売られていくモノ(二)
(一体、なにがあったの……?)
父の手を取り、部屋の中に入るとテーブルの上には見たこともない具沢山のシチューが湯気を立てていた。
一日空腹で過ごしたミルティアナは、そこから目を離せないでいた。
白いスープの中に色とりどりの野菜と肉。湯気とともに、食欲をそそる匂いが部屋に充満している。
今日は誰かの誕生日でも、なにかの記念日でもない。
最も、そんな日であったとしても、この家ではシチューや、まして肉など食べたことはなかった。
少なくとも、そんなモノを食べたことがあるのはたった一度だけ。
母の働く店の老婆が連れて行ってくれた食堂で、食べた時だけだ。
もう味を思い出せないほどの昔であっても、ミルティアナはそれがどんなものより美味しかったことだけは覚えている。
「あ、あの……」
「ん-? どうしたんだい、ミルティアナ」
父や母のその優しさが怖い。ミルティアナの中でなにかが警告を発していた。
(なにかがおかしい)
ミルティアナにとって今までにない状況は、幸せなど優に通り越し、恐怖でしかなかった。
「ああ、そうだ。夕ご飯の前に、おまえに会いたいという方が奥で待っていらっしゃるんだ」
父の言葉に、血の気が引いていくのと同時に、恐怖の正体はこれだとミルティアナは感じ取った。
なぜなら、ミルティアナに会いたいなどという人など未だかつていなかったからだ。
豪華な食事、優しい家族、ミルティアナに会いたいという人。
日常とかけ離れたその全てが、ゾワゾワとしたなにかを連想させた。
「さぁ、ご挨拶しよう、ミルティアナ」
「……はい……父さん」
急に前を見ることが怖くなったミルティアナは、下を向いたまま歩き出す。
(怖い……)
その言いようのない恐怖は、母の店でよく感じていたモノにとても良く似ていた。
「すみません、お待たせいたしました。#これが__・__#うちの娘のミルティアナです」
奥へと続く扉を開けながら、父が向こう側にいる誰かに挨拶をした。
『これが』その言葉がミルティアナの心に突き刺さる。
まるでモノの様な扱い。そんなの前からずっと分かっていたことだ。
しかしいざ他人への紹介で、そのように言われるということとは、また別の話である。
「ほう、この娘が……ですね」
「ほら、ミルティアナ、きちんと挨拶をしなさい」
父がミルティアナの手を強く引き、自らの前に立たせる。
その勢いで、ミルティアナがよろけて倒れそうになっても、もちろん誰も気にはしない。
「ミ、ミルティアナです」
ミルティアナは恐る恐る、形だけの挨拶をした。
すると男は少し屈み込んだかと思うと、下を向いたままのミルティアナのあごを掴み上を向かせる。
恐怖から、ミルティアナの喉がヒューっという短い音を立てた。
(怖い……怖い……)
ミルティアナにはその場で泣きださなかったことを、褒められてもいいほどの衝撃だった。