしかないのだ。近くにいれば、何かされてしまうのではないかという恐怖が湧くのだろう。このくらいの子どもの社会の中であれば、尚あからさまであることは想像がつく。
それに、魔力持ちについて理解のある親なら良いけれど。片親が魔力持ちならば理解も得られて大概なんとかなるものの、その性質が隔世遺伝的に伝わってしまうと、両親ともに魔力持ちではない場合がある。その環境はおそらく、子どもにとっては地獄のようなものになるだろう。
この子がどんな環境にいるのかは分からない。けれど、身体に残る跡と誰も信じないと言うような目は、わたしの想像を悪い方向へと導いてしまった。ほとんど人間しかいない街にいることも、魔力持ちに理解のない家の子なのではないかという心配を掻き立てた。
はあ、とわたしは震える息を吐いた。その上、この子は黒なのだ。ここで見つかってしまったら、この子は――。
「エシェル……!」
静かだった空間に、突然怖いくらいの大きな声が響いて、わたしは咄嗟に彼を隠すように身体を動かそうとした。けれどそれよりも早く、彼はびくりと身体を震わせてその場に立ち上がっていた。あんなに満身創痍で、そんなことができるのかと、わたしは目の前にいるその子を見て驚いて数秒固まった。驚きよりも、怖さのような感情だったかもしれない。
「来るな……!」
そして聞こえたのは、悲痛にも聞こえる、彼がすべてを拒否するような声だった。
そしてそれと同時に、わたしはじわりと湧き上がる吐き気とめまいのような気持ち悪さを感じたのだった。




