11 「まだ、隠しておけると思ってるのか」
首元にひやりとしたものが触れたのを感じて、すっと息苦しさもなくなったように思えた。覚醒しきらない意識の中で、久しぶりに平穏な心地がした。なんでだろう、と考えて、頭が痛くないのだと思いつく。
ああ、やっぱり頭痛いの、結構しんどかったんだな。
そう思いながら、わたしはまた眠りの世界に落ちていきそうになる。良い夢だな。
するりと冷たいものが頬を撫でて、それからまたわたしの首を撫でる。嫌な冷たさではない。ああ、身体が熱いのだと気づいて、その冷たさに思わずすり寄った。
ずっと、こんな平穏が続けば良い。
そう思いながら、わたしはまた意識をどこかへと潜らせた。
*****
目が覚めると、わたしは知らない部屋にいた。
まず目に入ってきたのは、見たことのない天井。顔だけを動かしてみれば、カーテンの隙間から穏やかな明かりが差し込んでいるのが見えた。朝日だろうと思われる眩しい光。
のろのろとした動作で、とりあえず上半身だけを起き上がらせる。かけられた布団はグレー。部屋の中を見回しても、色味はあまりない。
間違いなく自分の部屋ではなかった。はっきりとそのことを理解して、わたしの思考は止まった。
ここはどこだろう、何故知らない所に。夢のつづき、だろうか。
しばらくベッドの上で固まっていた。けれど、少しずつこれは夢ではないらしいということを理解せざるを得なかった。全く働かない頭をゆっくりと無理やり動かして、とりあえずまずはベッドから降りようと思った。
そしてその思考通りに布団から出れば、なんだかやけに身軽な感覚を得た。
違和感を感じて自分の身体を見下ろせば。
「え、」
あろうことか、自分が下着姿で寝ていたということを知る。わたしは驚きのあまり、その場で立ち尽くした。上下揃いの下着は、昨日自分で選んだ記憶のある飾り気のない黒い下着だった。
どういうこと、と混乱する頭で考えながら、はっとして自分の胸元に目を向ける。
心臓の上あたり。そこまで大きくはない膨らみの一部にかかる、その魔力紋は。
まずい。
わたしの肌には、自分でも久しぶりに見る黒の紋様が浮かび上がっていた。
時間はおそらく朝だろう、と思った。
毎晩欠かさず薬を飲んでいたために、黒の魔力紋は隠されていた。そのおかげで見た目は白に見えていたし、探知されても白として判別されてきた。けれどおそらくこの状況と記憶のなさから推測するに、わたしは昨夜薬を飲んでいない。
一番最後の記憶はなんだったかと、わたしは自分の記憶を手繰り寄せた。確か、えっと。
すると頭に浮かんだのは、記憶よりも先にレイリへの怒りの感情だった。そうだ、わたしはレイリに怒っていて……。けれど、今はその怒りよりも焦りの方が勝っていた。ゆっくりと慎重に記憶をたどれば、資料室でレイリと対峙していたことを思い出す。そうしたら、急に頭痛が激しくなって……。
それからどうなったのか、自分では全く思い出せなかった。わたしは困惑していた。ここがどこなのか、どうしてここにいるのか。
そして、じわりと冷や汗が浮かぶのを自分でも感じていた。
この魔力紋は、誰かに見られていないだろうか。
まずは隠さなければと反射のように思った。そして、持ち歩いていた薬があればすぐに飲まないと。
見渡せば、ベッドから少し離れたところに置かれているソファに、わたしのブラウスが畳まれているのが見えた。昨日着ていたのは生成りのブラウスに黒のジャケット、それから黒のレースでできたタイトスカートだった。ジャケットとスカートはどこへ、とまた見回すと、そちらはこの部屋唯一の扉の近くにハンガーで吊るされていた。
とりあえず、まずはキャミソールとブラウスを着た方が良い。そう思って、わたしはソファへと近づいた。手に取れば、間違いなく自分のブラウスだった。真っ白ではないその色を気に入って少し前に買ったものだ。
先にキャミソールを着たけれど、魔力紋はそれだけでは隠れない。次にボタンが丁寧に閉められた状態で畳まれたブラウスのそのボタンを、わたしは焦りながら外そうとした。いつもならすぐにできる作業なのに、こういう時は何事もうまく行かない。それはわかっていても、落ち着いてなどいられなかった。
それから、わたしはブラウスに手を通した。やけにしゅるしゅると衣擦れの音が耳に響いている気がした。
その時。
ガチャリと静かな音が背後から聞こえて、わたしは心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。心拍数が一気に跳ね上がる。
それは、その部屋に唯一ある扉が開いた音だった。ブラウスは羽織ったけれど、ボタンを閉じる時間はない。とりあえず、わたしはそれをかき寄せた。扉の方へ、顔や体を向ける勇気はなかった。その場で、どくりどくりとなる心臓の音を感じながら、わたしは硬直した。
「……起きたのか」
嫌な予感がしていた。そして、その通りだったのだろうと一瞬で理解した。聞き慣れたその声は、愛想のない響きで。
つかつかという足音も、最近はよく聞いている気がする。見て確認するまでもない、部屋へと入ってきたのは他でもなくレイリだ。
けれど怯えながらその足音を聞いていれば、それはわたしへと向かってきたわけではなかった。すぐにぎしりとベッドが歪む音がして、わたしはやっとその音の方向へ顔だけをかすかに向ける。
そこには、わたしに背を向けて座るレイリの後ろ姿があった。
「皴になると怒るかと思って脱がせた、早く着ろ」
言われなくても、と思いながら、とにかくここで言い合うのは得策ではないということは分かった。一刻も早く、わたしはレイリにこの胸の紋様に気づかれないようにここを立ち去らねばならない。
レイリのこの様子ならおそらく、わたしに手を出そうとしたとかわたしの身体をじっくり調べたとか、そういうわけではないのかもしれない。半分願望も込めて、とりあえずそう考えることにした。
前ボタンを閉めて、スカートを履く。できる限り防衛したくて、部屋の中は寒くなかったけれどジャケットも羽織った。
その間何も言わずにただそこにいたレイリに、今度はわたしから声をかけた。大丈夫、何も、レイリは見ていないはず。何度かそう自分の中で繰り返して、気づかれないように呼吸をしてからわたしは口を開いた。
「ここは……?」
とりあえずは自分の思うように、言葉は震えずに声になって一度安堵する。
レイリはゆっくりとこちらへと顔を向けた。服を着たことを確認するためかちらりとわたしを見て、それからレイリは立ち上がった。そしてゆっくりとした足取りでわたしの方へと近づいてくる。
「俺の部屋。資料室で倒れたのは覚えてるのか」
そうか、記憶がないのは倒れたからだったのか、と納得する。けれど、どうしてそれでわざわざレイリの部屋に、と疑問が浮かんだ。また、レイリが自らわたしを介抱しようとしたのだろうか。
「……医務班を呼んでくれればよかったのに」
わたしが不満げにそう言えば、レイリはやや嫌そうな顔になった。不愛想な顔とは微妙な違いだけれど、その周りに漂う圧が違う。わたしはレイリの目は見ないようにと、視線を下げた。
「医務班を呼べばリスクが高くなるだろ」
何気なく言われたその言葉に、わたしの心臓がドクリとまた大きな音を立てた。この人は、なんのことを言っているのだろうか。……まさか。
「リスクって…なんの」
ドクリ、ドクリと、大きな鼓動が響いた。この鼓動がレイリに聞こえてはまずい。治まれ、とわたしは念じる。けれど。
「まだ、隠しておけると思ってるのか」
わたしの揺らいだその声に、レイリははっきりとした声で言った。
そんなはずは。今まで必死に隠し通して来れていたはずなのに。
わたしは動揺していた。冷静でいるべき場面だとわかっても、それは治められなかった。
「だから、なんの、」
もう、終わりなのだろうかと思った。白として、わたしはもうここまでなのかもしれない。諦めのような気持ちがふと浮かんで、けれどそれでも自分が黒であるとレイリの前で直接認めることはできなかった。
レイリは、今度は何も言わなかった。けれど言葉を続けられないわたしをじっと見てから、ゆらりと更にわたしへと近づく。背の高いレイリは、わたしよりも間違いなく歩幅が広い。ドクリドクリとなる自分の心臓の音が酷く早くて、レイリの歩みはスローモーションのようにも感じられた。
けれどレイリは、それでも一瞬でわたしの近くまで来てしまったのだ。




