27 そんな権利はないのに
「レイリに、メリットがないような気がするんですけど……」
しばらくの沈黙の後、今度はわたしからレイリに話しかけた。レイリはどこか気まずそうな顔のままそこにいて、何かを話す気配はなかった。だから、わたしが口を開かざるを得ないような気はしていた。
「……メリット?」
わたしの言葉を聞いたレイリは、思ってもいなかったというような顔をした。レイリにしては珍しいハッとしたような表情だった。
その後をどう言えばいいのかと迷ったわたしはすぐに言葉を続けられなかったけれど、今度はそんなに間を置かずに、レイリが話し始める。
「……今更だけどあんた、そういう相手はいるのか」
けれど、聞こえてきたのはわたしの質問への答えではなくて、わたしに対しての質問だった。
「いや、わたしはいませんけど……」
返答はそこそこに、わたしはそれよりもレイリのことが気になった。今までもなんとなく感じていたけれど、レイリが、あまり自分を大切にしていないような気がして。
そんなに簡単に契約をすると言うなんて、今後もきっと貰い手のないであろう、人との交流のないわたしにはダメージはないけれど、レイリにはそういう相手もいるだろうにと思った。
「レイリこそ、そういうお相手はたくさん……」
わたしは単純に心配してそう言ったのに、レイリはなんだか嫌そうな顔をした。ちょっとうんざりしているというような表情だった。それからレイリはちょっとぶっきらぼうな声になる。
「そんな相手、いない」
その声にわたしはなんだかムッとして、反射的に言い返していた。
「でも、よくデートしてたじゃないですか、可愛い女の子たちと」
わたしがムッとするのもなんだかおかしな話だなと思ったけれど、それに気付いた時にはすでに言葉は口から飛び出していたから、もう仕方がない。
「あれは、仕事のうちで……」
「仕事?」
「いや、……あんたと付き合うことにしてからは、してない」
少し気まずそうな表情をしているレイリに、まるで恋人から浮気を追求されているような顔だと思った。そして、その顔をさせているのが自分だと気づく。わたしにはそんな権利はないのに、レイリが怒らずにわたしに返事をしているのが少し不思議だった。
少しだけ間ができてわたしは何と言うべきかと考えたけれど、答えが出ないうちにレイリは別の話題に自ら切り替えた。
「とりあえず、そろそろ吸収必要だろ」
「あ、」
前回レイリに吸収してもらってから既に一週間ほどが経っていた。レイリが黒の庭に出張に行くと言っていなければ、あの日お願いしようと思っていたところだった。
「……お願いします」
肌を見せることにはもちろん恥ずかしさがあったけれど、もうこれは必要なことなのだと割り切る気持ちも大きかった。わたしがレイリの顔を窺えば、レイリは「ああ」と言ってわたしに近づいた。また、ベッドがぎしりと音をたてる。
わたしの上に影が落ちて、わたしはそれにつられて上を向いた。レイリの顔が近くて、それにドキリとした。レイリもわたしの顔を見ていたようで、至近距離で視線が絡まる。自分が少し動揺しているような気がしたけれど、レイリは全く表情を変えなかったから悔しくなったわたしも表情を変えないようにと思った。
「ボタン開けて」
わたしが着ていたのは、部屋着にしているカジュアルな前びらきのシャツワンピースだった。レイリの指がその第一ボタンに触れて、けれどレイリはそのボタン開けようとはしなかった。
わたしは何も考えないようにと思った。わたしだけが動揺しているような、恥ずかしいと思っているような。そんなの、とても悔しかった。
気持ちを悟られないようにと思いながら、わたしはゆっくりボタンを開けた。上から一つ目、二つ目と開いてレイリをまた見上げれば、レイリはわたしの胸元に手を近づける。そしてそっとわたしの肌に触れてから、おそらく第2ボタンまででは開き具合が足りなかったのだろう、今度は自分で三つ目のボタンをプツリと開けた。
心臓がドキドキしている。自分ですぐにそれは分かった。そして頑張って表情を取り繕ったところで、レイリに触れられてしまえばそれは一瞬で伝わってしまうではないかとその時に気づいた。
けれどもう、レイリはわたしに触れていた。わたしはぎゅっと目をつぶる。何も感じないようにと思ったからだった。
けれど、それはすぐに失敗だったと分かった。見えない方が、その感覚を強く浮き上がらせることに気付いたから。
レイリの手はとても冷たい。いつもそうだけれど、今日もそうだった。そして、その手はすぐにわたしの魔力紋を探り当てる。ブーンとかすかな音がして、魔力紋がじりと熱を持った。わたしの中にあった何かが軽くなったような感覚がする。
ほんの数秒のことだ。すぐに、レイリの手はわたしの肌から離れた。
終わったことが分かって、わたしはまたレイリの顔を見た。レイリはわたしの顔を見ていなかった。けれど一度わたしから離れたと思った手がもう一度わたしのところへと戻ってきて、何だろうと思えばレイリはわたしのシャツのボタンを下から順番に閉めていく。
「……大丈夫なのか」
第一ボタンまで閉めてくれたレイリはそれからそう言った。主語のないその問いかけに何がだろうとわたしが思っていれば、レイリはどこか居心地が悪そうに、「いや何でもない」とわたしとは違う方向を見た。
その視線の先には、さっきレイリが入ってきた玄関の扉があって、レイリがそろそろ帰ってしまうような気がした。冷静に考えれば、もう用事がないレイリがここから立ち去るのは当然のことで。
そのことに、わたしは自分の中の感情が動かされたことを感じた。そしてそれが何であるかを考えるより先に、わたしはレイリの手に触れていた。
「契約、しますか?」
とっさに出たその言葉は、自分でも驚くくらいに冷静に響いた。特別何も思っていない、そういう風に取り繕えた気がした。わたしの内心はとてもじゃないけれど落ち着いたものではないのにと、自分が一番驚いていた。
レイリはいきなり触れたわたしに目を瞠りながら視線を戻して、けれどすぐに「……ああ」と低く頷いた。
「……方法は知ってるか?」
尋ねられて、わたしは首をかしげた。
「お互いの、魔力紋に触れるっていうことだけ……」
互いの魔力紋に触れて何かをするということは知っていたけれど、実際にどういう風にするのかは知らなかった。
「そうか」
レイリはそう言って、さっき閉めたばかりのわたしのシャツワンピースのボタンにまた触れた。それからさっき閉めた時よりも素早く、また上から三つ目のボタンまですぐに開けてしまった。わたしは自分がどこか緊張していることを感じながら、けれどレイリに委ねようと思った。
それからレイリの手はわたしから離れて、自分のシャツのボタンを手早く外していった。レイリはシャツの下にTシャツを着ていて、シャツを脱ぎ終わると私の目の前でTシャツも脱いだ。意外と引き締まった身体が急に目の前に晒されて、わたしは思わず固まった。背は高いけれどそこまでがっしりしているイメージもないその身体は、もう少しひょろりとしていると思っていたけれど。
そしてすぐに目に入ったのは、胸に刻まれている、かなりはっきりとした白の魔力紋だった。
「触って」
魔力紋を見ていたわたしに気づいたのか、レイリはわたしにそう言った。わたしは恐る恐るそのレイリの肌に触れる。固くて、温かい。
そっと触れたつもりだったけれど、レイリの肩がピクリと揺れた。何かまずかっただろうかと思ったけれど、レイリの顔を窺う前に今度はレイリがわたしの魔力紋に触れた。予想はしていたのにその冷たさにビクリと体が揺れる。レイリはそのことは特に気にした様子もなく、また端的にわたしに指示を出した。
「魔力、流して」
単純に魔力を流すだけで良いのだろうかと思いながら、わたしは言われた通りに自分の魔力をレイリの魔力紋に流し込む。魔法を発動するわけではないから、独特の低い音はしない。
わたしがこれで良いのかと思いながらレイリを見上げれば、顔が近くにあった。それからレイリはゆっくり口を開いた。
「本当に、良いのか?」
その声は、レイリらしくなかった。直接触れたところから流れ込んでくるレイリの中のものも、なんだか揺れているような気がした。
「……」
それは、レイリこそ。
そう思うと、わたしが流していた魔力が止まる。
自分の中にあるこの気持ちをたどれば、わたしはレイリと契約することが嫌ではないのだと思った。ただ、レイリにとってそれが良いことなのかは分からなかった。
脅迫されるような形で始まったわたしたちの今の関係性だったけれど、どちらかといえばメリットがあったのはこれまでもわたしの方だったような気がしていた。怖くて近づきたくないと思っていたけれど、本当はもうそうではないということを、おそらくわたしは知っていた。
わたしはそこで自分の気持ちと向き合わざるを得なかった。見捨てないで欲しいと思ったり、部屋に引き止めたり。自分でも驚いた行動の背後にあるこの気持ちがなんなのかはまだ理解が及ばないけれど、わたしはレイリといることを、おそらく望んでいるのだ。
「レイリが……、嫌で、なければ」
レイリの顔は見れなかった。怖いような落ち着かないような不思議な気持ちがした。
レイリ自身が怖いのではない。レイリにどう思われるかが怖かった。
けれどレイリはふう、と一度ため息をつくだけで、わたしを拒否するようなことは言わなかった。
「魔力、流して」
代わりに言われたのは、先程言われたのと同じ台詞だった。わたしはレイリの言うとおり、さっきと同じようにレイリに魔力を流し込む。すると、その下にあるであろうレイリの心臓が、ドクドクと脈を打っていたことに気づいた。
レイリは、自分の空いている方の手でわたしの空いている方の手首を掴んだ。予想外の行動にわたしがパッとレイリの顔を見ると、レイリもわたしを真っ直ぐ見ていた。
「流すぞ」
レイリはそう言って、わたしの中に彼の魔力を流し込んだ。
その瞬間。
ギュッと、心臓が縮むような感覚がした。ドクリと震えた身体はわたしの手首を掴んでいたレイリにぐっと引き寄せられて。互いの魔力紋に触れたまま、気づけばわたしはレイリの腕に抱かれていた。




